案内 重見泰先生
日時 2月17日(日)10時
集合 近鉄橿原線橿原神宮前駅東口
行程 雷丘→飛鳥坐神社・飛鳥山口坐神社→酒船石遺跡→飛鳥宮跡→岡寺(遠望)→飛鳥浄御原遺跡(昼食)→ミハ山→飛鳥稲淵宮殿跡→坂田寺→都塚古墳→川原寺裏山遺跡→甘樫丘→橿原神宮前駅解散
神がいます所を古代の人々はカムナビといい崇高の念を抱いていました。万葉集には神名火を詠んだ歌が23首あります。古代の飛鳥にも神名火があり、山だけではなく川や淵にも神が宿ると考え、万葉集に遺されています。今回は万葉集に詠われた場所を検証し、カムナビ山の候補地を実景論的視点から案内して頂きます。 現在の神名火 『日本紀略』天長六年の項に「大和國高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社を同郡同郷鳥(とり)形山(がたやま)に遷す。神の託宣に依るなり」と書かれていて、飛鳥社は天長六年(829)に賀美郷甘南備山から鳥形山に遷座しており、元禄十一年(1689)に現在地に遷されました。本来鎮座していた「甘南備山」が古代の飛鳥の神名火山ですが、この移動によって元の「甘南備山」の所在が不明となりました。鳥形山は飛鳥池遺跡の西にある丘陵「ミノヤブ」で、現在、飛鳥寺の東側の丘陵上に飛鳥坐神社が鎮座しています。 万葉集の飛鳥の神名火 万葉集にはカムナビを詠みこんだ歌が23例あります。その表記には「神名火」「神名備」「神南備」「神奈備」「甘南備」などがありますが、以下では最も使用例の多い「神名火」と表記しておきます。 万葉集の神名火のうち飛鳥と特定できるものは13例あります。神名火は普通名詞ですが、飛鳥の神名火に関しては固有名詞化していて、「神名火」といえば飛鳥の特定の場所を想起することができたようです。飛鳥の神名火13例のうち10例が山ですので、飛鳥の神名火といえば山を中心とする特定の場所であったと考えられます。また、「神岳に登りて、山部宿禰赤人の作る歌一首」に「三諸の 神名備に 五百枝さし…」(巻3-324)とあるように、神名火山は神岳ともいいました。万葉歌には飛鳥の神名火の立地が詠み込まれていて、神名火の場所を特定するための条件として次の五つにまとめられています(岸1988・西宮1976)。
1 「明日香」の地域を全体的に展望しうる位置にあること(巻3-324)
2 飛鳥川があたかも神名火山の帯であるかのようにその麓を流れていること (巻13-3227・3266)
3 里に近いこと(巻7-1125,巻13-3303)
4 自然地理に適うこと(巻9-1761、巻13-3268)
5 近くに離宮があること(巻13-3230・3231)
さらに、飛鳥川の上流に渡された人工的な飛び石の石橋(イシバシ)が神名火山の枕詞になっていることから(巻13-3230)、神名火山は飛鳥川上流の山という固定観念があったことが指摘されています。そして、「葦原の 瑞穂の国に 手向すと 天降りましけむ 五百万 千万神の 神代より 言ひ継ぎ来る 神名火の 三諸の山は…」(巻13-3227)とあるように、飛鳥の神名火は神代より言い継いできた神聖な場所であり、それは古代の人々にとって守るべき対象でした。ですので、みだりに立ち入ったり、墓を造ったりすることはありません。亡き天武を想って持統が詠んだ歌に「我が大君の 夕されば見したまふらし 明け来れば問ひたまふらし 神岳の」(巻2-159)とあります。天武は飛鳥浄御原宮から朝に夕に神名火を眺めていたようです。(会報より) 「飛鳥」の範囲と神名火 岸氏は「飛鳥」の範囲について、「飛鳥」を冠した諸宮の位置の検討から、香具山南麓、大官大寺址付近から南、島之庄から橘寺付近よりも北の主として飛鳥川右岸の地域としました(岸1988)。その後の調査研究によって、北限は飛鳥寺の北側にまで限定されるようになっています。これによると「飛鳥」は飛鳥寺から飛鳥宮跡にかけての狭い範囲となります。この範囲は「真神原」と呼ばれた地域とほぼ一致し、「上桃原・下桃原」とともに今来漢人が居住した地域です。蘇我馬子の墓が「桃原墓」と呼ばれているように、「桃原」は石舞台古墳のある島庄一帯です。「飛鳥の真神原」(『日本書紀』崇峻元年是歳条)とあるように、「真神原」は飛鳥に含まれる地名です。つまり、飛鳥は「真神原」を含むさらに広い範囲の地名ということになります。古代の飛鳥を現在想定されている範囲とすれば、飛鳥には「真神原」以外の地域を含む余地はありません。本来の飛鳥はさらに南に広がる広域名称だったと考えるべきです。飛鳥の範囲をこのようにみるとミハ山を含む山塊を飛鳥の神名火と考えて問題はありません。周辺の山に古墳群が分布するなかでミハ山にだけ古墳がないのは神聖な地と認識されていたからだと思われます。桃原や真神原のように、ミハ山の東から南東にある阪田や稲淵も五世紀後半頃から今来漢人が居住し開発した地域です。阪田には鞍部多須奈が建立した坂田寺があり(『日本書紀』用明二年(587)四月丙午条)、稲淵は遣隋使南淵請安の居住地とされています。この阪田や祝戸の集落を見下ろすように巨大な都塚古墳が位置しています。同じように都塚古墳の方から眺めると、前方にみえるミハ山は見事な円錐形となって現れます。神名火として山形が重視されたならば、この方角からみえる姿に違いありません。ミハ山の東麓に飛鳥稲淵宮殿跡があります。飛鳥稲淵宮殿跡は、白雉五年(654)に孝徳の意に反して中大兄皇子が皇祖母尊(のちの斉明)や間人皇女、大海人皇子らを率いて難波から遷った飛鳥河辺行宮の候補とされています。これまでは「飛鳥」から外れた地域とみなされて飛鳥河辺行宮ではないという見解がありましたが、「飛鳥」がミハ山を含む地名であるならば否定する理由はありません。しかも飛鳥稲淵宮殿跡は飛鳥の神名火に位置することになります。飛鳥還都の頃に神名火に宮を造営できる人物を考えれば、中大兄や皇祖母尊を置いてほかにはいないでしょう。(会報より)
橿原神宮東口
近鉄・橿原神宮前駅前に157名の参加者が集合
歴史の原点!飛鳥は友史会でも人気のコース
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本日案内をして下さる重見先生
飛鳥の神名火山を探しに出発 14Kのコースを歩きます
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雷丘
「雷丘」説
雷丘説は、『日本書紀』雄略七年七月三日条と『日本霊異記』上巻「雷を捉ふる縁 第一」の説話がもとになっています。この説は契沖の『万葉代匠記』がその初見とされ、江戸時代から現代にいたるまで主要な説とされてきました。史料の内容は、いずれも雄略天皇が少子部(ちいさこべ)連蜾蠃(すがる)に神を捉えるように命じるもので、『霊異記』には鳴雷(なるかみ)の落ちた場所が雷岡だとあります。『書紀』と『霊異記』の説話を同一視したところから生じた説ですが、本来両者は異なる内容です。『霊異記』でナルカミを「鳴雷」と表記することや、「雷岳に遊びたまひし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌」「大君は 神にしませば…」(巻3-235)の例から、雷丘を神丘(神名火山)とみていた可能性は残りますが、規模が小さすぎるという問題があります。三諸や神名火に関する万葉歌に詠われた多彩な植物や動物、鳥などと結びつけることは難しいでしょう。また、飛鳥浄御原宮から離れすぎていることも難点です。(会報より)
雷丘へは急峻な坂を登っていく。
ロープの手摺が命綱
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本居宣長も登った雷丘
『菅笠日記』にここが飛鳥の神岳だと記す
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雷丘で重見先生の解説を聞く
背後(南)は甘樫の丘
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雷丘の西側。
7世紀代の小さい石室が3基見つかっている
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飛鳥坐神社、飛鳥山口神社に向かう。
木立の左側一帯が石神遺跡
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「天神山」説
(飛鳥坐神社・飛鳥山口坐神社→酒船石遺跡→飛鳥宮跡)
現在の飛鳥山口坐神社は飛鳥坐神社の境内社ですが、『延喜式』巻九神祇九神名上の高市郡五十四座に飛鳥坐神社とともにみえる大社であり、本来、飛鳥山口坐神社は飛鳥坐神社とは別の存在です。『延喜式』臨時祭 祈雨神祭八十五座にみられるので水神を祀っていたものと考えられます。飛鳥山口坐神社が現地に鎮座するようになったのは宝暦元年(1751)のことで、それまでは「飛鳥山裂谷」にありました。裂谷は酒船石のある丘陵の南側に入り込む谷「酒谷」です。酒船石遺跡のある丘陵は「天神山」と呼ばれ、斉明が造営した狂心渠を踏襲する中の川の水源となっています。ここに飛鳥山口坐神社が鎮座したことを重視して天神山に連なる岡寺山、細川山の山並みはアスカの聖なる存在であったという見解があります(菊池1989)。ただし、酒船石遺跡は大規模な工事で人工的に築いた丘陵であり、埴輪も出土していて付近に古墳の存在が想定されることから、古代に神名火と認識されていた可能性は低いでしょう。(会報より)
飛鳥水落遺跡で解説を聞く
漏刻で有名な遺跡
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石神遺跡
今は田園が広がるこの地は、斉明朝には外国人使節をもてなす迎賓館
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飛鳥水落遺跡を出発。
西に甘樫丘
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飛鳥坐神社
飛鳥坐神社、飛鳥山口坐神社に到着。
門前に蠟梅の黄色い花
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飛鳥坐神社鳥居のすぐ南には「飛鳥東垣内遺跡」
斉明天皇が天理砂岩を運ぶための「狂心渠」が発掘された
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飛鳥坐神社
2月第一日曜日に催される奇祭「おんだ祭り」舞台の前で、重見先生の解説を聞く
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小さな飛鳥山口坐神社
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酒船石遺跡に向かう。
右は狂心渠の名残「中の川」。
対岸側は「万葉文化館」。この建物の下は古代の工房跡飛鳥池遺跡。
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万葉文化館の裏山。
東(左)へ行くと字名「山口」。
飛鳥山口坐神社は、宝暦元年(1751)以前はこの地にあった。
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万葉文化館の裏山。
竹藪の向こうの字名ミノヤブ=鳥形山に飛鳥坐神社が遷座したという記録がある。
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酒船石
「鬼の硯!」何に使かう石か?皆の持論で盛り上がる
松本清張の『火の回路』では女性考古学者がゾロアスター教の儀式用の施設だと言う
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酒船石遺跡
天理砂岩を積み上げて作った石垣
覆い屋で守られた天理砂岩を順番に見学する
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飛鳥宮跡
飛鳥浄原宮から見る神名火候補1つ目の雷丘(写真右端)と2つ目の候補地、甘樫の丘
数々の宮が重なるように営まれた地。
神名火山は戦乱の世の飛鳥もずっと見てきたのかも知れない
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飛鳥浄原宮跡からみる神名火の3つ目の候補、ミノヤマ=鳥形山
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「岡寺山」説
飛鳥山口坐神社が「天神山」にあった可能性が高いことや、その丘陵にある小字「コンニャク塚」に禁忌伝承があること、岡本宮の皇都守護神という伝承のある高市神社があったこと、そして万葉歌の条件に合致することなどから、岡寺山を飛鳥の神名火山とする見解があります(伊藤1989)。また、飛鳥宮からみえる円錐形の山形を重視して、岡寺山を飛鳥の神名火山とする見解もあります(黒崎2007・藤田2014)。確かに、万葉歌の諸条件を満たし、飛鳥宮に隣接する立地、円錐形となる山形は神名火山に相応しい。問題となるのは、岡寺のように飛鳥時代から土地利用が始まっていることや、六世紀後半には岡寺古墳をはじめとする古墳が造られ、持統と文武が飛鳥岡で火葬されたように埋葬にかかわる行為を行っていることです。岡寺山の山腹にある岡寺(龍蓋寺)は草壁皇子の宮を義淵が寺にしたとされ、西隣にある治田神社の遥拝所の東側では創建当初の奈良時代前半の基壇が見つかっています。また、岡寺三重宝塔の西側斜面に岡寺古墳が存在しました。飛鳥宮から眺めれば岡寺山は確かにきれいな円錐形です。しかし飛鳥の神名火は神代より言い継いできた聖地であって飛鳥に宮が造営される以前から存在します。古代の人々が神名火山と認識するようになった重要な要素が山形であったにせよ、飛鳥宮からの眺めを重視すべきではありません。(会報より)
飛鳥浄原宮跡からみる神名火の4つ目の候補、岡寺山。手前のきれいな三角錐の山
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飛鳥浄原宮跡からみる神名火の5つ目の候補、川原寺裏山遺跡(写真背後の左)
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飛鳥浄原宮跡からみる神名火の6つ目の候補、ミハ山
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時間が遅れているので岡寺・岡寺古墳、治田神社を巡るのは取りやめ。飛鳥宮跡で解説を聞く。急に風が吹き、お弁当は「飛鳥京苑池休憩舎」の中で
~采女の袖吹き返す明日香風・・・とつぶやく
ミハ山
「ミハ山」説
現在、もっとも有力な候補地とされるのが飛鳥宮跡の南正面にある字「ミハ山」です。岸俊男氏は三輪山(ミワ山)に通じる小字名「ミハ山」に注目し、ここが中ツ道の南への延長線にもあたることから神山とみなしました。そして、「ミハ山」は上述した万葉歌の五つの条件を満たすといいます。なお、「ミハ山」を含む山塊は俗にフグリ山といいますが、以下ではこの山塊をミハ山と呼んでおきます。ミハ山の山頂付近には磐座のように大きな岩がむき出しになっていますし、飛鳥川上流に位置する点でも条件と合致します。ミハ山説に対しては、「ミハ山」と三輪山を同一視することが難しいという指摘や、中ツ道は横大路から南へは続かないという見解があります。さらに大きな問題なのは、ミハ山は岸氏自身が考定した古代の飛鳥の範囲から外れてしまうことです。(会報より)
急坂のミハ山へ向かう。柵の下が飛鳥川。
体力に不安な方は飛鳥稲渕宮殿跡に先回り
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足元を確認しながら黙々と歩く会員さん
「お先に行って下さい」と息を整える
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ミハ山東展望台からの眺望。
飛鳥地域が一目瞭然に
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ミハ山東展望台。
最頂部にこんな大きな岩が
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ミハ山 大きな石がむき出しになっている
「磐座かも?」と緊張な面持ちで通る
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飛鳥稲渕宮殿跡
飛鳥稲渕宮殿跡
難波宮に孝徳天皇を残し、皇族がたはミハ山の麓の宮殿に
益々、飛鳥の神名火山はこの山に思えてくる
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飛鳥稲渕宮殿跡で解説を聞く。
手前は飛鳥川、背後はミハ山。
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「南淵山」説
坂田寺→都塚古墳 『日本書紀』天武五年(676)五月条に「南淵山・細川山を禁めて、並に蒭薪ること莫れ。」とあります。これは南淵山・細川山を聖なる山として斧鉞を入れるのを禁じたものであり、万葉歌にも取り上げられている南淵山は飛鳥川の上流でもっとも注目された山で、飛鳥のカムナビの山として心寄せられたにちがいないとする見解があります(桜井1990)。皇極元年(642)八月に皇極が祈雨のために南淵で四方を拝んだ場所として、飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の下にあるハチマンダブという大きな淵が候補とされ、ここに臨時祭で祈雨神祭八十五座の一つであった飛鳥社がまつられていたと推測されています。ただし、「南淵山・細川山を禁めて…」とあるのは樹木の伐採を禁止しなければならない状況にあったことの裏返しです。わざわざ詔を出さなければならなかったのは、守るべき神名火山と認識されていなかったからではないでしょうか。(会報より)
背後は神名火7つ目の候補、南淵山
この山を眺めながら、鎌足と中大兄皇子は蘇我氏打倒を謀議したのだろうか?
飛鳥時代に思いを馳せる皆さん
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坂田寺跡に向かう途中のマラ石
『マラ石』の名付け親は仏教考古学者の石田茂作氏
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坂田寺跡
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都塚古墳
坂田寺跡から都塚古墳を望む
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きれいな円錐形のミハ山
先生がミハ山のベストショットが撮れる場所を教えて下さり、一斉にシャッターを切る
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都塚古墳
毎年正月元旦に金鶏が古墳の中から飛び立つという伝説があるので「金鳥塚」と呼ぶ
石室見学にやっぱり長蛇の列
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都塚古墳石室内部
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都塚古墳、墳丘西側
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都塚古墳墳丘上からミハ山、飛鳥稲渕宮殿跡方向を望む
いい場所に築造された古墳の被葬者が気になる皆さん
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「戒成」説
飛鳥の神名火を考定する上で重視されている資料に「出雲国造神賀詞」(『延喜式』祝詞)があります。これによると、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に置いたとあります。戒成説の主な根拠は、飛鳥の神奈備に置かれた賀夜奈流美命(かやなるみ)と「戒成(かいなり)」の発音が近いことです(栢木1971・西宮1981)。戒成は都塚古墳の東南東にあるなだらかな丘陵で、飛鳥宮からの見通しが悪く万葉歌の条件をみたしていません。また、当地には古墳群があることからも神聖な場所とみなされていたとは考えにくいでしょう。 (会報より)
字戒成付近
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字戒成を北から撮影。
ビニールハウスの右が都塚古墳
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石舞台
石舞台古墳を通過
すっかり観光化された飛鳥を代表する古墳 「遠足で行ったね」と童心に帰る
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石舞台古墳バス停
橿原神宮前駅まで歩く自信のない方はここでひとまず解散
空車でバスがすぐに来て、貸し切り状態に皆さん大喜び
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川原寺
「川原寺裏山」説
川原寺裏山遺跡の大きな土坑のなかには、川原寺の火災にあった塑像や塼仏、荘厳具、緑釉塼、釘、瓦などが多量に埋納されていました。このことから川原寺裏山は神聖な場所であったという見解があります。そして天武が神名火を朝に夕に眺めたのが飛鳥京跡苑池であるならば、川原寺裏山は目の前に迫ってみえると指摘されています(井上2014)。ただ、当地は飛鳥浄御原宮の西側にあって飛鳥川の上流とはいえません。また、「その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しび 明けくれば うらさび暮し」(巻2-159)の表現からすれば、天武が神名火を眺めた場所は常居する場所からの眺めと考えるべきでしょう。 飛鳥京跡苑池は「白錦後苑」「御苑」(『日本書紀』天武十四年十一月六日条、持統五年三月五日条)にあたるものと考えられますが、外出を意味する「幸す」とあって『書紀』にわざわざ苑に出向いたことのみを記すのは「白錦後苑」が頻繁に通う場所ではなかったことを示しています。したがって、天武が神名火を眺めたのは飛鳥浄御原宮の中枢部である内郭の正殿とみるのが自然でしょう。正殿からは内郭の塀があるために川原寺裏山の頂上がわずかに見えるにすぎません。天武が常居した可能性が高いのは北の正殿西に付属する向小殿であり、ここから山を見通せるのは南方に限られます。(会報より)
川原寺跡に到着。
写真右上に岡寺
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川原寺跡。
背後は岡寺山
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川原寺跡で解説を聞く。
背後が川原寺裏山遺跡 ここからも三角形の奇麗な山が見える
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川原寺跡で解説を聞く。
背後が石舞台方向
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甘樫の丘
「甘樫丘」説
雷丘説では万葉歌の情景と合わないことから甘樫丘が候補に挙げられています(折口1966)。確かに甘樫丘は万葉歌の条件を満たしてはいますが、頂上部の南斜面から和同開珎と火葬骨を納めた八世紀前半代の火葬墓が見つかっていて、少なくとも奈良時代には神名火とみなされていないようです。また、甘樫丘東麓遺跡の発掘調査では、7世紀前半から8世紀初頭ごろまでの遺構が確認されており、飛鳥時代を通して土地利用が行われています。甘樫丘には蘇我蝦夷、入鹿が城柵を巡らした邸宅を並べ建てたといい(『日本書紀』皇極三年(644)十一月条)、甘樫丘東麓遺跡はその一部とも考えられています。蘇我氏本宗家が滅亡した乙巳の変以後も聖域扱いをした形跡が認められないのは、神名火の候補として弱いところです。(会報より)
甘樫の丘から大和三山を望む
遠くに藤原京が!
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甘樫の丘から左飛鳥坐神社 右は石舞台古墳
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甘樫の丘で説明を聞く皆さん
写真撮影協力 小田正
解説文 中西隆子