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2017年12月例会「檜前・真弓の集落と墳墓」
案内 坂 靖氏(博物館学芸課長)
集合:近鉄吉野線・壺阪山駅10時
 壺阪山駅(出発)→観覚寺遺跡→キトラ古墳・四神の館→檜前遺跡群→檜隈寺跡→檜前上山遺跡→マルコ山古墳→カヅマ山古墳→真弓スズミ1号墳→真弓鑵子塚古墳→牽牛子塚古墳→岩屋山古墳→飛鳥駅

壺阪山駅

今日は、坂先生に「檜前・真弓の集落と墳墓」のテーマで、東漢氏の集落と寺院、墳墓を案内いただく。参加者は154名。

壺阪山駅前 坂先生のあいさつと今回のポイント説明

(会報より)

「檜隈は、東漢氏の居住地です。『日本書紀』応神天皇二十年の条に、〝倭漢(東漢)直の祖である阿知使主とその子の都加使主が自己の党類十七県を率いて来帰した。〟の記載があります。こののち、坂上氏が、東漢氏の末裔であることを自称します。『日本書紀』に続いて平安時代に編纂された『続日本紀』の宝亀三年(772)の条で、坂上苅田麻呂が、〝大和高市郡の郡司職は檜前忌寸である。阿知使主を先祖とし、応神天皇(軽嶋豊明宮御宇天皇)の御世に十七県の人を率いて、夫婦となり詔を賜い、代々檜前に居住してきた。およそ、高市郡内は檜前忌寸および十七県の人々が地にみちあふれるほど居住し、東漢氏と関連のないものは、十のうち一か二にすぎない。〟と奏上しています。

 高市郡の郡司職を自らの同族の檜前氏に任じることの正当性を訴えでたものですが、応神天皇の代から檜前が各地から渡来してきた東漢氏の居住地であり、檜前氏が同族となってそれを引き継いだといういきさつが述べられています。

東漢氏は、一体の血縁集団ではなく、国外に出自をもつ(渡来人である)ことによる同族意識をもった集団であったと考えられます。」

観覚寺遺跡

(会報より)

「近年開通した町道建設と住宅建設に伴い、高取町教育委員会がこれまで九次に及ぶ発掘調査を実施しています。大壁遺構・石組L字形竈、石組方形池などの遺構と韓式系土器が検出され、渡来系集団の居住地であったと考えられます。また、この真南約100mの字ホリキリには稲村山古墳がかつて存在していました。石室からは須恵器のほか銀釧・銀製釵子・甑形土器が出土しており、集落の墓域のひとつであったものと考えられます。

 観覚寺遺跡の大壁遺構は方形に巡り、建物として居住空間をつくっているものと塀などの区画施設として機能しているものの2種があります。年代的には五世紀後半~七世紀前半まで建て替えながら継続しています。さらに、西端の9次調査で検出された遺構は八世紀末の年代であり、もしそれと同様のものとするならやや時期は離れますが、この時期まで継続した可能性があります。

石組L字形竈と石組方形池は、6世紀末~7世紀代にかけてほぼ同時期に築造されたものと推定されています。L字形竈は、検出された大壁建物廃絶後につくられたと調査担当者はかんがえています。

 いずれにせよ、大壁建物・石組L字形竈・石組方形池は、いずれも渡来系集団に関わる遺構であると認識できることから、観覚寺遺跡は、長期にわたる渡来系集団の居住地であって、周囲とは一線を画した特異な景観がそこに存在していたことがわかります。東漢氏を先祖と仰いだ檜前氏や、坂上氏の動向とあわせて、注目されるところです。」

道路と住宅建設の時にこの辺りが発掘調査され、渡来人系のオンドルが付く大壁建物・石組L字形竈・石組方形池が発掘された。

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中央左上はキトラ古墳

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L字形かまどと大壁建物(キトラ古墳・四神の館展示)

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オンドル(キトラ古墳・四神の館展示)

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キトラ古墳・四神の館

(会報より)

「キトラ古墳は、直径13.8mの円墳で、漆塗り木棺を安置した二上山産出の凝灰岩製の横口式石槨を埋葬施設としています。

 石槨内に漆喰が塗られ、壁面には四神(青龍・白虎・玄武・朱雀)と獣頭人身の十二支像のうち、子・丑・寅・午・戌・亥像、天井には天文図が描かれていました。中国本格的な天文図としては世界最古の例であるといわれています。

 石槨内の出土品としては、木棺の飾金具(座金具・六花形飾金具)、刀装具、玉類などがあります。

 古墳の築造年代は7世紀末~8世紀初頭です。

 ファイバースコープで壁画が発見されたのが1983年で、2002年頃まで発掘調査が続けられたのですが、壁画が崩落する可能性が高くなったため2004~2010年まで壁画が取り外されました。そして2013年に石槨が閉められ、周辺とあわせた整備工事がおこなわれ、2016年に工事が完了しました。古墳のすぐ北側に二階だての大きな建物がつくられ、昨年9月にオープンしました。一階が壁画体験館「四神の館」、二階が壁画保存管理施設で、いまのところ、二階で取り外された壁画を期間限定で公開しています。」

きれいに整備されたキトラ古墳墳丘前で説明を聞く(右上が墳頂)

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四神の館1階 キトラ古墳天井石の天文図が施設の天井に再現されている。

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四神の館1階 キトラ古墳南の盗掘口と石室内部が復元されている。

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檜前遺跡群(1)

(会報より)

「国営公園の整備にともない、檜隈寺跡のある丘陵とそのすぐ南側の丘陵の頂部を奈良文化財研究所、橿原考古学研究所、明日香村教育委員会が調査をおこなって、7世紀代を中心とした集落遺跡が確認されました。

 檜隈寺跡の南側の丘陵頂部は、明日香村教育委員会が調査し、大壁遺構・堀立柱建物などが検出されました。大壁遺構は、逆L字形のものと直線状のものの2種があり、逆L字形の大壁遺構には、二間×三間の掘立柱建物が伴い併行して存在しています。大壁遺構の時期は、7世紀中頃、掘立柱建物は7世紀後半代に位置づけられています。

 さらに大壁遺構が検出された場所から西側で7世紀後半代の掘立柱建物が6棟検出されていて、そのなかに庇のつく大型建物があり、中心建物であったと想定されています。」

檜前遺跡群

四神の館1階 檜前遺跡群の復元模型

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檜前遺跡群跡

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檜前遺跡群跡で説明を聞く

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檜前寺へ向かう

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檜隈寺跡

(会報より)

 「檜隈寺跡は、於美阿志神社の境内となっています。塔跡には、平安時代後半期の十三重石塔(重要文化財)が建てられています。

 1969年に石塔が解体修理されたとき、石塔が木塔の心礎のうえに建てられていて、直径12cm・深さ9cmの舎利孔が設けられ、舎利容器が安置されていたことが明らかになりました。舎利容器は外容器が宋代の施釉四耳壺、内容器がガラス小壺で、いずれも平安時代後半期に石塔建立時に安置されたものと考えられます。

 1979~1982年に奈良文化財研究所が第1~4次調査を実施し、瓦積み基壇をもつ講堂・金堂・西門などを確認しました。西を正面とし、主軸が北で西に23~24度振れる珍しい伽藍配置となっています。金堂・西門が7世紀後半、講堂・塔が7世紀末に造営されたと推定されています。瓦には、7世紀前半代のものがあり、前身建物の存在が想定できますが、その時期の遺構は確認されていません。」

十三重石塔

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金堂跡

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講堂跡礎石

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檜隈寺跡は、於美阿志神社の境内

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檜前遺跡群(2)

(会報より)

「檜隈寺跡のある丘陵の北端部の尾根上は橿原考古学研究所が、寺跡の周辺と北東斜面は、奈良文化財研究所が調査を実施しました。そのなかで注目されるのが、檜隈寺の講堂跡北東隣接地で検出された石組L字形竈と棚状施設をもつ竪穴建物です。竈の焚口には飛鳥時代前半の軒丸瓦が据えられており、釜を安置するための支脚として利用されたものと考えられています。建物の床面には柱痕跡がなく、通常の住居であるとは考えられません。

 年代は7世紀前半代であり、檜隈寺の堂・塔伽藍が整備され、盛期を迎えるのは、7世紀後半代以降と考えられることから、それより遡る段階の渡来系集団の足跡であると評価することができます。

また、現在休憩所が建てられている講堂跡の北側100mのあたりでは7世紀後半~8世紀前半代の掘立柱建物や土坑、溝などの遺構が検出されています。土坑からは鞴羽口が検出されており、丘陵の裾で確認された掘立柱建物と併せて檜隈寺関係の施設があった可能性が想定されています。」

檜隈寺の講堂跡の北側100mのあたりから掘立柱建物や土坑、溝などの遺構が検出

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檜隈休憩所の斜面からは檜隈寺の瓦窯跡が検出され、埋め戻されている。

ここで昼食。

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昼食後、檜前遺跡群の北丘陵で先生の説明を聞く

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北丘陵の北北東に高松塚古墳を望む

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檜前上山遺跡

 (会報より)

「住宅地(檜前緑ヶ丘)の開発に伴い、橿原考古学研究所が発掘調査を実施した遺跡です。檜隈寺の西北約500mの尾根上と東側に開く谷地形が調査され、7~8世紀代の掘立柱建物・柵列・土坑・焼土面・溝など多くの遺構が検出されています。尾根の東半分を削り、谷を高さ1.5mほど埋めて整地し、平坦面をつくって、主要な遺構がつくられています。残された尾根が土塁状の高まりとなっており、平坦面からの高さは約3m、幅は約6m、長さは40mに及んでいます。遺跡の約300m西側には下ツ道から続く紀路が通っていて、交通の要衝に設置された公的な施設であった可能性があります。」

檜前上山遺跡 中央上は、平坦面を作ったあと残された高まり

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マルコ山古墳に向かう途中の県立高取国際高校は佐田遺跡。造成前の調査で飛鳥時代の遺構が多数検出され

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マルコ山古墳

 (会報より)

「マルコ山古墳は、1975年から現在まで4次の調査がおこなわれています。整備前の2005年におこなわれた第4次調査で墳形は六角形である可能性が指摘されています。対角長は24m、高さ4.5mほどと想定されています。外周にはバラス敷きの排水施設を設けています。

 埋葬施設は横口式石槨で、内面には全面に漆喰が塗られていました。キトラ古墳や高松塚古墳と石槨の構造・規模が類似しますが、壁画は描かれていませんでした。出土品は、乾漆棺の破片、棺を飾る金銅製の六花形金具、30歳代と想定される男性人骨などが出土しています。築造年代は、7世紀末~8世紀初頭の年代が想定できます。」

カヅマ山古墳、テラノマエ古墳、ミヅツ古墳

 (会報より)

「マルコ山古墳のある真弓集落の南斜面に、終末期古墳が並んで造営されていることが近年明らかになっています。マルコ山古墳の東北にはテラノマエ古墳、ミヅツ古墳があり、マルコ山古墳の西にはカヅマ山古墳があります。カヅマ山古墳は、埋葬施設が調査され、結晶片岩と漆喰を使用した磚積の横穴式石室であることが明らかになりました。地震により大きく崩れていました。築造年代は、7世紀後半代と想定されています。

 今回は、埋め戻され、道もないため、現地をご案内できません。」

マルコ山古墳をめざして歩く

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左 芝の山がマルコ山古墳

中央 農作業小屋の上周辺にミヅツ古墳

さらに右側にテラノマエ古墳が並ぶ

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マルコ山古墳にて解説を聞く

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真弓スズミ1号墳

 (会報より)

「真弓集落の西側で村道建設工事がおこなわれていますが、その建設の事前調査で2006年に確認された古墳です。一辺10mの方墳で埋葬施設は右片袖式の横穴式石室でした。石材の大半は抜き取られ、奥壁と側壁の一部だけが残っていました。2基の木棺が玄室床面に安置されており、それに伴う鉄釘が原位置で出土しています。東側の木棺の棺内からは土師器壺が2点出土しています。また、棺外の石室東北隅角部で、ミニチュア竈・甑・鍋の炊飯具セットが出土しています。ミニチュア炊飯具を古墳に副葬することは、渡来系集団の証しであり、滋賀県・奈良県・大阪府の渡来系集団と関連する地域で集中して出土しています。ただし、朝鮮半島ではこうした風習は、あまり認められず、全羅北道の群山余方里82号墳、ソウル近傍の城南板校遺跡で本年に発掘された事例があるのみです。そのため、中国系渡来人の証しであるともいわれています。この周辺では、次に述べる真弓鑵子塚古墳のほか、沼山古墳・与楽鑵子塚古墳・カンジョ古墳・寺崎白壁塚古墳・与楽古墳群など、ことごとくこれが副葬されていることが注目できます。貝吹山一帯が石室構造から渡来系集団の墳墓であることは従来から指摘がありましたが、さらにそのことが明確になったわけです。こうした渡来系集団の墳墓のうち、最も大きな石室をもつのが真弓鑵子塚古墳であるのに対し、このスズミ1号墳は最も小さいもののひとつです。

 古墳は村道建設のため無くなりましたが、ミニチュア炊飯具は明日香村埋蔵文化財展示室に展示されています。」

スズミ1号墳跡へ向かう途中、貝吹山がくっきりと見えた。

貝吹山は、大和国人、越智氏の山城

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スズミ1号墳跡付近で解説を聞く

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真弓鑵子塚古墳

 (会報より)

「真弓鑵子塚古墳は直径約40m、高さ約8mの円墳です。埋葬施設の横穴式石室は玄室両側に羡道がつく特異な構造で、全長は16m以上、また玄室はドーム状に石材を持ち送り、その高さは6.5mに達し、全国屈指の規模です。

 北側の羡道については、奥室とも考えられますが、入口部分に割石を小口積みにした閉塞石が遺存していたことが報告されており、墳丘外から石室に入る羡道としての役割を果たしていた可能性が高いといえます

 石室内からは凝灰岩片が多数出土していることから石棺が安置されていたと考えられます。

 出土遺物は前述のミニチュア炊飯具のほか、須恵器、銀象嵌刀装具、玉類、金銅製獣面飾金具、金銅製馬具、鉄鏃、鉄釘などが出土しています。

 築造年代については石室構造や出土遺物などから6世紀中~後半頃と推定されます。」

真弓鑵子塚古墳墳丘

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バリケードで封鎖され、草木に覆われて詳しく見えず、残念な表情で引き返す。

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「石室は説明板の写真を見てください」と….

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渡来系集団(東漢氏)の下層の人たちの墓が最も小さな石室を持つミスズ1号墳、リーダクラスの墓がマルコ山古墳と階層性が見られる。

坂先生から「最も大きな石室を持つ真弓鑵子塚古墳は、東漢氏を配下の持つ蘇我氏の墓で、稲目の墓」との自説を披露された。先生は蘇我氏渡来人説の本を出されるとのこと。楽しみである。

牽牛子塚古墳

 (会報より)

「牽牛子塚古墳は、対角長18.5m高さ約4mの八角形墳です。

埋葬施設は二上山の凝灰角礫岩の巨石を刳り貫いた横口式石槨で中央に間仕切り壁を有しています。両側の墓室床面に棺台が削り出されています。閉塞石は内扉と外扉の2石からなり、内扉の四隅には方形の孔が穿たれており、扉飾金具が装着されていたものと考えられます。古墳の南西で、横口式石槨を埋葬施設とする古墳が検出され塚御門古墳と命名されました。牽牛子塚古墳の出土遺物は1953年に七宝亀甲形金具、金銅製八花形座金 、銅製金具残片、乾漆棺残片 が重要文化財に指定されており、博物館に展示されています。『日本書紀』天智六年(667)には、小市岡上陵に斉明天皇と間人皇女(舒明・斉明の女、孝德の皇后)を合葬し、さらに陵の前に同日、大田皇女(中大兄の女、大海人の妃)を葬ったという記事があり、牽牛子塚古墳は斉明天皇と間人皇后、塚御門古墳は大田皇女の墓である可能性が高いと考えられています。」

古墳入口を覗けるのは2~3人だけのため、長い列ができた

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古墳入口から内部を見る

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石室天井はきれいな曲面に削られていた。

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埋葬施設中央に間̪仕切壁 その両側の墓室床面に棺台が削りだされている

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坂先生の背後は牽牛子塚古墳、左は塚御門古墳

ここでいったん解散。希望者は岩屋山古墳へ。急ぐ人は飛鳥駅へ向かう。

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岩屋山古墳

 (会報より)

「岩屋山古墳は一辺45m前後の方墳と推定されています。八角形墳であるという説もあります。

 埋葬施設は整備な切石により玄室2段、羡道1段の石材を積んだ横穴式石室で、これと同型の「岩屋山式石室」が日本列島各地に認められます。聖徳太子墓とされる叡福寺北古墳も同型式と推定されます。築造年代は7世紀中葉とされています。」

巨大!きれいな石組み!漆喰の充填がしっかり残っている!などに感心する