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2017年11月例会「銅鐸出土地を巡るⅥ」
案内 北井利幸先生
日時 11月19日(日)午前10時
集合 近畿日本鉄道大阪線 大福駅
行程 大福銅鐸出土地点→大福遺跡青銅器鋳造関係遺物出土地点→脇本遺跡青銅器鋳造関係遺物出土地点→桜井市立埋蔵文化財センター→纒向遺跡銅鐸片出土地点→JR万葉まほろば線巻向駅 解散
   全行程 約12㎞を歩きます

銅鐸出土地をめぐる企画の第6弾です。今回は奈良盆地南東部で出土した銅鐸と銅鐸の破片の出土した遺跡を巡ります。県内で出土した銅鐸のなかでもっとも新しい型式に位置づけられる大福銅鐸の出土地を見学した後、弥生時代後期後半に銅鐸等青銅器の破片を再利用して青銅器生産を行う大福遺跡、脇本遺跡をまわります。最後に突線鈕式銅鐸の破片が出土したことでも有名な纒向遺跡を見学します。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての青銅器生産遺跡を時代順にめぐり、後期以降奈良盆地で生じた青銅器工房の移動とその要因について検討します。途中、大福銅鐸(レプリカ)と大福銅鐸の出土状況模型や写真パネル、大福遺跡から出土した青銅器鋳造関係遺物(1部)、纒向遺跡から出土した銅鐸片や大型建物群の模型等を展示している桜井市立埋蔵文化財センターに立ち寄ります。特別展「桜井の歴史を作った七人の人々」が開催中です。桜井市内から出土した旧石器時代から奈良時代までの資料が数多く展示されています。是非ご見学下さい。    (会報597号より転載)

今回訪れる遺跡と関連遺跡

(国土地理院の地形図「桜井」「初瀬」1:25000に加筆・加工)

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奈良県内出土の銅鐸は第Ⅰ弾の山町早田銅鐸(奈良市)と第Ⅳ弾の石上1・2号銅鐸(天理市)櫛羅銅鐸(推定地・御所市)名柄銅鐸(推定地・御所市)で見学してきました。今回見学する桜井市内から出土した大福銅鐸は奈良県内でもっとも新しい型式に位置づけられる突線鈕Ⅰ~2式の銅鐸です。同じく突線鈕式に位置づけられる石上1・2号銅鐸の出土地と比較検討します。今回見学する大福遺跡、脇本遺跡、纏向遺跡は弥生時代後期後半以降に順次成立した集落で、いずれの遺跡から銅鐸の破片が出土しています。大福遺跡と脇本遺跡からは青銅器鋳造関係遺物とともに出土していることから、先生は銅鐸を原料に別の青銅器を生産していたことを想定されています。弥生時代の青銅器生産遺跡で有名な唐古・鍵遺跡(田原本町)から、銅鐸の石製鋳型、土製の鋳型外枠、武器型青銅器等を製作した土製の鋳型外枠などの他、送風管や取瓶(高坏状土製品)、銅滓、鋳造失敗品など青銅器生産に関わる遺物が出土しています。その他に据付炉と考えられる遺構も検出されています。この唐古・鍵遺跡での青銅器生産は弥生時代中期末から後期初頭に終了し、その少し後に大福遺跡で青銅器生産が行われ、続いて脇本遺跡で青銅器生産が行われたと考えられています。銅鐸を製作していた唐古・鍵遺跡での生産終了と銅鐸の破片から銅鏃などの青銅器を製作する大福遺跡、脇本遺跡への工房の移動は何を意味しているのか?が今回のテーマでもあります。この時期は弥生時代から古墳時代へと社会が変化していきます。今回の例会では銅鐸出土地を巡りながら、社会の変化のなかの銅鐸の役割についても検討していきます。

大福駅前

北井利幸先生のあいさつと青銅器製品の変遷と工房の移動についての考察を説明

銅鐸出土地巡りは今回で6回目「6回全部参加されたかた、手を挙げてください!」と先生

あちらこちらで、熱心な会員さんの手が挙がる

大福遺跡

桜井市西部を流れる寺川南岸に位置する弥生時代後期を中心とする集落遺跡です。西側に弥生時代中期に盛行し、後期に衰退する環濠集落である坪井・大福遺跡が隣接しています。両者を同一集団による集落と捉える説では、坪井・大福遺跡の環濠集落が弥生時代後期になって衰退した際に1部の集団が環濠の外(東側)へ進出し、新たな集落を形成したと想定されています。大福遺跡の下層に中期の墓域が拡がっています。坪井・大福遺跡の墓域であれば、大福遺跡との関係性を考える上で課題となります。1985年に行われた第3次調査で、発掘調査によって初めて埋納された銅鐸が調査されました。その後、20077年の第26次調査、2009年の第28次調査で青銅器鋳造関係遺物が出土しました。(会報より引用)

大福遺跡鋳造関係遺物分布図

(丹羽恵司2009「大福遺跡の青銅器鋳造関連遺物」『銅鐸-弥生時代の青銅器生産-』より転載)

①・②送風管 ③~⑧土製の鋳型外枠 ⑨銅滓 ⑩青銅塊 ⑪・⑫銅鐸片 ⑬棒状銅製品

出土地は校内にあるため、フエンス越しに覗き込む

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大福銅鐸出土地(分布図A地点)

大福小学校敷地内の樹木の場所に大福遺跡説明板

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大福銅鐸出土地(分布図A地点)

北井先生の説明を聞く 

背後右は大福小学校

大福銅鐸

突線鈕1式 六区袈裟襷文銅鐸は総高45cm、重量3.851kg 鈕部内区に重弧文が鋳出されて、外面に赤色顔料が付着しています。

発掘調査によって埋納方法、埋納状態、埋納時期が初めて確認された銅鐸です。それまで不時発見による発見が多く、埋納状況も発見者による記憶、銅鐸や発見場所に残された痕跡から復元・想定されていました。鰭を上下に、横倒しに埋納する埋納方法が初めて発掘調査によって確認されました。また埋納時期も共伴土器や遺構の関係が不明であったことから特定できませんでしたが、本銅鐸の調査により突線鈕1式の銅鐸の埋納時期が、弥生時代後期と特定できました。本銅鐸の埋納坑は2号方形周溝墓(弥生時代後期後半から庄内式期、東西11m、南北11.5m)の周溝底で検出されました。長軸を周溝にほぼ平行させた長径58㎝、短径25㎝、深さ18㎝の長円形をしていました。銅鐸は鈕部を南に、裾部を北に、鰭部を上下にし、やや東に傾斜させ、鐸身の1部を埋納坑の壁に接して埋納してありました。銅鐸と埋納坑の隙間には、銅鐸の外を巻いた状態に粘質土を詰め、銅鐸を安定させていました。

ここで1つ問題となるのは銅鐸の埋納時期です。調査報告書では方形周溝墓の周溝掘削後に埋納坑を掘削し、埋納されたと記載されています。つまり方形周溝墓と銅鐸の埋納が同時期と捉えられています。発掘調査担当者の観察が第1ですが、仮に方形周溝墓と銅鐸に有機的な関係がないとした場合、方形周溝墓造営前に埋納されたことになります。方形周溝墓の周溝掘削場所が偶然銅鐸埋納坑に重なったと理解するのも1つの可能性としてあります。銅鐸を方形周溝墓に副葬、あるいは周溝に埋納した事例がこれまでに確認されていないため方形周溝墓に伴うとなると大福銅鐸の性格をそのほかの銅鐸と区別する必要があります。(会報より引用)

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大福銅鐸(六区袈裟襷文銅鐸)【奈良県指定文化財】(会報より転載)

袈裟は四角い布を何枚か縫い合わせて一枚にしている

区画されたデザインの銅鐸は袈裟襷文!とてもいい名称

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銅鐸出土状況模式図 上 (会報より転載)

銅鐸埋納坑(西から)中 銅鐸埋納坑(北から)下 (会報より転載)

埋められた状態で出土する銅鐸は数少ないなか、

方形周溝墓の周溝の底に埋納されていることは特異だそう

銅鐸はもはや祭祀用具から副葬品になったのだろうか?

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調査区実測図 (会報より転載)

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大福銅鐸出土地(分布図B地点)

大福遺跡の青銅器鋳造関係遺物分布地図「工房域」の少し北で北井先生の説明を聞く

この辺り一帯は古代の工業都市 マンチェスター!

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大福遺跡(分布図B地点から北西方向)

送風管、土製の鋳型外枠、銅鐸片出土地

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大福遺跡(分布図B地点から南西方向)

居住域で、銅鏃、銅剣が出土。

青銅器鋳造関連遺物(送風管、土製の鋳型外枠、銅滓、青銅塊、銅鐸片、棒状銅製品)も出土している。手前周辺は集落に住む人たちの墓域と考えられる。

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大福遺跡 青銅器鋳造関係遺物 (会報より転載)

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大福遺跡の第26次、第28次調査で銅鐸の破片や銅塊、銅滓、土製の鋳型外枠、送風管など青銅器鋳造関係遺物が出土しました。これらの資料はいずれも弥生時代後期後葉の土器とともに廃棄された状態で見つかりました。銅鐸の鐸身部の破片には、叩いたことにより生じたと考えられる凹凸が認められます。銅鐸を壊すために叩いたのか、偶然できたのか明らかではありませんが、一連の青銅器鋳造関係遺物とともに出土したことからこの銅鐸の破片は別の青銅器を製作するための原料として再利用されるためのものであったと考えられます。銅塊は表面に凹凸が多いことから鋳込み作業の際に坩堝(高杯状土製品)に余った湯(鎔銅)を地面等に流して固めたものと考えられます。金属成分付着被熱砂は高坏状土製品の坏部内面に張り付けられた砂が金属とともに固まり、作業後に外れたもので、左手前側に注ぎ口を確認できます。送風管は炉内に風を送るためのものです。どちらも先端が曲がっており「曲管」に分類されます。先端部分のみ被熱していることから、炉内には先端だけ入っていたことがわかります。土製の鋳型外枠は板状をしており、厚さはさまざまです。また斜格子文の刻まれるものや把手の取りつけられたものなどもあります。しかし、いずれも平坦で彎曲しないことから銅鐸のような立体的な青銅器を製作していたと考えるより、銅鏃のような小型で扁平な青銅器を製作していた可能性が高いと考えられます。(会報より引用)

脇本遺跡

奈良盆地南東部、三輪山の南麓を東方へ伸びる初瀬谷の入口に位置しています。西北約4㎞に纒向遺跡が位置しています。弥生時代から飛鳥時代までの遺構が多数確認されています。なかでも弥生時代前期後葉から中期前葉の松菊里型住居や後期後葉から庄内式期(古墳時代初頭)にかけての青銅器鋳造関係遺物、古墳時代中期後半の葺石のような石積みの施された壕状遺構(東西60m以上、南北60m以上)、5世紀後半・6世紀後半・7世紀後半の大型掘立柱建物は各時代の脇本遺跡の性格を示す遺物・遺構です。 2007年に行われた第13次調査で、弥生時代後期後葉から庄内式期(古墳時代初頭)の竪穴建物4(SB13004、東西幅最大7.7m)の覆土を中心に銅鐸片を含む青銅器鋳造関係遺物が多量に出土しました。銅鐸片などの青銅器片や銅鏃の鋳造失敗品、銅滓、湯玉、金属成分付着被熱砂、土製の鋳型外枠、砥石などです。このほか、鏃・刀子・ヤリガンナ等の鉄器、ガラス小玉、勾玉、管玉片、炭化材等も出土しました。炉跡や送風管などは出土していませんが、青銅器を鋳造する際に生じる資料(銅滓や湯玉、鋳造失敗品など)の存在から当遺跡内で青銅器生産がおこなわれた可能性を指摘できます。ただし、継続的に生産されたものではなく、操業期間は弥生時代後期後葉から庄内式期(古墳時代初頭)のごく短期間でした。 出土した土製の鋳型外枠は箱状のものと板状のものにわけられます。大福遺跡から出土した土製の鋳型外枠と異なり、明確な把手は確認できませんでした。また平坦な形状であることから大福遺跡の土製の鋳型外枠同様、立体的な青銅器を製作するには不向きで、銅鏃のような小型で扁平な青銅器を製作していたと考えられます。 出土した鉄器は竪穴建物4(SB13004)を中心に23点(総重量106.4g)あります。鏃などの製品のほか、薄い鉄片が何枚か重なったものがあります。鉄器加工の際に生じた破片の可能性が考えられます。(会報より引用)

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脇本遺跡 弥生時代遺構配置図(報告書Ⅲより)。国道拡幅工事で発掘された。

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左の倉庫とイオンモールの看板の向こう側が、2007年に行われた第13次調査地。青銅器と鉄器の鋳造遺物が出土、複合生産をしていたと考えられる。出土した鉄器の106.4gは弥生時代としては極めて大量になる。「東海地方の入り口にあたり、脇本遺跡の西に桜井茶臼山古墳が位置する。東からの入り口にあることに何かヒントがあるかもしれない」

奈良は朝から冷たい風が吹き真冬の寒さ!先生の説明は白熱し寒さを吹きとばす

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脇本遺跡(第13 次調査) 青銅器鋳造関係遺物ほか (会報より転載)

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北井先生の説明を聞く

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脇本遺跡は、三輪山の南麓に位置する。(写真向こう側)にある。

東は初瀬谷の入り口に位置する、三輪山の周辺遺跡である。

初瀬川の氾濫を受けにくい微高地にあったため、今私達が見る三輪山と同じ風景を

いにしえびとも眺めていたのかも知れない

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脇本遺跡を東に行くと初瀬谷の入り口であり、東海地方の関連遺物も発掘されている。

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「脇本遺跡西方向、中和幹線高架の向こうに桜井茶臼山古墳がみえる」と北井先生

どれかな?

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桜井市脇本集会所前の万葉歌碑

夕されば 小倉の山に臥す鹿の 今夜は鳴かず 寝にけらしも(巻九1664 大泊瀬幼武天皇)

歌の作者雄略天皇も『桜井の歴史を作った七人の人々』の特別展に堂堂エントリー!

桜井埋蔵文化財センター

大神神社の大鳥居をくぐり桜井埋蔵文化財センターへ。大鳥居の「概要」説明板には「高さ32.2m、本体重量185トン、マグニチュード10の地震に耐える」とある

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友史会員の入館で満員。当日は関西文化の日のため無料。ラッキー!

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手前は1993年5月27日出土 大福遺跡 刳抜式木棺墓出土状態(剥ぎ取り)

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桜井埋蔵文化財センター

例会のメインである大福遺跡出土銅鐸(レプリカ)に熱い視線が

本物は滋賀県の安土城考古博物館に威風堂々と鎮座

纒向遺跡

桜井市北部に位置する古墳時代前期の集落遺跡で、その範囲は南北約1.5㎞、東西約2㎞と極めて広大な規模で

す。遺跡内には纒向石塚古墳やホケノ山古墳、箸墓古墳など古墳時代初頭の古墳が存在します。本遺跡は、古墳時代初頭に突然集落が形成されること、集落の動向とあわせて前方後円墳が造営されること、農具の出土が少ないこと、吉備地域との直接的な繋がりを示す資料が多いこと、九州から関東に至る広範囲な地域から土器が持ち込まれていること、奈良盆地東南部の交通の要所に位置すること、庄内式期の建物に方位に則って建築され周囲に柵をめぐらした極めて特殊な掘立柱建物が存在すること、首長層の墓制や立地に明確な階層性があること、盛期に竪穴建物が建てられないこと、朝鮮半島や大陸系遺物の存在から交流が想定されること、鍛冶や木製品加工などの技術者集団を集落内に抱えていたことなど特異な性格を有しています。弥生時代の集落と異なる性格をもつ纒向遺跡から2点の銅鐸片が出土しています。遺構も出土地点も異なりますが、どちらも突線鈕式銅鐸の破片です。大福遺跡や脇本遺跡と異なり、青銅器鋳造関係遺物は出土していません。古墳時代に新たに成立する集落内において弥生時代の銅鐸がどのように取り扱われたのでしょうか(会報より引用)

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桜井市埋蔵文化財センターから纒向遺跡に向かう途中の箸墓古墳

紅葉に彩られた古墳はまた違う趣きが・・・

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総勢100余人が桜井市埋蔵文化財センターから纒向遺跡に向かう

中央は箸墓古墳と背後に多武峰、左は三輪山 

もうすぐ雪化粧

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出発から約12㎞を歩き最終目的地に到着

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纒向遺跡 遺跡配置(会報より転載

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JR万葉まほろば線(写真上部に架線)と会員がいる辺りに古墳時代初頭の大型建物があった。軸をそろえて建っていたことは当時として大変珍しい。銅鐸の鰭の部分1点が出土した。

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建物群配置状況/纒向遺跡168次(上が北)(会報より転載)

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銅鐸片出土状況と銅鐸片

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鍛冶関係遺物と銅鐸の飾耳破片

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弥生時代から古墳時代へ

県内で青銅器鋳造関係遺物の出土した遺跡は唐古・鍵遺跡(中期・田原本町)、新沢1遺跡(後期・橿原市)、平城京左京五条四坊15坪・東四坊大路(後期・奈良市)、大福遺跡(後期後葉・桜井市)、脇本遺跡(後期後葉から古墳時代初頭)、青銅器の原料と考えられる円板状銅製品の出土した大藤原京右京北三条五坊(橿原市)です。青銅器の原料の出土した大藤原京右京北三条五坊を除くと青銅器生産遺跡は五遺跡です。唐古・鍵遺跡が中期から後期前半、後期後葉の大福遺跡、後期後葉から古墳時代初頭の脇本遺跡と続きます。新沢一遺跡と平城京左京五条四坊15坪・東四坊大路は土製の鋳型外枠1点しかなく詳細な時期は不明です。唐古・鍵遺跡では銅鐸の石製鋳型、土製の鋳型外枠から銅鐸を生産していたことは確実で、銅鐸以外の土製の鋳型外枠から武器形青銅器も多数生産していました。生産された銅鐸は外縁付鈕2式から扁平鈕式新段階までです。難波洋三氏によると唐古・鍵遺跡出土の大形の土製の鋳型外枠では全高約45㎝から55㎝の扁平鈕式新段階の一対耳四区袈裟襷文銅鐸が製作されたと考えられています。大福銅鐸や石上銅鐸を含む突線鈕式の銅鐸の製作された可能性は低いと考えられています。この唐古・鍵遺跡での青銅器生産も後期初頭に終焉し、やや時間をあけて南東約6㎞に位置する大福遺跡で後期中葉(大和第Ⅵー1~2様式)に行われます。唐古・鍵遺跡の青銅器工房との連続性は検討が必要ですが、奈良盆地での青銅器生産は場所を変えて行われたと考えられます。しかし、唐古・鍵遺跡のように銅鐸ではなく、銅鏃などの小型品を製作していました。大福遺跡の工房も短期間で終焉し、後期後葉(大和第Ⅵー3~4様式)に脇本遺跡で青銅器生産が行われます。やはり銅鏃などの小型品を製作していました。大福遺跡、脇本遺跡では弥生時代の象徴的青銅器である銅鐸を原料に銅鏃等小型品を製作していることから弥生社会から古墳社会へと移行していく状況を示しています。しかし、両遺跡出土の銅鏃は古墳に副葬されるものではなく、弥生時代の集落等から出土するものと形態的に似ています。また脇本遺跡の鉄器の加工技術が弥生時代と共通することから弥生時代の技術をひく工房と考えられます。纒向遺跡には青銅器生産を示す資料は現在のところなく、銅鐸片が出土しているだけです。大福遺跡や脇本遺跡同様に銅鐸片を原料に別の青銅器を製作していた可能性も考えられます。(会報597号より転載)

今後調査が進み、銅鏡、銅鏃などの青銅器もどこでどのようにして作っていたのか?青銅器生産に関わる資料の発見を期待したいと思います。