2017年9月例会「飛鳥の陵墓群を歩く」
~もう一つの鬼の俎・雪隠を歩く~
案内 重見 泰先生
日時 9月17日(日)午前10時
集合 近鉄吉野線 岡寺駅東口
行程 岡寺駅→牟佐坐神社→軽曲峽宮跡伝承地→(史跡 益田岩船)→史跡 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳→史跡 岩屋山古墳猿石→梅山古墳→カナヅカ古墳→鬼の俎・雪隠古墳(鬼爼・鬼廁)→平田キタガワ遺跡→史跡中尾山古墳→(野口ノ王墓古墳)→(小山田古墳)→(菖蒲池古墳)→(五条野丸山古墳)→岡寺駅(解散)飛鳥の陵墓群を中心に、約9㎞を歩きます。
*( )内の史跡は、台風18号接近のため見学を取りやめ中尾山古墳で解散しました。
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の正面玄関に向かって右に、建物の東側へ回りこむと、細長く割られた状態の石槨の一部が露出展示されています。この石槨は本来、鬼の俎・雪隠と同じ構造の刳り抜き式石槨で、鬼の俎・雪隠の東隣に設置されていた同じ墳丘内の埋葬施設と考えられています。つまり、当博物館の石槨と鬼の俎・雪隠は、同じ古墳内に隣り合わせで設置されていた双槨墳の埋葬施設です。明治10年代に畑を作るのに邪魔になったために割り出されて庭石とされていましたが、1987年に県に寄贈されました。今回は、普段あまり注目されることのない当博物館のこの石槨(以下、鬼の俎・雪隠の東石槨と呼びます)について、関連する遺跡を廻ります。また、現在は欽明天皇の『檜隈坂合陵』として宮内庁が管理しています梅山古墳を、蘇我稲目の墓とみる説の他に、敏達天皇の未完陵とする説があります。史料に見る「檜隈大陵」と「檜隈陵」は異なる古墳を指していることを前提とした上で、欽明陵である『檜隈坂合陵』の「檜隈」「坂合」はどこの地名なのか?「檜隈」が梅山古墳の位置より北側にまで広がっていたのかどうか?検証しながら歩き、また、牽牛子塚古墳、 岩屋山古墳、中尾山古墳、梅山古墳、カナヅカ古墳、鬼の俎・雪隠古墳の被葬者と博物館のミニ・ミニギャラリーで展示された中尾山出土土器群について重見先生の見解をうかがいました。
例会の主題
橿考研博物館玄関東側に展示されている鬼の俎・雪隠古墳の東石槨と中尾山出土土器群
重見先生は、「皇極・斉明天皇は上宮王家の山背大兄皇子や古人大兄皇子より自身の皇子の皇位継承の優位性を高めるために自身の血統の正統性を敏達天皇に求め、敏達未完陵の梅山古墳の隣に母の吉備姫王の墓(カナヅカ古墳)を作りさらに自身の墓(鬼の俎・雪隠古墳)をその隣に築いた」と考えておられる。
岡寺駅前
岡寺駅前で、重見泰先生のあいさつ。台風接近により午前中で例会を打ち切ることにする。
孝元天皇軽境原宮趾の碑。奥が牟佐坐神社
牟佐坐神社
式内社 祭神は高皇産霊神・孝元天皇
今は飛鳥坐神社の宮司さんが、この牟佐坐神社の管理もされている
牟佐坐神社鳥居の左向こうは、高取川が大きく屈曲する「檜隈」の「坂合」に接する6世紀後半の大古墳は五条野丸山古墳しかなく、欽明陵と考えられている
軽曲峡宮趾伝承地の碑
県道207号線脇 軽曲峡宮趾伝承地の碑
植え込みの中にある碑を覗き込む
益田岩船
「益田岩船はこの三叉路を右に行く山の上なので、今日はぬかるんでいると危険なので行きません」と、残念!
牽牛子塚古墳
『万葉集』に多く詠まれた真弓丘陵の一画に位置している。墳丘は版築によって築成されている。墳丘の北西部に花崗岩の切石3個が露出しており、これを外護列石とする二段築成の八角形墳の可能性が強い。墓室は巨大な凝灰岩をくり抜いた横口式石槨で、中央部に間仕切部を削り出す二室の復室構造をしており、当初から追葬を意識して石槨を製作したものと考えられる。それぞれの石室の床には長さ1.9m、幅0.8m、高さ0.1mの低い棺台を削り出す。夾紵棺の破片や七宝金具などが出土し重要文化財に指定されている。(現地説明板より)
牽午子塚古墳墳丘
牽午子とは朝顔の花のこと。いにしえびとは八角墳を朝顔の花に見立てていたのだろうか?
牽午子塚古墳にて解説を聞く
牽午子塚古墳石室
牽午子塚古墳内部 巨石を刳り抜いて2つの埋葬空間を造っている双槨墳
牽午子塚古墳墳丘
牽午子塚古墳墳丘 墳丘手前から越塚御門古墳が見つかった。
牽午子塚古墳墳丘遠景
牽午子塚古墳と越塚御門古墳・遠望
牽午子塚古墳が皇極・斉明天皇陵で越塚御門古墳が孫の太田皇女の墓と言われる。
牽午子塚古墳から岩屋山古墳の途中にある道標
左 おかてら はせ とふの三祢いせ 道 (左 岡寺 長谷 多武峰 伊勢 道)
右 ちわら ごセ こんかうさん 道 (右 茅原 御所 金剛山)
和泉砂岩で作られた道標は2mを越える高さ
安政5年に建立されたとある (『明日香風』104号より)
岩屋山古墳
岩屋山古墳は、7世紀代の一辺約54m、高さ約12mの方形墳と推定されているが、封土の西半分ほどは削りとられている。石室は南面に開口する横穴式石室で、花崗岩の切石を用いて構築されている。石室の規模は、全長約16.7m、玄室の長さ約4.72m、幅約2.7m、高さ(2.6m)で、側壁、奥壁二段に切石を積み、下段はほぼ垂直に上段は内側に傾斜している。羨道は、長さ約12m、幅約1.9mで、入口側の側石は二段積みとなる。羨道南端の天井石には閉塞施設のための溝が切り込まれていることや、一段高くなっていることにも特徴がある。また玄室南側の床面には、集水のための円形の掘り込みがあり、ここから羨道のほぼ中軸に並行して排水溝が設けられている。(現地説明板より)
岩屋山古墳墳丘
岩屋山古墳にて解説を聞く
岩屋山古墳石室
岩屋山古墳石室
岩屋山古墳石室
明治時代にイギリス人のウィリアム・ガウランドがこの古墳の石室を調査し「舌を巻くほどの見事な仕上げ」と『日本のドルメンと埋葬墳』で紹介している。
高取川に沿って歩く。
梅山古墳
陵名は檜隈坂合陵、全長約140m、後円部径72m、前方部107mで墳丘は3段築成で周濠を持ち、明日香村内では最大の前方後円墳である。欽明天皇のころには、百済から仏教が正式に伝わるなど、後に開花する飛鳥文化の源ともなる時代であった。「日本書紀」によれば欽明天皇は32年4月になくなり、9月に檜隈坂合陵に埋葬された。欽明天皇の后で、推古天皇の母、堅塩媛(きたしひめ)を推古20年(612)に合葬し、28年(620)10月には砂礫を檜隈陵の上に置き、土を積みて山を成し、氏ごとに大柱を土の上に建てさせるという記事が見える。(現地説明板より)
本物の欽明天皇陵は今日見学を取りやめた五条野丸山古墳という。
梅山古墳墳丘
台風接近とは思えない青空のもと、梅山古墳の説明を聞く皆さん
「左奥は吉備姫王墓とされるが、カナヅカ古墳であるとするのが一般的」と
吉備姫王墓
猿石
飛鳥は石造が多く、今日は猿石の歓迎!
カナヅカ古墳
梅山古墳に接しているカナヅカ古墳がかつてあったところ。真の吉備姫王墓の可能性が高い。
梅山古墳に接しているカナヅカ古墳がかつてあったところで説明を聞く。
鬼の俎・雪隠
鬼の雪隠は墳丘土を失った終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代)の石室の一部である。本来は花崗岩の巨石
を精功に加工した底石・蓋石・扉石の3個の石を組み合わせたもので、鬼の雪隠はその扉石にあたり、上方にある鬼の俎(底石)から横転してきた状態にある。この周辺は霧ケ峰と呼ばれ、鬼が住み、通行人に霧を降らせ迷ったところをとらえて、俎の上で料理し、雪隠で用を足したという伝説がある。(現地説明板より)
鬼の雪隠は鬼の俎・雪隠古墳西槨の蓋石が転落し上下がひっくり返った状態。奥の少し上に石槨の底石(鬼の俎)が元の位置に残る
鬼の雪隠で説明を聞く。
心配していた気象警報が発令され、帰りの電車が心配。中尾山古墳で例会を終えることにした。
鬼の俎は、鬼の俎・雪隠古墳西槨の底板。東の石槨は橿原考古学研究所博物館に露出展示されている。合葬墓の可能性が高い。重見先生は「鬼の俎・雪隠古墳は皇極・斉明天皇の初葬墓で孫の建皇子との合葬墓」との考え。
平田キタガワ遺跡
川の向こうアパートの辺りの発掘調査で見つかった平田キタガワ遺跡。大きな石敷きの苑池ようなものが見つかっており、「今城」ではないかと考えられる
中尾山古墳
墳丘全体を葺石で覆うと考えられる三段築成の八角形墳。外周にも八角形をなす二重の石敷が巡る。墳丘の対辺間の距離は約19.4m、石敷の対辺間の距離は約29.4m、高さ4m前後に復原できる。石槨は花崗岩の切石を組み合わせて、漆喰で石のメジを埋める。水銀朱が付着していた。内部の規模からみて火葬骨を納めた墳墓で、7世紀末から8世紀初めに築造されたと考えられる。この古墳の南約200mに特別史跡高松塚古墳が存在する。(現地説明板より)
中尾山古墳が真の文武天皇陵であるという。
中尾山古墳墳丘
中尾山古墳で説明を聞く。写真左上奥が中尾山古墳、写真右の斜面の発掘調査で中尾山古墳築造より4半世紀前の土器群が見つかっている
重見先生の説では、「飲食をしたことを示すこれらの土器は、建皇子の殯で使用された可能性が高い。
中尾山古墳のこの辺りが建皇子の殯儀式の場所・今城谷であった。皇極・斉明天皇は自分の正統性を示すため敏達未完陵(梅山古墳)を臨むこの地で孫の建皇子の殯を行った。」
写真撮影 小田 正