yushikai.jpg

案内 千曲市教育委員会歴史文化財センター
           所長 矢島宏雄氏
   橿原考古学研究所附属博物館
           副館長 木下亘氏

5月28日(土)、29日(日)

(1日目)
 森将軍塚古墳館→長野県立歴史館→森将軍塚古墳→有明山将軍塚古墳→
 科野の里歴史公園→戸倉上山田温泉→ミニ講座

(2日目)
 大室古墳館→ムジナゴーロ周辺路(合掌形石室)→大室古墳群(エントランスゾーン)
 大室神社→ハ丁鎧塚古墳→中野市立博物館→(長野駅・名古屋駅)

森将軍塚古墳館

「森将軍塚古墳館」

 1997年4月に開館した古墳館。

 竪穴式石室や出土した副葬品、埴輪等 実物大の模型を展示しています。

 森将軍塚古墳に関するすべての資料を収蔵、保管しています。

 2日間、案内をして頂く矢島宏雄先生の説明を熱心に聞いている皆さん

合子形埴輪 (ごうすがたはにわ)

 古墳館の階段をあがると、森将軍塚古墳の前方部にならぶ「合子形埴輪」が展示されています。蓋付きの容器を現した埴輪ですが、近畿地方ではあまり見かけない埴輪です。

 整備された森将軍塚古墳には4器種、27種類、154個の複製品の埴輪が、発掘調査の結果に基づいて並べられています。佐賀県の有田市で焼かれだそうで、黒班もうまく表してありました。発掘調査で見つかった埴輪の破片は約3トンを量り、おおよそ200個ほどの埴輪が墳頂や、上段テラス、前方部上に並べられていたことがわかっています。森将軍塚古墳の埴輪の特徴は高さ80cmから1mの大型で、三角形の透孔がたくさん開けられていて、仕上げに縦方向になでつけたハケメがたくさんあることだそうです。またベンガラで赤く塗られていることも特徴です。

 盗掘坑から見た石室

 森将軍塚古墳の石室は「墓壙」と呼ばれる二重の石垣で囲まれた大きな穴(長さ15m、幅9.3m、深さ2.8m)の中に築かれていて、墳頂から石室の底までは約3.5mもあり、手厚く埋葬されたようです。古墳館では実物大の竪穴式石室の模型が展示してあり、その大きさを実感することが出来ました。また、実際に盗掘されていた盗掘坑も再現されていて、石室の石積みや墓壙の石垣の様子を観察することが出来ました。因みに、この古墳を盗掘した犯人?は通称「塚堀り六兵衛」(北村六左衛門)と言う人で、江戸時代の終わり頃に生まれ、今の千曲市土口に住んでいた実在の人物とのことです(『千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック』より)

 同じ高さに積んである石室の壁面。

 板石を積みベンガラで真赤に仕上げている。

長野県立歴史館

 「長野県立歴史館」

 1994年11月3日に開館。

 科野の里歴史公園内にある博物館。

 西山克己先生の展示品の説明をきく皆さん

 『長野県の遺跡発掘2016』と題し「土偶」をテーマにした展示。

 ナイスバディの土偶、縄文のヴィーナス(複製)が展示されていた。

 男性会員の目は釘付けに・・・

 仮面の女神(複製)が展示されていた

 富士見町坂上遺跡出土の土偶

 バスで森将軍塚古墳へ

「森将軍塚古墳」

 長野県千曲市大字森字大穴山に所在する全長約100mの前方後円墳です。昭和40年代の発掘調査で前期古墳と確認され、長野県の指定史跡になりました。長さ7.6m 幅2.0m 高さ2.3mの竪穴式石室(2段墓壙)の埋葬施設をもち、前方部頂には2基の小竪穴式石室を持っています。

 昭和56年~平成3年の11年間の全面調査に基づき、正確に復原整備されました。(見学資料より)

 発掘調査から築造当初の計画では、全長100m、後円部径60m、前方部幅39mmの前方後円墳でしたが、狭い尾根の上に造られたため地形の制約を余儀なくされ、墳丘が折れ曲がり、測量図を見ると「く」の字」形になっています。後円部をより円形に近づけようと、三日月形に石を敷き詰めた「貼石帯」を設けています。

 森将軍塚古墳の前方部から後円部を望む

 古墳の周囲にある埴輪棺

 古墳の後円部から遙か北アルプスを望む。

 晴れた日は立山連峰も拝めることが出来る

 眼下に千曲川と善光寺平が広がる絶景に思わず息をのむ

 森将軍塚古墳前方部埴輪列

 埴輪は佐賀県有田市で焼かれたもの。

 FRP製ではないので 時々、子供の悪戯で

 平成の亀裂が入るそう・・・

 有明山将軍塚古墳へ

有明山将軍塚

 森将軍塚古墳館の小野紀男先生の説明をきく皆さん

「有明山将軍塚古墳」

 1999年(平成11)8月、有明山将軍塚古墳を調べる発掘調査が行われ、全長32mの前方後円墳であることがわかりました。

 後円部には長さ6mの立派な竪穴式石室が残されていたそうです。副葬品は直径4.2cmほどの青銅製鏡、翡翠製勾玉や緑色凝灰岩製 管玉、鉄製武器の破片の他に冑の小札片や刀剣類がありましたが、この古墳も盗掘に遭い、お宝は持ち去られたようです。墳丘には埴輪がないことも明らかになりました。有明山将軍塚古墳は6世紀初頭の古墳で、善光寺平では最後の前方後円墳と考えられていたのですが、竪穴式石室や小札革綴冑(こざねかわとじかぶと)が副葬されていたことを考えると4世紀末~5世紀初めごろの前方後円墳であることがわかりました。(『千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック』より)

 森将軍塚古墳の周辺にある2号墳(円墳)

 古墳館から見上げる森将軍塚古墳後円部はなるほど!きれいな円に見えている

 古墳館前でバスを待っている後ろにある自販機がフル稼働

 ホテルの大広間で恒例のミニ講座

 矢島先生はパソコン、プロジェクターご持参で、当時の興味深いお話をして下さいました。

 画面に映し出された昭和4年の森将軍塚古墳

 撮影されたのは森本六爾氏

大室古墳群

 「大室古墳館」

  平成14年に開館した古墳見学のガイダンス施設

 古墳館のエントランスには、大室古墳群の史跡指定範囲を再現した模型があります。

 尾根の上ではなく、谷にたくさんの古墳が分布している様子がわかります

 風間栄一先生(長野市埋蔵文化財センター)による説明

 いよいよお待ちかねのムジナゴーロへ

 杉やからまつが生い茂る周遊路

 道はウッドチップが敷き詰めてあり

 とても歩きやすくなっている

 ちょっとした森林浴!

 大室古墳群は長野県長野市松代町大室に所在する、5 世紀前半か~8 世紀にかけて築造された群集墳です。

 東部山地の奇妙山から派生する3つの支脈尾根上とそれに挟まれた2つの谷部、約2.5㎞平方という限られた範囲に約500基もの古墳が密集して分布しています。3つの尾根と、この尾根に挟まれた2つの谷に古墳が集中していることから「北山」「大室谷」「霞 城」「北谷」「金井山」と5つの支群に分けられています。特に「大室谷」支群には241基「北谷」支群には208基と密集し、集落などの生活域から隔絶された狭く細長い谷間に古墳がたくさん造られています。

 この古墳群の最大の特徴は墳丘に土を盛る代わりに石を積みあげた「積石塚」と、埋葬主体部の天井石を板状の石材を三角屋根形に組み合わせ架構する、丁度手を合わせて拝んでいるように見えるので「合掌形石室」と呼ぶ特異な埋葬施設です。古墳総数約500基のうち330基が「積石塚」で、「合掌形石室」も約40基ほどが確認されています。日本全国には15万~20万基の古墳があると言われていますが、そのうち「積石塚」は1500~2000基程度で1%にすぎません。この大室古墳群では、総数ほぼ500基のうち、約330基が積石塚に分類されていて、これほど多く密集する古墳群は他に存在しなく、また「合掌形石室」も、全国で60例ほどしか確認されていなく、その多くは長野盆地に集中し、約40基がここ大室古墳群に存在しています。以上のことから全国的にも他に例をみない貴重な古墳群であるとして、平成9(1997)年7 月28 日に古墳群の一部約16ha が国史跡に指定されました。

 また、「積石塚」と「合掌形石室」は、朝鮮半島にも類例があることから、渡来系集団との関係を指摘する意見もあり、馬具や馬骨の遺物(168号墳)が出土していることから、馬匹生産に従事した渡来人との関わりが考えられています。

 大室古墳群は、「積石塚」や「合掌形石室」の存在により、古くから学術的に著名な古墳群でしたが、市民の認知度は低くかったようで、その理由として、盗掘や崩落、風化により古墳そのものの姿を失っていること。草木の繁茂や、交通アクセスの不便さが考えられました。そこで長野市は古墳群の詳細な研究調査を実施し、その成果に基づいた保存修理を図るとともに、周辺部の情報提供施設の建設など史跡公園として、平成10年から4期に分けて整備事業に着手しました。平成25年度に、第1期の史跡の入口となるエントランスゾーンと施設整備ゾーンとしての古墳館が完成し、今は第2期の遺構復元整備ゾーンの整備が始まっています。

 176号墳

 長さ26m、幅20mの大きな積石塚ですが、墳丘が一部壊されており、墳形は不明確です。斜面上側に偏って合掌形石室があることから、別の埋葬施設が存在する可能性や、複数の古墳が集まっている可能性が考えられます。(『史跡大室古墳群』より)

 168号墳

 合掌形石室をもつ積石塚です。直径14mの円墳です。

 屋根形の天井が比較的よく残る、大室古墳群を代表する古墳です。

 167号墳

 173号墳

 横穴式石室は簡単に入ることが出きる古墳なので 皆、懐中電灯を手に石室に入る人、不安定な足取りで撮影場所を確保しシャッターを何度も切る人!

 「賽の河原」「黄泉の国」も今や観光地!

 186号墳

 直径約13mの円墳で、墳丘・横穴式石室ともによく残されています。開口部近くの墳裾から出土した馬骨(歯)は、被葬者と馬との関わりを窺わせる重要な資料です。この他、石室内からは土器刀、鉄鏃などの武器、馬具、鎧、玉類など豊富な副葬品がでどしています。

 235号墳

 墳丘は土と石を用いた構造ですが、墳丘が半分失われ、横穴式石室の裏側が露出した姿を公開しています。

 本古墳の主体部は無袖式の横穴石室です。

 天井石は玄室最奥部の一枚と羨道部の石材が落下しています。

 エントランスゾーンの一番高い所にあります。

 241号墳

 原型がわからないほど改変されていましたが発掘調査で合掌形石室が発見されました。

 墳丘北側は林道敷設のため削平されています。

 東側は後世の造成で埋め立てられ、墳頂部には江戸期のものと思われる墓石が数基設置されていました。発掘調査により寛永通宝が6枚組で出土しています。

 27号墳

 墳丘は土と石を用いた構造です。

 墳丘が削平されているため横穴式石室の側壁や天井石の一部を観察することが出来ます。

 D号墳

 史跡指定後に新に発見された古墳です。

 本古墳は墳丘の西側と上部の殆どが削平されていました。ケヤキの巨木の根元に横穴式石室の奥壁や側壁の一部が露出していたことや、人頭大程度の石材が集積していたことで古墳であることが確認されました。

 壁体最下段の石材は大型の板石を横位に立ていることが特徴です。

 大室古墳群には約500基以上もの古墳があることがわかっています。これは昭和24年~昭和27年の冬までに栗林紀道氏が寺尾中学の生徒と地道な踏査によるもので、501基の古墳を確認され、石室の奥壁に白いペンキで番号を付けられていきました。多くの古墳が失われその番号も残っていませんが、243号墳と239号墳で白いペンキの番号を見ることができます。

 (参考文献『国史跡大室古墳群 史跡整備事業にともなう遺構確認調査概要報告書』)

 「大室神社」

 長野県長野市松代町大室1に所在する神社

 鳥居には「高井大室神社」と書かれた扁額がある。

八丁鎧塚古墳

 「八丁鎧塚古墳」

 長野県須坂市上八丁に所在し、県の指定史跡です。

 昭和23年発掘調査で、スイジ貝製釧・鍍銀銅製獅嚙紋銙板ほかが出土しました。

 1号墳(4世紀後半)・2号墳(5世紀後半)

 ともに直径22.5m 高さ2.5mの円墳です。

 須坂市南部を流れる鮎川沿岸段丘上には、川原石を積み上げた積石塚が数多く分布しています。 (見学資料より)

 矢島先生の説明を聞く

 墳頂に登って、一望する

 集合写真  集合写真拡大

 「中野市立博物館」

 長野県中野市片塩1221

 北信濃ふるさとの森文化公園に所在します。

 銅戈8点 銅鐸5点が出土したことで著名な柳沢遺跡の出土品を見ることができました。

 今回の研修旅行の最後の見学地となり、お名残惜しく・・・

 皆さん展示品を見ていました。

 中野市豊津出土の縄文土器

写真撮影 坂部征彦氏