平成29年国内遺跡一泊研修旅行『丹後地方の古代の遺跡をめぐる』
5月27日(土)~5月28日(日)
案内:小山元孝氏(京丹後市商工観光部観光振興課)
三浦 到氏(元京丹後市立古代丹後の里資料館館長)
豊岡館長
(1日目)
湧田山古墳群→赤坂今井墳丘墓→網野銚子山古墳→網野銚子山古墳→遠處遺跡・古墳群→神明山古墳・京丹後市立古代丹後の里資料館→大成古墳
(2日目)
途中ケ丘遺跡→大宮売神社遺跡→日吉ケ丘遺跡→蛭子古墳群・作山古墳群(加悦古墳公園)→京都府立丹後郷土資料館→私市丸山古墳→黒田古墳
1日目
京丹波サービスエリア
京都駅八条口を出発。京丹後へは10年ぶりの訪問。前回は新大阪から中国自動車道、舞鶴自動車道を経由したが、今回は京都縦貫を京丹後へ。
京丹波サービスエリアでトイレ休憩。
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塩谷古墳公園が望める。
直径8mから最大15.5mの12基の古墳からなる5~6世紀前半ごろの古墳群。
1番大きな5号古墳から、巫女型埴輪2体が出土している。
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ミニ講座(京丹後 ホテル吉翠苑にて)
今回案内をお願いした、京丹後市観光振興課の小山元孝先生のミニ講座を聞く。
演題は「丹後の海と神仏」。
丹後の神社の祭神、寺院の本尊には隠岐から漂着したものが多く、また隠岐から人々も丹後に移ってきた。さまざまな地域から漂着したものも多い。
その神社寺院を祀る各地域で、過疎で管理に苦労している様子を写真で紹介された。
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多久神社
昼食後、最初の見学地、湧田古墳群へ向かう。古墳群は多久神社本殿背後にある。
多久神社本殿は、京都府指定文化財。文化8 年〈1811〉に火災に遭った後再建され、文化11 年〈1814〉には完成。昭和2年(1927)1月30 日には大雪で覆屋が倒壊し、本殿丸桁以上が大破したといい、さらに3月7日に丹後大地震の被害を受けたが、新築されずに修理され、現在に至る。当初材には主に欅が用いられているが、身舎の正面建具、支輪板、桁、妻壁、笈形、垂木、裏板、化粧棟木及び向拝の桁、茨垂木、唐破風板などは、松や檜が用いられている。当初材に比べ木肌や仕事が新しいことから、地震後の修理の際に取り替えられたと考えられる。しかし、大棟及び軒唐破風上部の鬼板や唐破風妻板は当初からのものと考えられ、当初から春日造の屋根に軒唐破風を付ける型式であったと考えられる。
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湧田山1号墳
湧田山古墳群は、竹野川中流西岸の低丘綾上に立地する、総数42基からなる古墳群である。
古墳群中最大の規模となる湧田山1号墳は、北西に突出する前方部をもち、前方部の短小な、全長約100mを測る前方後円墳である。出土遺物がない。竹野川中流域の狭隘部、交通の要衝に立地し、墳丘の形状からは、大田南古墳群の分布する北側を意識した立地となっている。前方後円墳の墳丘の上に円形壇が乗るような形状をしていることに加え、前方部が短小である点は、丹後地域のほかの前方後円墳と比べ構造上大きな違いが認められる。
当初は帆立貝式古墳の一種と考えられ、中期古墳として位置づけられていたが、現在は、後円部が長楕円形を呈することがカジヤ古墳、蛭子山古墳(与謝野町)に共通する要素とされることなどから、古墳時代前期中葉から後葉と位置づけられている。
近年は、北側の大田南2、5号墳という古墳時代前期初頭の古墳が確認されたこと、前述の墳形要素に加え葺石、埴輪を共に欠く点を重視し、古墳時代前期初頭まで遡る案がある
湧田山1号墳は、弥生時代後期末の大型墳墓の成立から網野銚子山古墳をはじめとする大型前方後円墳へとつながる首長墓の可能性がある古墳と位置づけることができる。
また下層より弥生土器が出土していることは、弥生時代前期と中期後葉の遺跡が存在ずることを示す。立地から見て高地性集落の存在が推定される。
湧田山古墳群 墳丘図
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多久神社本殿背後から、地元の方々が整備していただいた綱をたよりに急坂を登り古墳群を目指す。
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1号墳と2号墳の間から1号墳墳丘へ登る。右が1号墳。
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振り返ると2号墳墳丘が見える。
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下りが大変。滑らないように綱を伝って下りる。
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太田南古墳群
湧田山古墳群と谷を隔てた北側の尾根に太田南古墳群がある。2,4,5号墳は3世紀中頃築造と推測され、2号墳からは2世紀末から3世紀初めに後漢の四川で製作された画文帯環状乳神獣鏡が、5号墳からは、高槻安満宮山古墳出土鏡と同形の、魏の青龍3年銘の方格規矩四神鏡が出土している。土取りで危険なため車窓から見学。
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赤坂今井墳墓
赤坂今井墳墓は、中郡盆地から網野市街へ抜ける狭長な谷筋に向かい、東に突き出す細尾根の先端部分に立地する。府道改良に伴い1998、99年に発掘。当初想定していた中世山域に重複して大型の弥生墳墓の存在が明らかになった。
墳丘は、東西36m、南北39m、高さ3.5mの四角錐台の墳丘部および四方に5m~9mの平坦面を持つ構造で、埋葬施設は、墳頂部に6基、墳裾の平坦面に19基以上存在する。墳頂部の埋葬施設はいずれも、成人木棺墓で、裾部の埋葬施設は大小の木棺墓、土壙墓、土器棺墓からなる。
中心埋葬施設である第1埋葬は墳丘の中心点からやや奥よりの場所に尾根の直交方向(ほぼ南北方向)に設置され、隅丸長方形で墓壙長14m、幅10.5m、深さ2m以上を測る。
墳丘上部に敷き詰められていたこぶし大の円礫300個と円礫の上に破砕されて供献された土器砕片が土壙内に落ち込んだ状態で出土。
第1埋葬の北側を一部切り込む第4埋葬は、墓壙長4m、幅4.2m、深さ1.8m。木棺は舟底状木棺で全長4.1m、幅1.3mを測る。棺内から頭飾り、耳飾り一式、鉄剣1点、1が出土した。頭飾りは、被葬者の頭位に、ガラス製勾玉、漢青(ハンブルー)成分も含まれるガラス製管玉、碧玉製管玉といった玉垣が規則正しく三連に連なるもので、布などに編み込んだものとみられる。耳飾りとともに装着された状態で出土。
棺内中央部は厚く赤色顔料が敷き詰められていた。
尾根の先端部分へ登る。
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墳丘模型(丹後古代の館資料館展示)
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北西から墳丘に登る。
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丹後鉄道特急「丹後の海」号が傍を通過。
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墳丘上で小山先生の解説を聞く。
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丹後地震 郷村断層
1927年(昭和2年)3月7日、18時27分39秒に発生した丹後半島北部を震源としたM7.3地震。峰山町で震度6。
特に峰山町、網野町、加悦町地区、岩滝町地区で被害が大きく、地震発生が夕刻だったために暖房や炊事の火を原因とする火災が各所で発生。峰山町では、住宅や織物工場など家屋の97%が焼失。小山先生の解説の中で何度も地震とその後の復興の話があった。
網野町郷の集落を通過。交差点右奥に郷村断層跡が残る。郷村断層は長さ18km。丹後地震で西側が最大80cm隆起し、南へ270cm移動した。奥の道が左に曲がっている。
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断層を超えて、細い道をまっすぐ行くと丹後鉄道線路東側に浅後谷南遺跡がある。狭小な谷地形が複雑に入り組んでいる丘陵の裾部に位置する、弥生時代から平安時代まで継続する集落遺跡。古墳時代の水の祭祀施設が出土している。
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水路の中に数箇所の止水板と木槽・木樋からなる堰状の施設を設け、浄水を得るもので、木槽部と樋部分を1つの木材から削り出したものは他に例が無い。遺跡は圃場整備されており今回は見学せず。
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網野銚子山古墳・小銚子古墳・寛平法皇陵古墳
網野銚子山古墳は日本海を見下ろす台地上に築かれた墳長198mの4世紀後葉築造の前方後円墳。佐紀陵山古墳と同じ設計企画で築造され中央政権との強い関係を示唆する。
神明山、蛭子山とともに丹後の3大古墳と言われる。
3段築成で後円部は径115m・高さ16m、前方部は幅80m・高さ10m。
墳頂部の平坦部とテラスには円筒埴輪列が並び、墳頂斜面は葺石に覆われていた。
出土品は円筒埴輪のみ。円筒埴輪の頂は椀のように蓋があり、蓋の中心に穴が開く丹後型と呼ばれるもの。底の径は30cm前後でヨコハケ主体。側面に長方形の通し穴が開いており規格性の高い埴輪。
網野銚子山古墳墳丘航空写真(京都府立丹後郷土資料館展示)
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網野銚子山古墳墳丘南東側、丘陵から墳丘に近づく。
左側に小銚子古墳が見えてくる。後方が網野銚子山古墳。
右側は古代の集落跡。現在網野市街のある、墳丘の西側には古代には海が広がっていた。
小銚子古墳は網野銚子山古墳の後円部南側に築造された直径36mの円墳。
2段築成で高さは4.8m。斜面には葺石があり、1段目テラスには丹後式円筒埴輪が並ぶ網野銚子山古墳と同じ様式。陪冢的存在。
網野銚子山古墳墳丘全景(東側から)
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網野銚子山古墳の前方部から後円部へ
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網野銚子山古墳後円部平坦部で小山先生の解説を聞く。
ここには円筒埴輪が並んでいた。
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網野銚子山古墳後円部から網野市街地を望む。丹後震災で壊滅的被害を受けた。
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網野銚子山古墳の前方部北側にある寛平法皇陵古墳は未調査で墳丘も大きく改変されている。
『丹後州宮津府志』によると、「石のからと」があり、中から石枕、陶器、曲玉などが出土したという。後期から終末期古墳と思われ網野銚子山古墳とは関係のないものとなる。
寛平法皇とは宇多天皇(在位887~897)。墓は京都市右京区鳴滝宇多野谷大内山陵
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遠處(えんじょ)遺跡・古墳群
古墳時代後期の竪穴式住居・古墳群と、奈良時代から平安時代に移る時期の製鉄遺跡。古墳時代後期の竪穴式住居は47基以上、斜面をL字にカットして方形平坦部を作り上部構造を設置したもので鍛冶炉を持つものもある。古墳群は木棺直葬墓14基、竪穴系横口式石室を持つ小円墳4基。これらの遺跡と重複して8世紀末から9世紀にかけての掘立柱建物群、製鉄炉、炭窯、須恵器あな窯などが検出された。
遠處遺跡・古墳群全景。周囲の岡に古墳群、中央奥は製鉄工房跡。
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工房跡へ向かう。
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炭窯跡
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工房跡で解説を聞く。
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ニゴレ古墳
遠處遺跡・古墳群の東の丘先端に築かれた長さ20m、高さ3~4mの不定形の5世紀中葉の古墳。
鉄製甲冑、剣、鏃と形象埴輪が出土している。外洋を航行できる準構造船埴輪や甲冑形埴輪、椅子形埴輪などは丹後に例がなく畿内の工人が関与したものと考えられる。車窓から見学。(下見の折撮影)
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神明山古墳・竹野神社
竹野(たかの)神社、京丹後市立古代丹後の里資料館と交互に見学。
竹野神社は、第9代開化天皇に嫁いだ丹波大県主由碁理(ゆごり)の娘「竹野媛」が晩年郷里に帰って「天照皇大神」を祀ったとされる神社。拝殿には天皇家ゆかりを意味する「菊の御紋(菊花紋)」と皇室専用の家紋「桐花紋」が彫られている。隣の摂社の斎宮神社には「竹野媛命」「日子坐王命」「建豊波豆羅和気命」が祀られている。
もう一人の竹野姫は、丹波道主の娘で、第11代・垂仁天皇が佐保媛を失った後に、妃候補として招かれた5人の姫のうちのひとり。容姿が美しくなかったために丹波へと帰されることとなり、そのことを恥じた姫は輿から落ちて亡くなった場所が「堕国」、「弟国」、「乙訓」へと変化したという。
旧竹野郡丹後町、竹野川の呼び名は「たけの」、丹後町竹野、竹野神社の呼び名は「たかの」
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竹野神社本殿
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竹野神社参道にある丹後「構え獅子」狛犬
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神明山古墳の前方部から後円部へ向かう。
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神明山古墳後円部で解説を聞く。
神明山古墳は、4世紀末から5世紀初頭築造の前方後円墳。3段築成で墳丘長190m、後円部直径129m、高さ26m、前方部幅78m、高さ15m。前方部後円部に円筒埴輪列が巡り、葺石を持つ。家形埴輪には舟と舟をこぐ人物が線描されていた。
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大成(おおなる)古墳群
竹野川河口東側台地上に築かれた16基の後期の古墳群。
無袖、片袖、両袖式の様々な横穴式石室を持つ古墳群。
これまで5基(7,8,9,17,18号墳)が調査されている。
古墳群へ向かう。
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古墳群西側には竹野川河口が望め、河口をふさぐように立岩が立つ。
後ろ浜には、聖徳太子と母の穴穂部間人皇后の像が立つ。
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北側には日本海が広がる。
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一番手前にある7号墳は、最初に築造された石室全長10.2m、玄室長4.4m、幅1.9mの片袖式石室。
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9号墳は、8号墳に続いて築造された石室全長10.0m、幅1.6mの無袖式石室。
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8号墳は、7号墳に続いて築造された、海に向かって開口する石室全長8.7m、玄室長4.5m、幅2.5mの両袖式石室。
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2日目
宮津ロイヤルホテルに宿泊。
庭から雪舟の絵と同じ方向の天の橋立が望める。
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途中ケ丘遺跡
鱒留川に接する北向きの段丘上に立地する弥生前期から後期に続く環濠集落跡。
環濠は、前期2条、中期5条、後期4条。前期、中期はV、U字形で幅1~2m、後期は箱形断面で幅4m。
土器は前期のⅠ式から後期のⅤ式まで出土している。鉄器には耳付き鉄斧と有茎柳葉式鉄鏃が、石器には、鏃、槍、錐、鑿、包丁、錘などが出土。玉作り関連では、碧玉、緑色凝灰岩の原石、管玉未製品、土製品では人面土器が出土。
途中ケ丘公園に整備された途中ケ丘遺跡。
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大宮売神社遺跡
織物と酒造を司る大宮売神、食物・穀物を司る女神である若宮売神(豊受大神)の2神を祀る。境内周辺は弥生時代以降の遺跡。
弥生時代前期から集落が始まり、中期後期には拠点集落に発展した。古墳時代中期後葉には祭祀遺跡が成立し、奈良時代には神社として発展した。祭祀遺跡から場所を変えず神社に発展した貴重な事例。
境内からは、滑石製勾玉、管玉、鏡形石製品、鏃形石製品、環状石製品、ミニチュア土器などのともに古墳時代中期後葉の須恵器が出土している。
大宮売神社境内
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長い大宮売神社参道
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大宮売神社旧本殿(京丹後市指定文化財)
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大宮売神社本殿と重要文化財(国指定)の石燈籠。
鎌倉時代の石灯籠には「徳治二年丁未三月七日」の銘があるが現在は判読できない。
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本殿裏の禁足地
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弁財天社
神社の四方に弁財天社(南西)、牛頭天王社(北西)、毘沙門天社(北東)、摩利支天社(南東)があった。現在、弁財天社が残り、他は石柱のみが残る。
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与謝野町へ移動。
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日吉ケ丘遺跡(方形貼石墓)
弥生時代中期後半(BC2世紀~BC1世紀頃)の墳丘の裾に平たい石が貼り付けた方形貼石墓。長辺は約32m、短辺は それぞれ17mと22m、高さは約2.7m。埋葬主体は1か所で、墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、677個頭飾りと見られる管玉、銅鐸形土製品、鉄器が見つかった。
加悦町古墳公園から徒歩で日吉ケ丘遺跡へ登る。
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方形貼石墓全体図
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方形貼石墓埋葬主体部
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墳丘と主体部
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三浦先生の解説を聞く。
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日吉ケ丘遺跡と野田川流域
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蛭子山古墳・作山古墳群
蛭子山には8基、作山には5基の古墳が並ぶ。
蛭子山1号墳は古墳時代前期後葉の4世紀中葉築造。その後、作山5→1→2→3→4号墳と造られ、4号墳が中期前葉頃に築造されて造墓を停止する。
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蛭子山1号墳
4世紀中葉築造の前方後円墳。3段築成で墳丘長145m、高さ16m。円筒埴輪列と葺石を持つ。埴輪には丹後形円筒埴輪と朝顔形、短甲形がある。埋葬施設は3基あり、花崗岩の舟形石棺、竪穴式石棺、木棺直葬。舟形石棺、竪穴式石棺には方形の埴輪列が並び、舟形石棺からは後漢鏡、鉄刀、棺外からは鉄製品が出土。
2号墳は一辺42mの方墳。
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作山5号墳
蛭子山古墳群に隣接する作山5号墳は一辺13mの方墳で、葺石・埴輪はない。
埋葬は木棺直葬で、倭鏡・石釧・玉類などが出土。
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作山1号墳
1号墳(写真左)は全長35m造り出し付円墳で、墳丘は2段築成。葺石・埴輪を持つ。
埴輪は丹後型と朝顔型で通有の円筒埴輪はない。埋葬は副室付組合式石棺で男性の遺骸とともに倭鏡・石釧・玉類・副室からは鉄製品が検出された。墳丘周囲には木棺や埴輪棺、土器棺などの埋葬が15基確認された。
作山2号墳
2号墳(写真中央)は直径28mの2段築成の円墳で、葺石はないが丹後型円筒埴輪を持つ。周囲には10基の周辺埋葬が伴う。
作山3号墳
3号墳(写真右)は一辺17mの方墳で葺石はなく、埴輪を持つ。
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作山4号墳
4号墳は全長28mの前方後円墳で葺石はあるが埴輪はない。
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作山4号墳から3号墳2号墳を望む。
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作山2号墳から1号墳を望む。
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作山2号墳から1号墳を望む。 拡大写真
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京都府立丹後郷土資料館
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丹後国分寺跡
奈良時代の国分寺ではなく、南北朝時代に再興されたもの。
礎石が並び、天橋立が望める。
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岩滝駅で小山先生とお別れ。お世話になりました。
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京都縦貫で綾部へ向かう。
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私市丸山古墳
古墳時代中期中頃(5世紀中頃)の作り出しをもつ全長で81m・高さ10mの大型の円墳。
墳丘は、三段築成で構成され、2列の埴輪列を巡らすとともに、由良川から運んだ河原石を葺石として墳丘斜面に敷きつめている。
作り出しは、葺石で方形に区画され、その内側と外側に円筒埴輪を樹立している。造り出しでは、家形・短甲形等の形象埴輪や土師器が出土し葬送儀礼が行なわれた。
中央の主体部(第2主体部)
墳頂部のほぼ中央に位置する第2主体部は、古墳の主ともいえる大首長の埋葬された主体部で、東西方向に軸をもつ墓壙を2段に掘り込み、そこに組合式木棺を安置している。
棺内からは、短甲(三角板革綴)・冑(三角板革綴衝角付)・錣・鉄刀・鉄鏃・農工具・鏡・玉類(勾玉・管玉・小玉・臼玉)・竪櫛等、豊富な副葬品が出土。
北側の主体部(第1主体部)
北側の主体部は、中央の主体部が造られた後に、北側に隣りあうように作られたもので2段墓壙内に組合式の木棺を安置しています。
棺内からは、短甲(三角板革綴)・冑(三角板革綴衝角付)・頸甲・肩甲・草摺の武具一式、帯金具・胡簶金具・鉄剣・鏡・玉類(勾玉・管玉・小玉・棗玉)・竪櫛等、豊富な副葬品が出土。副葬品の出土状況から、38本の矢が胡簶に納められたと思われる。
南側の主体部(第3主体部)
この主体部は鉄鏃と農工具がそれぞれまとめられた状態で出土している。
この主体部には中央の主体部の首長に従属した人が埋葬されたのではないかと考えられる。
急な坂を登りようやく墳丘裾にたどり着く。順に墳丘へ登る。
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造り出しを見下ろす。
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墳頂の主体部。
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発掘中の写真。(綾部市資料館)
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再び京都縦貫で園部へ。
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黒田古墳
小丘陵の先端に立地する全長52mの前方後円形の墳丘墓。 墳丘主軸方向に長軸を持つ楕円形の後円部に、先端が急激に開く細長い撥形の前方部がとりつく。
墳丘下半部は地山を削出し、上半部は盛土で、段築・葺石・埴輪列などはない。
2基の埋葬施設を持つ。中心主体である第1主体部は長辺10m、短辺6.5m、深さ2.5m床状施設の中央のU字状の窪みに粘土を敷いて置かれていた。長さ3m、幅約0.5mのコウヤマキ製の木棺材が遺存する。
棺の内外から双頭龍文鏡(位至三公鏡)1が破砕された状況で出土したほか、棺内から碧玉製管玉4・不明木製品1・棺外から鉄鏃24・碧玉製管玉2・不明鉄製品1・塗漆製品1・墓壙攪乱坑内から土師器壺4が出土した。
第2主体部は長辺約4.8mの墓壙で、棒状の漆皮膜が検出された。
築造時期は庄内式土器が出土していることから弥生終末期と推定される。当地域では最も古く位置づけられる前方後円形の首長墓である。(南丹市資料から)
豊岡館長の解説を聞く。
大和の文化が、丹波丹後に伝わるのに時間がかかる。丹波丹後の土器編年と大和の庄内式、布留式土器の編年とはズレがあるのではないか。黒田古墳は前期古墳でいいのではないか??
前方部を望む。
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墳丘全景。右が前方部。
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墳丘主体部
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後円部で記念写真。 拡大写真
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京都駅で解散。お疲れ様でした。