2017年7月例会「東大寺の建造物をみて歩く」
案内 鶴見泰寿先生
日時 7月16日(日)午前10時
集合 奈良県庁正面(近鉄奈良駅より東へ徒歩約十分)
行程 奈良県庁→平城京二条大路跡→東大寺西大門跡→西塔院跡→戒壇院→中御門跡→転害門→正倉院宝庫→講堂跡・僧房跡→大仏殿院→食堂院跡→大湯屋→鐘楼→念仏堂→四月堂→閼伽井屋・仏餉屋・参籠所・食堂→二月堂→法華堂北門→法華堂手水屋→法華堂→法華堂経庫→手向山八幡宮→手向山八幡宮宝庫→東塔院跡→南大門(解散)
解散後は、東大寺ミュージアムと特別公開中の大湯屋・俊乗堂を自由見学。
東大寺境内を約6キロ歩き、建造物の外観をみてまわります。東大寺は奈良時代から途絶えることなく法灯を守ってきた寺院であり、その長い歴史を物語るさまざまな時代の建造物が建ち並んでいます。このような幅広い時期の建造物がまとまって数多く残っているのは大変に希有なことであり、東大寺の魅力の1つとなっています。解散後は東大寺ミュージアムと特別公開中の大湯屋・俊乗堂を自由見学。
県庁前
暑さ対策の菅笠で案内して頂く鶴見先生
西大門跡
東大寺の正門。西大門の正面には平城京二条大路があり、西へ行くと平城宮朱雀門前に到達する。勅額「金光明四天王護国之寺」は創建当初のもの。西大門は天正11年(1583)に大風のため倒壊し、それ以後再建されていない。『東大寺寺中寺外惣 絵図』には三間八脚門の礎石が描かれる。(『七大寺日記』には五間門の記述がある)
勅額だけが残った西大門は天皇がおられる平城京へ一直線
西塔院跡
現状では基壇の高まりが未整備の状態で残される。『東大寺要録』によれば高さ23丈6尺7寸の七重塔である。基壇の1部が発掘調査され、1辺23・8mの凝灰岩製壇正積基壇を検出している。
先生の説明に往時をしのぶ会員さん 立派な七重塔だったのだろう
西塔院跡
戒壇院(県指定文化財)
戒壇堂(享保18年=1733)は方五間寄棟造。天平勝宝7年(755)に鑑真が受戒をするために創建された。堂内に戒壇が設けられ、戒壇中央には多宝塔がおかれる。戒壇の四隅にある四天王像(国宝)は本来は法華堂の八角須弥壇上に置かれていたとみられる。 室町時代に作成された『戒壇院指図』によると、当時は戒壇堂の北に僧房・講堂があり、1つの伽藍を形成していた。なお、戒壇堂西方の建物は修二会の本行前に別火坊として毎年用いられ、本行の準備や稽古が行なわれる。
この建物も「お水とり」の重要な場所になる
勧進所経庫(重要文化財)
東大寺境内に6つある校倉の1つ。もとは正倉院の西方にあったものを移築した。
勧進所経庫
鏡池から流れ出した小川の横で出土した木簡の話を聞く
中御門跡
現状では道路の左右に礎石が3つずつ列んでおり、一間分北側にも3つの礎石が見られる。本来は転害門と同じく三間一戸の八脚門だったとみられる。慶長11年(1606)1月に付近の民家からの出火により類焼したことから「焼門」とも呼ばれる。
中御門跡礎石
転害門(国宝)
奈良時代。三間一戸八脚門、切妻造。創建期東大寺の門で唯一現存するもの。碾磑亭(てんがいてい:石臼)へ通じることからこの名が付いた。門中央には転害会に際し御輿を置くための小礎石がある。
当時は門扉があったらしい、はずされた理由はわからない
転害門 神輿を置く石
正倉院宝庫(国宝)
奈良時代。一重高床式寄棟造。南北に長い倉は三倉に仕切られ、北倉(校倉)・中倉(板倉)・南倉(校倉)と呼ばれている。北倉は聖武天皇の遺品が納められた勅封の倉であった。中倉・南倉は東大寺に関わる品々が納められ、寺院の管理であったが、明治以後、勅封となった。天保年間に正倉院宝庫が修理された際、宝物は東南院校倉、八幡宮宝庫、大湯屋に一時的に移動・保管された。それまでにも正倉院宝庫と油倉(食堂院北方に所在した)などとの間で宝物の移動が何度かあったようで、もともと油倉にあったものが紛れて正倉院宝物になっている例がある。
東側柵から正倉院宝庫を覗く
講堂跡・僧房跡
正倉院宝物の『殿堂平面図』により創建当初の詳細な建物配置を知ることができる。講堂は礎石が原位置のまま並んでいる。東西および北に配置された3面僧房も西側が発掘調査により確認されている。延喜17年(917)および治承4年(1180)に焼失したが嘉禎3年(1237)に再建上棟された。しかし永正5年(1508)に焼失し、それ以降は再興されていない。近年、下水道工事に伴う発掘調査で、想定通りの位置で東面僧房(太房)の南端にあたる礎石・凝灰岩切石列がみつかっている。
礎石が並ぶなか歩いていく
講堂跡の石碑
僧坊の西端が奥に見える。正倉院宝庫のフェンス辺りまであった。
背後は大仏殿
大仏殿院中門(重要文化財)
五間三戸楼門、入母屋造。宝永6年(1709)~正徳4年(1715)頃の造営 で享保4年(1719)完成。現在、保存修理工事を実施中(平成30年度末完成予定)。廻廊は創建時は複廊であったものを江戸の再建時に単廊にあらためられた。現在軒廊以北は本来は廻廊だったものが江戸再建時に石垣と土塁に変更された。
大仏殿院中門
昼食
午後は東も丘陵、上院伽藍を訪ねる。
猫段
石の形が不揃いなので猫も転ぶとか・・・転ぶと猫になるとか?
大仏殿中門・兜跋毘沙門天
大仏殿中門 大仏殿より
中門前 鏡池
この暑さ 鹿も日陰に
大仏殿(国宝)
天平17年(754)大仏建立を開始した。創建期の大仏殿は『東大寺山堺四至図』(天平勝宝8歳=756)、『信貴山縁起絵巻』(平安時代後期)に描かれている。「大仏殿碑文」には「二重十一間、高十二丈六尺、東西長二十九丈、広十七丈、東西砌長卅二丈七尺、南北砌長廿丈六尺、柱八十四枝、殿戸十六間」と規模が正確に記される。大仏殿内北西隅に展示してある模型は、創建期の伽藍を復元したもので、明治43年の日英博覧会に出陳された。天沼俊一氏設計。創建時の大仏殿は治承4年に炎上したが、建久6年(1195)に創建大仏殿と同規模で再建、落慶法要が営まれた。大仏殿は松永久秀の兵火により再び焼失し、公慶による再建途中の元禄12年(1699)に経済的事情から規模を縮小され、正面十一間が七間に減じられて宝永6年(1709)に完成。大仏殿は重層にみえるが単層裳階付きである。大仏様の要素がみられる。
食堂院跡
現在は礎石を残すのみである。『殿堂平面図』(正倉院宝物)により創建当時の建物配置を窺うことができる。近世までに塔頭が建ち並ぶようになり、食堂(十一間一重とされる)はほとんど痕跡を残さないが、付属施設である食殿・大炊殿の一部が発掘調査で確認されている。
二月堂を遠望
道路脇に残る礎石
大湯屋(重要文化財)
八間×五間一重、正面入母屋造、背面切妻造。西から土間、前室、浴室、釜場(土間)となっており、浴室には建久8年(1197)鋳造の鉄湯船がある。
当時は月8回くらいの入浴!と言っても湯船には浸からないで掛け湯だったそう
俊乗堂
公慶上人が、俊乗房重源上人の遺徳を讃えて建立したお堂。重源上人座像(国宝)と、阿弥陀如来像(重文)、愛染明王像(重文)が安置されている。通常は7月5日(俊乗忌)と12月16日(良弁忌)にしか公開されない
行基堂
ちょっとお疲れ気味の皆様
行基像
今日は特別にご開帳
近鉄奈良駅の行基像前は待ち合わせ場所で有名
鐘楼(国宝)
方一間一重入母屋造。鎌倉時代に栄西が再建。建永元年(1206)~承元4年(1210)か。大仏様。梵鐘は創建期(天平勝宝4年=752)のもの。総高3・86m、口径2・71m、重量26・3tあり、「奈良太郎」と呼ばれる。
鐘はどんな音がするのだろう?「撞いてみたい」と皆さん
念仏堂(重要文化財)
三間×三間一重寄棟造。和様。嘉禎3年(1237)建立。もとは地蔵堂といい、本尊は地蔵菩薩坐像である。
二月堂がお気に入りの鹿
四月堂(重要文化財)
三間×三間の二重寄棟造。延宝9年(1681)建立。鎌倉時代の古材が使用されており、前身建物の存在も想定されている。三昧堂とも呼ばれ、本尊は十一面観音(以前の本尊は千手観音で、現在は東大寺ミュージアムに安置)。
開山堂(国宝)
大仏様。内陣の八角厨子に良弁像(9世紀)を安置する。寛仁3年(1019)に創建され、正治2年(1200)に重源により全面的に改築された。当時は一間四方、宝形造で周囲に縁のある小堂であったが、建長2年(1250)に現在地に移築された時に改造され、外陣を巡らせた方三間の現在の建物となった。毎年12月16日の良弁忌に特別拝観がある。
二月堂舞台より開山堂を遠望
閼伽井屋(重要文化財)
三間×二間一重切妻造。治承4年に焼失したものが13世紀初めに再建された。『東大寺山堺四至図』でもこの場所に井戸が描かれ、天平勝宝頃には「お水取り」が行なわれていた可能性が高い。「お水取り」の名称の由来となる建物で、内部にある2つの井戸から、修二会中の3月12日深夜に香水を汲む。実忠が神明帳を奉読したのに応えて諸国の神が二月堂へ来たが、若狭の遠敷明神だけが釣りをしていて遅れてしまい、お詫びに閼伽水を献納しようといい、白と黒の2羽の鵜が岩の割れ目から飛び出し、香水が湧き出たとされる。
先生から遅刻された若狭の神様のお話を聞く 現代にもありそうな話!
仏餉屋(重要文化財)
五間×二間一重切妻造。鎌倉時代。寺内では御供所(ごくしょ)と呼ばれ、修二会で本尊の前に備えられる餅を搗いた。中央には竈が据えられているが、現在はあまり使用されていない。
湯屋(県指定文化財)
九間×三間一重切妻。寛文年間の再建か。修二会の時に練行衆が入浴したり、食事を調理する建物。治承4年に焼失したとの記録があり、閼伽井屋とともに平安時代末には存在したらしい。
湯屋・仏餉堂
二月堂(国宝)
十間×七間一重寄棟造。二月堂は寛文7年(1667)に修2会の最中の出火により焼失してしまったが、すぐに同じものが再建された。奈良時代は三間×三間の内陣部分のみの仏堂であったが、観音信仰の高まりとともに礼堂・局・舞台などが周囲に付加され、現在のような建物となった。内陣と外陣の間が土間になっていることがそれを物語る。修二会の法要は基本的に内陣で行なわれるが、鐘撞きと五体投地は礼堂で行なわれる。
修二会は天平勝宝4年(752)に実忠が創始し、十一面悔過法(十一面観音に懺悔し鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽を祈願する)を行なった。本行は「六時の行法」として日中・日没・初夜・半夜・後夜・晨朝の6回に分けて毎日行なわれる。二月堂の本尊は十一面観音で、練行衆であっても見ることができない絶対秘仏であるが、内陣の岩盤上に立つことが寛文の火災の際に確認されている。本尊光背と天衣の1部が公開されており、本尊の大きさなどを知ることができる。内陣背面に置かれている厨子に収められた小観音(大観音と同じく秘仏)は、修二会の後半(上7日が終わる3月7日)に本尊となり、内陣正面へ移動される。
参籠所(重要文化財)
十間×四間一重切妻造。中央の馬道を挟んで南側に食堂、北側に宿所がある。建物は鎌倉時代とみられるが、後世の補修が多く正確な時期は分からない。修二会の期間中、11人の練行衆がこの建物で過ごす。食堂は修二会初日に受戒が行なわれるほか、1日1回のみの正式な食事である食堂作法が行なわれる(昼の食事から深夜に行法を終えるまでは1滴の水を飲むことも許されない)。修二会本行のお松明は、参籠所から二月堂へ練行衆が向かう時に1人1人の足元を照らす明かりである。
二月堂・参籠所
参籠所の馬道から二月堂へ
二月堂舞台から・右手前参籠所と馬道・大屋根は大仏殿
二月堂にて解説を聞く。うだるような暑さ、先生も会員さんも修行です
法華堂北門(重要文化財)
鎌倉時代(延応2年=1240)。法華堂の北側にあるが目立っていない。江戸時代の「東大寺寺中寺外惣絵図」によると、法華堂には廻廊と南門も存在した。
法華堂北門
法華堂(国宝)
五間×八間一重、前部入母屋造、後部寄棟造。正堂と礼堂の双堂形式で、正堂は奈良時代、礼堂は鎌倉時代(正治元年=1199)。本尊が不空羂索観音であるため羂索堂とも称された。毎年3月に法華会が行なわれたため三月堂とも呼ばれる。 現在東大寺ミュージアムに安置されている日光・月光菩薩(本来は梵天・帝釈天とみられている)は平成22年の内陣修理までここに納められていた。また現在戒壇堂に安置されている四天王像も本来は法華堂に納められていたことが不空羂索観音の八角壇に残る痕跡から確認された。これらの仏像は『不空羂索神変真言経』『不空羂索陀羅尼経』などの内容に基づく構成である。法華堂をめぐっては史料・仏像・屋根瓦などの様々な側面から建立年代が議論されている。『東大寺要録』には法華堂は天平5年(733)の創建と書かれるが、不空羂索観音はその様式や正倉院文書の記述から天平末年頃の製作とみられていた。また屋根瓦は瓦 工人の人名が捺印されたもので、恭仁宮所用瓦と共通であることから、法華堂の建立年代を天平12年(740)頃とする見解が出されていた。このように仏像と建物で年代にずれがあることから、不空羂索観音を他の堂から持ち込まれたものとする解釈もあった。ところが、平成22年に開始された内陣の解体修理により、不空羂索観音が立つ八角二重壇が法華堂造営と同時に造られたものであり他所からの搬入の可能性がないこと、法華堂および八角二重壇部材の年輪年代測定により材木の伐採年代が西暦731年であることなどが確認された。
法華堂 西から
法華堂北側
法華堂 後部入母屋作り
法華堂 正面
法華堂経庫(重要文化財)
奈良時代。もとは正倉院の西方にあったものを江戸時代に移築した。
手向山八幡宮
手向山の山麓に鎮座する。天平勝宝元年(749)東大寺大仏建立のため、大分県の宇佐八幡宮の神様を
守護神とし建立された。
手向山八幡宮宝庫(重要文化財)
奈良時代。もとは上司の油倉であったが、江戸時代に現在地に移築された。
東塔院跡
奈良時代の七重塔は治承4年に兵火で焼失し、鎌倉時代の嘉禄3年(1227)頃に復興されたものの、康安2年(1362)雷火により炎上した。最近の発掘調査により嘉禄3年再建の塔基壇を検出している。基壇は約27m4方、高さ1・7m以上の規模で、塔の柱配置三間四方であることが確認され、鎌倉時代の基壇の下からは奈良時代の創建基壇がみつかった。基壇は凝灰岩製壇正積で1辺約24mの正方形、塔の柱配置は五間四方(塔初層の柱間は階段幅や基壇の寸法から中央間12尺・両脇間および両端間10尺の計52尺と推定できる)と考えられる。
東塔院跡へ
東塔院跡にて
トレンチ調査をするため、白いテープで印をしている
南大門(国宝)
五間三戸二重門入母屋造。大仏様。正治元年(1199)に重源により再建され、建仁3年(1203)仁王像開眼供養が行なわれた。発掘調査により現在の基壇(鎌倉時代)の下から凝灰岩製の奈良時代の基壇が検出され、当初から現在の規模の門であったと推定される。
南大門
柱に刺肘木の構造
南大門
2階建にみえるが1階建に屋根を2重につけた構造がわかる
説明文は友史会会報(594号)より引用