yushikai.jpg

案内 入倉徳裕先生
日時 6月18日(日)午前10時
集合 JR大和路線 王寺駅北口
行程 西安寺跡→達磨寺・達磨寺古墳群→片岡王寺・放光寺→芦田池→尼寺北廃寺(史跡公園・学習館)→尼寺南廃寺→平野窯跡群→平野1・2号墳→杵築神社(平野3・4号墳)→平野塚穴山古墳→上牧銅鐸出土地→上牧久渡古墳群→JR香芝駅・近鉄下田駅

今回は、王寺町から香芝市・上牧町にかけての葛下川の流域を歩きます(約11km)。この地域は、古代に片岡、あるいは葦田と呼ばれ、7世紀の寺院跡や終末期古墳が存在する点に特徴があります。最近の発掘調査や文献史料の研究成果を参考にしながら、片岡の地域の遺跡を見ていきたいと思います。

西安寺跡

西安寺跡は、王寺町北東部の舟戸神社周辺に所在する古代寺院跡です。『続日本後紀』天長10(833)年閏7月癸未条に「在大和國廣湍郡西安寺俗号久度」とあり、舟戸神社付近に西安寺という字名があること、周辺で古瓦が採集されることから、記事中の西安寺が、この寺院跡に当たり、平安時代初期には久度寺と称されていたと考えられます。 保井芳太郎『大和上代寺院志』(1932)、石田茂作『飛鳥時代寺院址の研究』(1936)によると、明治時代には、舟戸神社社殿の北東に円形の孔を穿った径1間を超える礎石(塔心礎)があったようです(礎石は明治14年の橋の工事に割って使われたらしい)。また、社殿の南に割れた石が散乱しており、礎石を掘り出すところを見た人がいたそうです。これらのことから、塔を左手、金堂を右手に置く西向きの法隆寺式伽藍配置と見られてきました。平成26年度から王寺町教育委員会が寺跡の範囲確認調査を実施しており、26年度の調査で、社殿の北から塔心礎および四天柱礎石の抜き取り痕、側柱の礎石2個、基壇の西辺が検出され、塔の位置や規模が判明しました。塔身は、柱間7尺×3間(6・45m)と復元され、基壇は1辺約13mで、現法隆寺五重塔や法起寺三重塔とほぼ同じ規模です。 同時に社殿の南も調査されましたが、ここでは何も検出されず、27年度に、塔跡の北を調査したところ、礎石が検出され、塔の北に金堂があった可能性が高くなりました。神社西側の三道状の道を中軸線の名残とすると、西向きの法起寺式伽藍配置になります。 寺跡全体の範囲は今のところ不明ですが、地形から見て、神社を中心とする東西100m、南北150m程度の範囲かと思われます。 出土した瓦から、創建年代は7世紀前半に遡りますが、創建に関する記録がなく、何時・誰が建立したかはわかっていません。鎌倉時代以降の史料では、聖徳太子建立の46ヶ寺の1つとするものがありますが、根拠薄弱です。西安寺の建立者としては、主に平群郡に分布し、平安時代末ですが、西安寺に土地を所有していたことが確認できる、百済王系の大原史氏とする説が有力です。なお、西安寺跡の東には、瓦谷という字名があることから、瓦窯が存在する可能性があります。

曇り空の下、150人の会員さんが西安寺跡に向かう

--

舟戸神社境内で入倉先生の説明を聴く

--

東側の瓦窯跡

水面に遠くの山々が映る

--

達磨寺

現在は臨済宗南禅寺派の寺院ですが、元は『日本書記』推古天皇21(613)年12月朔日条に記されている以下の飢者伝説に基づいて開かれた寺と伝えられています。

「皇太子遊行於片岡。時飢者臥道垂。仍問姓名。而不言。皇太子視之与飲食。即脱衣裳、覆飢者而言(中略)皇太子遣使令視飢者。使者還来之曰。飢者既死。爰皇太子大悲之。則因以葬埋於当処。墓固封也。数日之後。皇太子召近習先者、謂之曰。先日臥于道飢者。其非凡人。為必真人也。遣使令視。於是。使者還来之曰。到於墓所而視之。封埋勿動。乃開以見、屍骨既空。唯衣服畳置棺上。於是。皇太子復返使者、令取其衣。如常且服矣。時人大異之曰。聖之知聖、其実哉。」 後に、聖徳太子信仰が盛んになると、「飢者」が達磨の化身と解釈されるようになります(宝亀2(771)年成立とされる聖徳太子の伝記『7代記』では、『日本書紀』と同様の話の後に「彼飢者蓋是達磨歟」とあります)。さらに、飢者=達磨の墓が探し求められるようになり、やがて現達磨寺の境内にある達磨寺古墳群の3号墳が達磨の墓と認識されるようになったようです。建久2(1191)年の『建久御巡礼記』には「ツカノ上に三重ノ塔ニ似タル廟有リ」とあるので、鎌倉時代の初期には、達磨寺3号墳の上に達磨大師の廟が設けられていたことがわかります。 寺の開基については、文安4(1447)年の『太子伝玉林抄』では、鎌倉時代の初め頃に勝月坊慶政が「達磨墓の上の土塔を改めて3重塔を建て、そこに聖徳太子と達磨大師の像を安置した」とあり、また慶長12(1607)年の『達磨寺興衰伝略記』では、建久年間(1190年代)に笠置の解脱上人が達磨像と伽藍を修補して古墳の上に3重塔を建てたとしています。これらの記事の信憑性に問題はありますが、現在の本堂にある聖徳太子像(重文)が膝裏の銘文から建治3(1277)年の作なので、鎌倉時代の中頃までに達磨寺が開基されたと見られます。 平成14年の本堂建替に伴う発掘調査では、鎌倉時代の宝篋印塔の埋納遺構が検出されており、達磨寺の開基に伴うものと考えられています。埋納遺構は、直径1 ・ 4~5mの掘形内に、自然石と瓦で1辺約50cm、深さ約80cmの石室を設け、上を板石の蓋で覆っていました。石室内には、高さ73 ・5cmの凝灰岩製宝篋印塔が安置されており、塔身の上面に穿たれた方形の孔に土師質の合子が納めていました。合子内には、高さ2 ・ 5cmの水晶製5輪塔形舎利容器があり、容器内に石英片岩製の舎利(2 ・ 8×1 ・ 3mm)が納められていました。 鎌倉時代後半の嘉元3(1305)年、興福寺六法衆によって達磨寺の僧坊や庫などが焼き払われます。本堂裏にある「達磨寺中興記石幢」(重文)によれば、15世紀初めの達磨寺は、聖徳太子と達磨大師の像を納めた破屋1軒のみとなっていました。「達磨寺中興記石幢」は、南峯祖能が足利将軍家の支援を得て達磨寺を中興した次第を、永享7(1435)年に南禅寺僧惟肖が「達磨寺中興記」に記し、文安5(1448)年に祖能が8角形の石幢に陰刻して建立したものです。平成12年、石幢の移築工事の際、地下から、祖能の功績を記した嘉吉2(1442)銘の石碑、さらにその下から、石で蓋をした備前の大甕とその中に納められた青磁香炉が発見されました。そのため、石幢の移築は中止され、石幢の下から発見された石碑等は重文に追加指定されました。なお、現本堂にある達磨像(重文)は、永享2(1430)年、足利義教の命により、旧像を補修して造ったことが銘に記されています。 復興された達磨寺は、16世紀の後半、松永久秀に焼き討ちされました。本堂の建替に伴う調査では、本堂の下で焼土層を確認しており、これが焼き討ちの際のものと考えられています。焼土層の上面で建物礎石と礎石の抜き取り穴が検出されており、礎石建物は、松永焼き討ち後に再建された本堂、礎石抜き取り穴は15世紀に祖能によって建立された堂と見られます。江戸時代には、徳川幕府により三十石の朱印地を安堵されます。寛政3(1791)年の『大和名所図会』に達磨寺の絵図があり、達磨寺3号墳の上に建てられた本堂の様子が描かれています。本堂は、四周に縁が付く3×3間の建物で、屋根は方形造となっており頂部に露盤が乗っています。本堂の西に、元禄5(1692)年銘のある瓦製露盤が残っており、絵図の本堂に乗っていたものと考えられます。なお、本堂の北東側には、雪丸像も描かれています。『達磨寺興衰伝略記』によれば、雪丸は聖徳太子の愛犬で、人の言葉を話し、死ぬときには達磨大師のお墓の丑寅に葬るよう遺言したとされています。雪丸像は、元々、達磨寺1号墳の近くにありましたが、道路拡幅に伴う境内整備により、本堂の南西に移動されています。

達磨寺本堂

梔子の香りが漂う境内

達磨寺のボランティアのかたも交え、楽しいひと時

---

達磨寺中興記石幡

---

祖能の功績を記した石碑

---

瓦製露盤

---

雪丸像

聖徳太子の愛犬

今は王寺町の観光大使!

---

本堂出土舎利

松永久秀墓(右端)

片岡城主の墓と並んでいる

達磨寺全景

---

達磨寺古墳群

達磨寺の境内に小規模な3基の古墳があります。これらは6世紀末ごろに造られた古墳で、いずれも内部に横穴式石室があり、達磨寺古墳群と呼ばれています。

1号墳は、境内の北東隅にあり、径約16m、高さ約3mの円墳と見られます。南東に向けて開口する両袖式の横穴式石室があり、規模は玄室長2・8m、幅1・ 6m、高さ1・ 8m、羨道長2 ・ 9m、幅1・ 0mです。玄室内に箱式石棺の石材があり、遺物としてガラス小玉、ガラス管玉、鉄鏃片、須恵器提瓶・杯が出土しています。

達磨寺1号墳

石室の中を順番に見学

2号墳は、1号墳の南に位置し、1号墳とほぼ同規模の円墳と見られます。墳丘の南側に横穴式石室の1部が露出しています。

---

達磨寺2号墳

3号墳は、達磨寺本堂の下にあり、達磨大師の墓とされてきた古墳です。昭和12年に、樋口清之が墳丘と石室の観察・略測をしており、それによると、古墳は円墳で、石室は南北に細長く、玄室の幅4尺3寸、高さ6尺8寸とされています。本堂建替に伴う調査で、周囲に周濠状の溝が巡っていることが確認されましたが、出土遺物から見て古墳に伴うものではなく、後世に掘られた溝と考えられます。

--

片岡王寺・放光寺

片岡王寺は、王寺町本町の王寺小学校付近に所在する古代寺院跡で、王寺町の町名の由来になっています。明治20年頃までは、塔・金堂・講堂の基壇跡や礎石が残っており、小学校校舎と重複して南向きの四天王寺式伽藍が存在したものと考えられます。片岡王寺は、永承元(1046)年の雷火や戦国時代の兵火による焼失によって衰退し、現在では小学校の北西に放光寺として存続しています。 採集された瓦から、寺の創建は7世紀前半に遡りますが、創建に関する確かな記録はなく、法隆寺蔵の持統8(694)年銘『観世音菩薩造像記』に「片岡王寺令弁法師」とあるのが史料上の初見です。令弁法師は、百済王系の大原史氏であり、同氏が片岡王寺の創建に関わっていた可能性があります。 一方、正安4(1302)年の『放光寺古今縁起』では、寺の創建を敏達天皇の皇女、片岡女王としており、これに基づいて敏達天皇系の王族が寺を創建したとする説があります。ただし、敏達天皇の皇女に片岡女王は確認できず、聖徳太子の皇女に片岡女王がいることから、この片岡女王を寺の創建に結びつける説もあります。

片岡神社

 片岡神社は八幡大神、住吉大神、豊受大神、清滝大神、天照大神が祀られ、放光寺の鎮守社とされています。『延喜式』神名帳には片岡坐神社とあり、かつては雨の神として信仰を集めていたと言われます。

片岡神社

聖徳太子の影響が色濃く残る

---

解説を聞く。寺の遺構は南側校舎の下。

---

芦田池

『日本書紀』推古天皇15(607)年に、聖徳太子の進言によって四つの池を造ったという記事があり、その内の片岡池を現在の芦田池に当てる説があります。その当否はともかく、柿本人麻呂の歌に「明日からは 若菜摘まむと 片岡の 朝の原は、今日ぞ焼くめる」とあり、『延喜式』には、茅渟王の墓を片岡葦田墓とするので、芦田は葛下川流域を指すものと見られます。5世紀、葛城氏に葦田宿禰の名が見え、娘の黒媛は履中天皇の妃、孫の荑媛は履中天皇の子、市辺押歯皇子の妃になっています。市辺押歯と荑媛の子、顕宗天皇の陵、孫の武烈天皇の陵はともに片岡に存在したとされており、5世紀における片岡の地は葛城氏の勢力下にあったと考えられます。

芦田池を右に見ながら歩く

池の説明板には人麻呂の歌が

---

尼寺廃寺

香芝市尼寺に所在する古代寺院跡で、現白山姫神社の東に位置する北廃寺と、現般若院を中心とする南廃寺からなります。

北廃寺

北廃寺は、平成3~12年に香芝市が調査し、塔跡、金堂跡、回廊などを検出し、東向きの法隆寺式伽藍配置であることが確認されました。回廊内は南北71 ・ 4m、東西44 ・8m、金堂基壇は南北16・2m、東西13・ 6m、塔基壇は1辺13 ・6mの規模です。平成8年の調査で、塔の基壇下から東西、南北とも3 ・ 8m、厚さ1・8mの巨大な心礎が発見され、柱座から耳環、水晶玉、ガラス玉などの舎利荘厳具が出土しています。出土した軒瓦には片岡王寺や飛鳥の坂田寺と同笵のものがあり、創建は7世紀後半と推定されています。

伽藍全景

綺麗に整備された塔跡

---

塔礎石

---

塔礎石跡で解説を聞く

---

学習館

館内には実物の土層断面や、塔心楚の模型が展示

---

南廃寺

南廃寺は、平成16年の般若院境内の調査で、塔基壇と金堂基壇が確認され、南向きの法隆寺式伽藍配置であることが明らかになりました。出土した瓦は、北廃寺と共通していますが、笵傷の具合から創建時期は南廃寺が先行すると考えられています。 般若院にある毘沙門天立像には「華厳山般若院片岡尼寺」という墨書があり、これと平安時代末の『七大寺巡礼私記』にある「件般若寺亦号片岡寺」を結びつければ、南廃寺が般若尼寺=片岡尼寺、北廃寺が般若寺=片岡(僧)寺であったと見られます。 尼寺廃寺を『法隆寺伽藍縁起並流記資材帳』『上宮聖徳法王帝説』の「葛城尼寺」に比定する説がありますが、『続日本紀』光仁即位前期の記事によれば、葛城尼寺は橿原市和田廃寺と見られます。また、尼寺廃寺の建立者を敏達系王族とする説もありますが、それを示す確かな根拠はありません。

南廃寺

---

南廃寺(般若院)

---

平野窯跡

香芝市平野の丘陵に所在する窯跡群で、三郷町の勢野・辻ノ垣内窯跡と並んで奈良盆地では最も年代の古い須恵器窯です。 昭和49年、区画整理事業に伴う調査で5基の窯跡が確認され、公園内に保存された2・3号窯を除く、1・4・5号窯が調査されました。1・4号窯は須恵器を焼成した登窯で、出土遺物から6世紀末から7世紀、5号窯は瓦を焼成した有段登窯で、出土瓦から7世紀中ごろから後半と考えられます。

平野瓦窯 埋め戻されて保存

今は児童公園に

---

解説を聞く

---

平野古墳群・平野塚穴山古墳

平野窯跡群と同じ丘陵の南側に存在する7世紀の古墳群で、現在は3基のみが残っています。

1号墳

古墳群の東端に位置し、平野車塚古墳とも呼ばれます。南に開口する両袖式の横穴式石室を持ち、墳丘は直径約25mの円墳と推定されます。石室は、全長9・2m、玄室長3・5m、同幅2・8m、高さ2m以上の規模で、面を整えた花崗岩の巨石で構築されています。

南向きに石室の開口部が見える

---

2号墳

1号墳の西に位置する直径26m、高さ6・5mの円墳です。南東に開口する全長約10mの両袖式横穴式石室を持ち、玄室は長さ3・8m、幅2・5m、高さ2・2mの規模で、床面には凝灰岩切石を敷き、中央に棺台が設けられています。羨道は残存長6・8m、幅約2m、高さ1・6mで、床に小礫を敷き詰めています。石室壁面は、花崗岩の巨石を縦方向に用いて構築しており、1号墳より年代的に後出すると見られます。

フェンス越しに古墳を眺める(右1号墳、左2号墳)

---

3号墳・4号墳

杵築神社の北東にありましたが、現在は消滅しています。江戸時代の絵図には、3号墳に石室状のものが描かれており、神社境内に凝灰岩石材が散乱していることから、横口式石槨を主体とする古墳であった可能性があります。

杵築神社

神社の木陰に感謝

---

杵築神社裏には古墳があったという

---

平野塚穴山古墳

古墳群の西端に位置する1辺20m程度の方墳で、墳丘背面側を大きく削って墳丘を際立たせています。埋葬施設は、玄室に短い羨道が付く横口式石槨で、全長4・5m、玄室長3・5m、同幅1・5m、高さ1・8mで、凝灰岩の切石で構築されています。昭和47年の調査で、石槨内から夾紵棺の破片や金環、銅椀の破片などが出土しており、皇極天皇の父、茅渟王の片岡葦田墓とする説が有力です。なお、江戸時代には塚穴山古墳を顕宗天皇陵、3号墳を武烈天皇とする説がありましたが年代的に当たりません。また、江戸時代の平野村絵図には、塚穴山古墳の南に岩屋が描かれており、古墳が存在した可能性がありますが、詳細は不明です。

墳丘に行く小道に可愛い花が

---

石室を見る

明日から教育委員会が発掘調査をするとのこと

---

石室内部

横口式石槨の構造がよくわかる

床面の敷居石が整然と並ぶ

上牧銅鐸出土地

江戸時代の文化年間(1804~1818)、上牧町南西部の観音山から銅鐸が出土と伝えられています(現在、静岡市の天満宮が所蔵し、登呂博物館に展示)。銅鐸は高さ29・3cmの袈裟襷文で、島根県加茂岩倉遺跡の17号銅鐸と兄弟銅鐸と見られています。

銅鐸出土地から久度古墳群を望む

---

銅鐸出土地

---

上牧久渡古墳群

上牧町南西部の丘陵上に所在し、平成23年からの住宅開発に伴う調査で、7基の古墳が確認されています。

最も古い3号墳は、丘陵の北端に位置する1辺15mほどの方墳で、3基の木棺の1つから画文帯環状乳神獣鏡や鉄剣、鉄鏃などが出土しました。出土した土器から古墳時代の最初期に位置づけられます。

1号墳は、丘陵中央に位置する全長約60mの前方後円墳です。出土した土器から古墳時代前期に位置づけられますが、埋葬施設はまだ確認されていません。

4号墳・5号墳は、1号墳の北に位置する後期の円墳です。規模は、いずれも直径18m程度で、埋葬施設として木棺が確認されています。5号墳の墳裾から銅鏡の破片が出土しており、近辺に前期の古墳が存在していた可能性があります。2号墳は、丘陵の南裾に位置する直径16mの円墳で、7世紀の築造と見られます。埋葬施設は横穴式石室ですが、石材はほとんど抜き取られていました。また、石室の東側の墳丘下で、箱式石棺状の施設のあることが確認されています。

古墳群へ登る

---

3号墳で説明を聞く。

右下が銅鐸出土地

遠くに松永久秀信貴山城(台形の山)が望める

---

3号墳

---

3号墳で青木勘時先生(上牧町教育委員会)に

説明をして頂く

---

手前右の高まりが5号墳。後方が1号墳

---

---

南から1号墳全景(右が前方部)

---

1号墳で関川尚功先生の説明を聞く

---

2号墳墳丘(左)と堀

---

説明文は友史会会報(593号)より引用