2017年4月例会「三島古墳群を歩く(2)」
案内 吉村和昭先生
日時 4月16日(日)午前10時
集合 JR京都線 摂津富田駅
行程 太田茶臼山古墳→太田神社・太田茶臼山古墳陪塚は号→太田茶臼山陪冢に号・ほ号→阿為神社→安威古墳群→安威0号墳・1号墳→将軍山第1地点遺跡(月見山古墳)→真龍寺古墳→将軍塚古墳・将軍山古墳竪穴式石室(移築)→新屋古墳群→紫金山古墳→青松塚古墳→南塚古墳→海北塚古墳→阪急バス福井バス停→JR茨木駅
昨年6月例会に続いて、三島古墳群を歩きます。今回はその西半である茨木市域の古墳を巡ります。
太田茶臼山古墳
太田茶臼山古墳は富田台地中央やや西寄りに立地する墳丘長226mの巨大前方後円墳です。後円部・前方部とも三段築成で、両側のくびれ部に造り出しをもちます。周濠は盾形で幅約30mを測ります。墳形は古市古墳群の市野山古墳(允恭陵古墳)、墓山古墳との類似が指摘されています。墳形、埴輪の年代から5世紀中頃の築造とみられます。現在、太田茶臼山古墳は、宮内庁により継体天皇三島藍野陵に治定されていますが、継体天皇の時代よりさかのぼる古墳であることは明白です。古墳の周囲に隣接して7基の径20〜30mほどの中小古墳が認められます。これらのほとんどは茶臼山古墳の陪冢と考えられます。今城塚古墳に陪冢が認められないのとは対照的です。周辺のこれまでの調査では、北西の周堤上で20数本が密に並べられた円筒埴輪列が、また南西の周堤外周(太田公民館敷地)でも埴輪列が検出されています。なお、太田茶臼山古墳の埴輪と新池遺跡A群埴輪窯出土埴輪には同1工具を用いて製作された埴輪が発見されています。
参拝所
昨年とは打って変わり、晴天のスタート
吉村先生の説明に耳を傾ける
前方部より墳丘を眺める
周濠の水面は鏡のように青い空を映している
太田神社・太田茶臼山古墳陪冢は号
式内社である太田神社は速素戔嗚命、天照皇大神、豊受大神を祭神としています。この地を本貫地としたとされる中臣大田連と関係の深い神社と考えられます。
太田神社社殿の裏側に接して、太田茶臼山古墳の陪冢とみられる円墳(宮内庁は号)があります。
太田神社へ
汗ばむ陽気! 鳥居を潜ると爽やかな風
先生の説明を真剣な眼差しで聴く皆さん
太田茶臼山古墳 「は号陪塚」
宮内庁の管轄で、柵で囲まれ立ち入り禁止
太田茶臼山古墳 「は号陪塚」の脇を抜ける
暫らく藪をかき分け道路を横切り、目指すは公園へ
太田茶臼山古墳陪冢に号(A号)・ほ号(B号)
陪冢に号(大阪府教委付番のA号)とほ号(同B号)を含む1帯は、昭和47年、宅地造成にともない発掘調査がおこなわれました。に号は径約21mの円墳、ほ号は径約19mの造り出し付きの円墳で、ともに周溝内から埴輪片が出土しています。なお、先に触れた北西の周堤上で検出された20数本の円筒埴輪列は、公園前の道を挟んだ宅地で出土しています。
太田茶臼山古墳 「ほ号陪塚」
太田茶臼山古墳 「に号陪塚」
公園内に二基の陪塚、この陪塚も宮内庁の管轄
安威遺跡
安威遺跡は平成9・10年の調査で、古墳時代中・後期の竪穴住居跡35、掘立柱建物跡11、鍛冶炉などが検出され、中期前半を主体とする大集落であることがわかりました。竪穴住居はいずれも壁立建物で竈を備えていました。韓式系土器、陶質土器なども含め、渡来系の要素が多く認められます。
安威川を渡る
参加者157名の長蛇の列が続く
安威川から安威遺跡を遠望
土手に咲く菜の花から元気を貰って、頑張って歩く
安威川堤防から阿武山を遠望
丘陵に見える白い建物は京都大学地震観測所
鎌足公はこの裏に眠っているそう
阿為神社
阿為神社は花園山の中腹に鎮座する式内社で、天児屋根命ほか三神を祀ります。『新撰姓氏録』にみえ、安威付近を本貫地とする中臣藍連と関わる神社と考えられます。
当神社には、後述の将軍山古墳から出土したとされ、江戸時代、享保年間に献納された三角縁二神二獣鏡が伝わっています。
安威神社へ もうすぐお弁当
安威神社本殿 日陰が有難い
稲荷神社奥に安威古墳群がある
赤い鳥居を抜け、先ずはお稲荷さんへ
安威古墳群
安威古墳群は約20基の中小古墳からなります。阿為神社とその東側の大念寺の裏山尾根上には5〜11号墳が位置しています。これらはおよそ横穴式石室を主体とする後期古墳とみられます。このうち5号墳は、かつては径20mほどの円墳と考えられてきましたが、測量調査により墳長約34mの前方後円墳である可能性が高まりました。1方、北東端の天神山に位置する12号墳は、径約20mの円墳で、南に開口する横穴式石室が破壊された際、耳環、金銅装刀装具、鉄地金銅張の馬具、刀子、鉄鏃、須恵器、土師器などが出土したことが知られています。
稲荷神社本殿裏が安威5号墳
登ってみようか
安威5号墳墳丘
安威2号墳墳丘
安威0号墳・1号墳
安威古墳群の一連の番号が付されていますが、0号墳、1号墳は前期古墳です。1号墳は東西を主軸とする全長約45mの前方後円墳で、主体部は後円部墳頂の2基の粘土槨です。南側の1号粘土槨の棺内から石釧、車輪石が出土しています。また、棺外東側では靫か盾とみられる漆膜も検出されています。前期中頃に位置づけられます。一方、未発掘の2号粘土槨は1号の北側下層にあり、1号槨に先行するものとみられます。茨木市立北陵中学校の敷地南端に保存されており、墳頂部には粘土槨の模型があります。
0号墳は1号墳の西側に位置する径15mの円墳です。東西を主軸とする切り合わない粘土槨2基が並列しています。1号槨からは上方作系浮彫式神獣鏡、滑石製勾玉、鉄製農工具が、2号槨からは斜縁神獣鏡、石釧、鉄製農工具などが出土しています。ともに前期後葉の築造とみられます。
安威1号墳墳丘
中学校の門扉が開いている!恨めしそうに中を覗く
安威0号墳墳丘
将軍山第1地点遺跡(月見山古墳)
追手門学院大学の敷地内、将軍山第1地点遺跡と呼ばれる場所では、昭和27年に、外面をヘラで磨いた弥生土器壺が採取されました。地形から前方後円墳と考えられてきました。平成25年におこなわれた調査の結果、前方後円墳であることは否定されましたが、壺、鉢の破片が採取され、弥生後期の墳墓であることがあきらかになりました。
将軍山第1地点遺跡
土器の欠片から推定されたレプリカの壷棺が、真ん中にある
真龍寺古墳
追手門学院大学の造成にともなって発見された古墳で、敷地西端、中学・高等学校校舎西側にあります。後述する将軍塚古墳とは、谷を挟んだ北側に位置します。昭和45年、さらに平成25年に調査がおこなわれています。推定径約22mの円墳で、南向きの横穴式石室を内部主体とします。開口部は未調査のため羨道長は不明ですが、両袖式石室の玄室は長さ4・5m、最大幅1・7mを測ります。須恵器杯身・杯蓋、高杯、はそう、提瓶などが出土しています。6世紀後半の築造です。
玄室の南半分と羨道部分の天井石が抜き取られているので、両袖式石室の中の様子がよく見える
将軍塚古墳(将軍山1号墳)
南に舌状に延びる丘陵の南端には、前期の前方後円墳(将軍山古墳)を含む6基からなる古墳群があります。将軍塚古墳(将軍山1号墳)を除く古墳は昭和30年代の宅地造成により調査された後に消滅しました。将軍山古墳以外はみな横穴式石室を主体部とする後期古墳です。
将軍塚古墳はその他の古墳から離れた北の丘陵頂部に位置します。この古墳は『摂津名所図会』にも描かれるように、藤原鎌足の墓であるとの伝説により古くから大切に祀られ、横穴式石室は大織冠神社となっています。円墳で径は約23mと推定されます。右片袖式の横穴式石室は、全長が現状で9・9m、羨道長4・2m、玄室長5・7m、最大幅2・3mを測ります。玄室側壁は5段に積まれ、天井石は5枚で構成されます。早くに開口したため、出土遺物は乏しいですが、大英博物館に遺されたガウランド資料にある須恵器杯類は、7世紀前葉のもの(TK209型式)です。
将軍山1号墳への階段
緩やかだけど段数の多い階段 降りて来る人から「まだあるよ!」の声が飛ぶ
将軍塚古墳(将軍山1号墳)
10月16日の鎌足公の命日には、九条家が祭祇を行っていたそうだ
将軍山古墳(将軍山2号墳)
全長107mを測る3段築成の前方後円墳です。昭和31年に小林行雄により後円部竪穴式石室の調査がおこなわれています。その後、宅地開発により消滅しましたが、竪穴式石室は将軍塚古墳西側に移築されています。
墳丘斜面全面に葺石があり、墳頂部とテラスには埴輪が並べられていました。大半は円筒埴輪ですが、墳頂部には大型の壺形埴輪も置かれていました。竪穴式石室は徳島県吉野川流域の結晶片岩を使って、墳丘主軸と直交方向(東西)に築かれていました。発掘調査では硬玉製勾玉、ガラス小玉、刀剣、鏃形石製品、銅鏃、鉄鏃などが出土しました。なお、先述のように、阿為神社が所蔵する三角縁唐草文帯二神二獣鏡は、この古墳から出土したものとされています。古墳の築造時期は前期中葉と推定されます。
将軍山古墳(将軍山2号墳)移設石室
狭い場所にあるので、交替で見学する
新屋古墳群
将軍山の丘陵を西に降り、佐保川を渡って西に進みます。正面に式内社である新屋坐天照御魂神社の宮山が見えてきます。この山の東斜面に総数30基ほどの新屋古墳群があります。横穴式石室を内部主体とする6世紀後半から7世紀の群集墳です。昭和37年、平成3年に発掘調査がおこなわれています。群中最大の古墳は径16mの円墳である26号墳です。石室内には組合式石棺が安置されており、副葬品にはガラス小玉、杏葉、辻金具といった馬具、鉄刀、須恵器(杯身・杯蓋・高杯・壺・提瓶)がありました。
新屋神社へ向かう
新屋神社本殿
境内に集まり先生の説明を聴く。
紫金山古墳
北大阪警察病院の裏山にある全長約110mの前方後円墳です。病院の貯水槽建設にともない、後円部の竪穴式石室が発見されました。石室の調査が昭和22年に、また平成4・15・16年には墳丘調査が京都大学によりおこなわれました。後円部墳頂に墳丘主軸と直交して築かれた竪穴式石室の長さは9・6mで、内法長さ7・0m、幅1・1m、高さ1・2mを測ります。粘土床の形状から割竹形木棺が置かれていたと推定されます。石室内U字型のくぼみ内で方格規矩四神鏡、玉類、筒形銅器、紡錘車形石製品、刀剣が、石室南壁・北壁、木棺の小口の間で三角縁神獣鏡、勾玉文帯神獣鏡、貝輪、腕輪形石製品、短甲、籠手などが、さらに石室内四周の板石上で刀剣類、鉄鏃、農工具、紡錘車形石製品などが出土しています。将軍山古墳同様、前期中葉に位置づけられます。なお、主要な出土遺物は大阪府立近つ飛鳥博物館で常設展示されています。
後円部
梅原末治・小林行雄により発掘調査された学史に名を残す古墳
説明板だけが立つ
近つ飛鳥博物館では、副葬品の出土状況を示す石室模型も展示している。
前方部から後円部への道
低い前方部
青松塚(せいしょうづか)古墳
紫金山古墳の南側、警察病院裏手に位置する後期の円墳です。南に開口する左片袖式の横穴式石室を内部主体とします。昭和22年、紫金山古墳の石室調査とあわせて、石室の調査がおこなわれました。玄室長3・3m、幅2m、高さ2・4m、羨道長3・6m、幅1・1m、高さ1・3mを測ります。石室内から、画文帯神獣鏡、乳文鏡、切子玉、平玉、小玉、銀製空玉、銀環、銀製指輪、刀、三輪玉、鉾、鉄鏃、斧、鍬、鑿、轡・鐙・雲珠・杏葉などの馬具、須恵器、土師器などが出土しました。須恵器は三型式に分かれます。初葬は6世紀前葉(TK10型式古相)であり、追葬は6世紀中葉から7世紀初頭(TK10型式新相、TK43型式、TK209型式)までと考えられます。
病院内の青松寮という建物の傍らにあったので、この名が付く
石室が大きく南に開いている 誰を追葬したのだろう
海北塚(かいぼうづか)古墳
北から延びる段丘の南端に位置します。西に開口する横穴式石室で、結晶片岩製の箱式石棺が納められています。玄室長4・2m、最大幅2・3mを測ります。明治42年には墳丘から須恵器、玉類、獣帯鏡が、昭和10年には石室内から単龍環頭大刀柄頭、鉾、馬具(心葉形杏葉、楕円形杏葉、雲珠など)、須恵器などが出土しています。6世紀後半(TK43型式期)の古墳です。首長墓系譜は、南塚古墳→青松塚古墳→海北塚古墳の順にたどることができます。
石室開口部
箱式石棺の石材は、この付近では産出しない四国の阿波に多い石だそう
はるばるこの地に運ばれ、今は竹と共存している
石室
説明文は会報(591号)より引用