奈良県立橿原考古学研究所友史会2017年2月例会
「巨勢・葛城の境を歩く」
案内 坂 靖先生
日時 平成29年2月19日(日)
集合 近鉄吉野線市尾駅 午前10時
行程 市尾墓山古墳→市尾宮塚古墳→権現堂古墳→巨勢寺跡→(昼食 葛公民館・稲宿公民館)→安楽寺→新宮山古墳→條ウル神古墳→日本武尊白鳥陵→掖上鑵子塚古墳→JR掖上駅
今回は、5~6世紀の葛城と巨勢の地域集団の勢力範囲を考えながら、両者の境界部にあたる地域を歩きます。
近鉄市尾駅
ここから歩いて4,5分にある市尾墓山古墳へ
市尾墓山古墳
市尾墓山古墳は、墳丘長約66mの前方後円墳である。精美な周濠と高い外堤をそなえ、墳丘に埴輪と鳥形・笠形などの木製品を樹立する。埋葬施設は、二上山凝灰岩製の家形石棺を安置するごく初期の右片袖式の畿内型石室で、奥壁側にも閉塞部がある特異な構造となっている。石室内からは、ガラス製や水晶製の玉類、鉄刀・鉄刀子・弓金具・胡籙金具のほか、鞍金具・雲珠・辻金具・花弁形杏葉・革帯飾金具などの金銅装や鉄製の馬具類、須恵器・土師器などが出土した。古墳は、6世紀初頭に築造されたと考えられる。
復原された古墳の前にはたくさんの参加者が
普段は施錠されている扉を先生に開けて頂き
石室と石棺を見学する
水田地帯にゆったり佇む古墳
墳丘に登れば遠くに二上山、飛鳥の地も見える
玄室には凝灰岩製の刳貫石棺が
先生の説明をメモしながら熱心に聞く会員さんがた
市尾宮塚古墳
市尾宮塚古墳は、墳丘長44mの前方後円墳である。市尾墓山古墳の南西約2〇〇mの丘陵上にある。後円部の両袖式横穴式石室に家形石棺を安置するが蓋石は失われている。巨勢谷地域の石室の特徴である玄室の天井が低く、細長い長方形の平面プランを有する両袖式の巨勢谷型石室である。石室内からは金環、水晶製やトンボ玉を含むガラス製の玉類、鞍金具・鐘形杏葉・障泥釣金具・辻金具・革帯金具などの金銅装や鉄製の馬具類、捩環頭などが出土している。築造時期は、権現堂古墳に続く6世紀前葉で、巨勢の地域集団の系譜のなかで捉えることが可能である。
天満神社参道入り口の巨木
市尾宮塚古墳は境内の奥に見える
神社の鳥居と御神木
見学者の質問に丁寧に答えられている先生
石室に近づくとライトアップ
凝灰岩製の家型石棺が輝いている!
神社の境内に集まり、先生の説明を聞く
次ぎの見学地に向かって、黙々と歩く
近鉄葛駅でトイレを貸して頂く。
近鉄さん!有難うございました。
権現堂古墳
御所市樋野の丘陵頂部、天ノ安川神社境内にある。墳丘はかなり破壊されており、直径3〇m程度の円墳と推定されるが、北側に前方部をむける前方後円墳である可能性もある。埋葬施設の横穴式石室の奥壁部は石材がぬかれ、奥壁側から玄室内を覗くことができる。玄室の天井が低く細長い平面プランを有しており、右片袖式の巨勢谷型石室である。玄室内中央には、石枕付きの刳貫式家形石棺があり、さらに墳丘上と石室内に石棺材や石材が存在しており、もう1基の刳貫式家形石棺と結晶片岩製の組合式石棺という、合計3基の石棺の存在が推定されている。出土遺物としては、石室崩壊を防ぐ工事の際に出土した挂甲小札、杏葉・辻金具・革帯飾金具などの金銅装馬具類、鉄鏃、須恵器が知られる。築造時期は6世紀前葉で、巨勢谷中央部にあって、市尾墓山古墳に後続する巨勢の地域集団の首長墓と考えられる。
権現堂古墳 天ノ安川神社参道入口
健脚を誇る会員さんは長い階段も難なく登られる
天ノ安川神社社殿を山門から望む
権現堂古墳の石室を玄室側から見学
厳重に鉄扉で閉ざされた石室
ここは懐中電灯がライトアップ
巨勢寺跡
東面する中門、南に塔、北に金堂、背後の西側に講堂を構える法隆寺式の伽藍配置を構える巨勢氏の氏寺である。巨勢寺の下層からは、5~6世紀の須恵器・土師器や、子持勾玉などの遺物も出土している。巨勢谷の古墳や、こうした遺物は、6世紀には巨勢谷の地域集団が勢威を誇っていたことのあらわれであり、巨勢氏の祖先系譜と一定の整合性をもっていることは注目に値する。巨勢谷の古墳は、巨勢男人から連なる人々の墳墓と関連づけることの妥当性がここにある。
巨勢寺跡の礎石が歴史を物語る
夫を案じる鸕野讃良の思いは届いたのだろうか?
つらつら思う
今は狭くなった伽藍跡で説明を聞く
昼食場所となる葛公民館
広い和室で足を休める皆さん
稲宿公民館
安楽寺の近くにある公民館も
昼食場所でお世話になる
安楽寺
三重塔の初層が残り、「葛城寺縁起」によれば、延宝年間(1673~81)に三重塔の九輪が墜落し、上の二層を失って下層のみをとどめたという。現存の塔は、鎌倉時代の建立とみられる。数少ない中世三重塔の類例として貴重であり、「安楽寺塔婆」として国の重要文化財に指定されている。
安楽寺塔婆と新宮山古墳の分岐点で見学順番を待つ
安楽寺塔婆
急な階段を登り塔を間近に見学する
新宮山古墳(巨勢山708号墳)
御所市稲宿の巨勢山古墳群の東端部丘陵上にある。直径25m程度の円墳または、墳丘長4〇m程度の前方後円墳と考えられる。玄室高が低く、細長い長方形の平面プランをもつ巨勢谷型の両袖式横穴式石室が開口している。玄室内の奥壁寄りに結晶片岩製の組合式石棺、羡道寄りに竜山石製の刳貫式石棺がある。いずれの石棺も朱によって赤彩されている。出土遺物は須恵器が採集されている程度で、詳しくはわからない。
石棺の型式や出土遺物などから、6世紀中葉の築造とみられる。権現堂古墳に続く巨勢谷の地域集団の首長墓と考えられる。
石室は狭いので、リュックや手荷物は置いていく
石室には竜山石で作った刳貫式石棺が安置
遠く播磨の地から運ばせた巨石
巨勢氏の権力を如実に伝える
奥壁に安置された組合式石棺
朱を施した形跡がよくわかる
條ウル神古墳
御所市條の巨勢山古墳群の北東端部の丘陵上に立地する。
大正年間に「條の古墳」として報告されており、平成3年と25・26年に御所市教育委員会が発掘調査を実施している。 それによれば、墳丘長7〇mの前方後円墳とされる。埋葬施設は、玄室が細長い長方形の平面プランをもつ両袖式の横穴式石室であり、それだけをとれば巨勢谷型の特徴をもつ。しかし、玄室の高さが高く、前壁を垂直に積み上げている点は、葛城市の笛吹神社古墳・二塚古墳・平林古墳など葛城地域の横穴式石室と共通する特徴をも有している。こうした点を重視すれば、一概に巨勢の地域集団の首長墓として意義づけることは躊躇される。葛城の地域集団との関連をも考慮すべきだろう。玄室中央には、両側に3個の縄掛突起のある家形石棺が安置されている。築造時期は、6世紀後葉と想定される。
古墳は私有地になっているため遠望する
先生の説明を聞く
ここでも会員さんからの質問が飛び交う
日本武尊白鳥陵
明治9年(1876)に考定されたもので、遺跡や古墳に該当するものではない。『日本書紀』の日本武尊の説話では、東国征討ののち亡くなり、伊勢の能褒野で陵がつくられた。そして、白鳥となり、飛び立ち、大和の琴弾原で留まっていたので、陵がつくられた。さらに、ここも飛び立ち、河内の旧市(古市)でも留まって、陵がつくられた。そして、それを最後に天に高くのぼった。それぞれの陵は、白鳥陵と呼ばれ、衣冠だけを葬ったという。正徳3年(1713)の『和漢三才図絵』や慶応元年(1865)年の『聖蹟図志』では、次に訪れる掖上鑵子塚古墳を大和の白鳥陵にあてている
ヤマトタケルノミコト!余りにも説話で有名な人物
三箇所も陵があるのも頷ける・・・
笑顔で説明される坂先生
掖上鑵子塚古墳・鑵子塚南古墳
墳丘長150mの前方後円墳である。後円部直径に比べ、前方部はやや短い。後円部と前方部の墳頂部に盗掘坑がみられるが、墳丘はよく残っており、後円部3段、前方部2段の段築がよく観察できる。国見山北側の中腹を横切る山道の峠をやや降った位置に立地する。周囲は見渡せない。埋葬施設の発掘調査は実施されていないが、石棺が存在したという伝承が残る。天明8年(1788)の『大和御陵図考』には、石棺の1部があらわれ、「練石長さ8尺幅1尺余り」と記されている。御所の領主がこれを手水鉢に使ったという。帯金具・金銅製挂甲小札・琴柱形石製品、円筒埴輪のほか、家形埴輪・鶏形埴輪・冠帽形埴輪・大刀形埴輪・蓋形埴輪・草摺形埴輪などが採集されている。また、当博物館が所蔵する伝御所市とされる衝角付冑を表現した冑形埴輪も本古墳出土のものと推定される。円筒埴輪の特徴などから築造時期は5世紀中葉におくことができる。帯金具にみる国際性や、家形埴輪・冑形埴輪の形態や製作技法は、葛城の地域最大の前方後円墳である室宮山古墳に通じるものがある。室宮山古墳の次代に築造された葛城の有力地域集団の首長墓である。その年代から極楽寺ヒビキ遺跡など南郷遺跡群を経営した首長は、本古墳に埋葬されたと考えられている
掖上鑵子塚古墳を目指す
日が翳り、足早になる
古墳の前方部前で先生の説明を聞く
私有地のため、古墳には入れない
周濠でカーブになった道を歩いていく
周濠跡が綺麗に残っている
鑵子塚南古墳
直径50mの円墳である。埋葬施設は不明だが、ミニチュアの鉄製U字形鋤先が採集されている。掖上鑵子塚古墳に先行して墳丘が造営されていたため、掖上鑵子塚古墳の外堤を大きく歪めたと解釈されている。いずれにせよ、掖上鑵子塚古墳と緊密な関係が想定される大型円墳である
解散場所JR掖上駅で
白梅 葛公民館で
紅梅 安楽寺で
説明文は会報(友史会報589号)より引用