yushikai.jpg

案内 坂 靖先生 
日時 平成28年9月18日(日)午前10時
集合 近鉄御所線 近鉄新庄駅
行程 近鉄新庄駅→北花内大塚古墳→火振山古墳(新庄神塚古墳)→屋敷山古墳→神明神社古墳(昼食)→太田遺跡・太田古墳群(小山二号墳・弥宮池1号墳)→神明神社裏山古墳→平林古墳→芝塚1,2号墳石棺→兵家八号墳→鍋塚古墳→的場池10号墳(葛城体育館)→塚畑古墳→近鉄磐城駅

 「二〇〇九年、「葛城の群集墓と横穴式石室」というテーマで、旧新庄町の遺跡を当時の松田館長が九月例会で歩かれています。今回は、それより北側の、旧新庄町・旧當麻町の首長墓を中心に巡りたいと思います。平成の市町村合併で、新庄町と當麻町はひとつになって、葛城市になりましたが、五~六世紀には、それぞれの旧町域で首長墓系譜が認められます。すなわち、旧新庄町では屋敷山古墳・火振山古墳(五世紀中葉)→北花内大塚古墳(五世紀末~六世紀初頭)→二塚古墳(六世紀中葉)と築造されるのに対し、旧當麻町では鍋塚古墳(五世紀中葉)→塚畑古墳・小山古墳(五世紀後半~末)→芝塚1号墳(六世紀前半)→平林古墳・神明神社裏山古墳(六世紀後半)と二系列あると考えられます。旧新庄町の古墳に比べ、旧當麻町の古墳は小規模で、力の差が認められますがが、その最終段階に築造された六世紀の平林古墳と二塚古墳は、ほぼ同規模の前方後円墳です。旧新庄町の首長墓系譜は、すなわち「葛城の忍海」の有力地域集団の系譜ですが、旧當麻町の地域集団を終始影響下においていたとみる見解とこの地域集団が自立し、葛城の支配領域からは独立的な存在であったかは、意見の分かれるところでしょう。旧新庄町の首長墓系譜は、すなわち「葛城の忍海」の有力地域集団の系譜ですが、旧當麻町の地域集団を終始影響下においていたとみる見解とこの地域集団が自立し、葛城の支配領域からは独立的な存在であったかは、意見の分かれるところでしょう。私は、後者の立場にあります。」

 台風16号が近畿地方に接近する中、近鉄新庄駅には70名もの参加者が集まりました。

 案内は、坂靖先生

----

北花内大塚古墳

 「北花内大塚古墳は、墳丘長九〇㍍の前方後円墳です。現在、宮内庁は、飯豊天皇陵として治定しています。古墳周辺部からは円筒埴輪や笠形木製品などが出土しており、その出土品の年代と、前方部が大きく開く墳形などから、五世紀末~六世紀初頭に築造されたものと考えられます。

 この時期の近畿地方の九〇㍍を超える前方後円墳は、大型に属し政権中枢を占めていた人物の墳墓であると考えられます。その実在性は問う必要が多分にありますが、雄略によって殺害された市辺押磐皇子の子である弘計(顯宗)・億計(仁賢)が、皇位につく前に、顯宗の姉が自ら「忍海飯豊青尊」と名乗って忍海角刺宮で「臨朝秉政」をとったとされます。その「葛城埴口丘陵」として、年代的に大きな乖離はありません。いずれにせよ、周辺の遺跡の状況とあわせて考えると、『日本書紀』の記述は、五世紀から継続する忍海の地域集団が、政権のなかで大きな影響力を行使したことを反映したものであると考えられます。」

 北花内大塚古墳へ向かう

----

 飯豊天皇と記されたた制札

 記紀では、飯豊女王、忍海部女王、忍海飯豊青尊等、色々な名前で記されている

----

 玉垣と鳥居の前で、説明を聞く皆さん

----

 火振山古墳に向かって歩く

 葛城の山並は霧がかかって見えない

----

 真赤に咲く「雨後の彼岸花」

----

 県道254号線を西へ進むと古墳が見えてくる

----

火振山古墳(新庄神塚古墳)

 墳丘長95mの前方後円墳です。埋葬施設などの詳細は不明ですが、周辺からは、C種ヨコハケが施され、窖窯で焼成された埴輪片が採集されており、その資料から築造時期は、5世紀中葉と推定されます。この時期は、巨大古墳の造営期にあたり、中型または小型の前方後円墳として位置づけられますが、のちに葛城氏と称される忍海の首長系譜の一角を占めた人物の墳墓として意義づけられます。

 先生の説明を聞く

----

 火振山古墳(新庄神塚古墳)墳丘全景

----

 屋敷山古墳に向かう

 左に後円部が見える

----

屋敷山古墳

 墳丘長150mの前方後円墳です。中世に桑山城(新庄城)として改変されたため、あまり原型をとどめていません。埋葬施設は、王者の棺といわれる竜山石製の長持形石棺で、蓋石と身の短側石が葛城市立歴史博物館に展示中です。また、発掘調査で竪穴式石室の天井石と考えられる突起のついた竜山石製の石材が出土し、現地に展示されています。出土した埴輪と石棺の型 式などから、5世紀中葉の築造年代が想定されます。規模は中規模ですが、忍海地域に君臨した首長墓として意義づけることが可能です。

 小雨が降るなか、先生の説明に耳を傾ける

----

竜山石で造られた石室の天井石

 この地を支配した権力者の、巨大な力を今に伝える

----

 新庄城址(墳丘)

 一列になって階段を登る

----

 古墳の後円部

----

 神明神社古墳に向かう

 古墳は「いにしえの丘」にある。

----

 神明神社の祠

----

神明神社古墳

 花崗岩切石を使用した横穴式石室を埋葬主体とする直径20mの円墳です。石室の全長は6.14mです。石室側壁は片側2石、計4石を使用していますが、2石の継ぎ目に、溝が切 ってあり、1981年の発掘調査で鉄製環金具が出土したことから、この場所に墓室と通路を区切る扉があった可能性があります。さらに石室開口部南側が広い前庭部となっており、 長さ11mの直線的な墓道がとりついています。さらにその南には幅20m以上の平坦面が広がっています。切石を利用した石槨状の埋葬施設や、広大な兆域は、終末期古墳の典型的 な事例として捉えられ、7世紀中葉の築造年代が考えられます。

 神明神社古墳墳丘

----

 先生の説明を聞く

----

 石室の入り口には扉があり、ダイアル錠がかっている

----

 両側壁に残る縦長の溝

『阿不幾乃山陵記』が記す「天武・持統陵」の石室の扉

 この石室にも把手付の同じような扉があったのだろうか

----

 霧も晴れ いよいよ太田遺跡へ

----

太田遺跡・太田古墳群(弥宮池1号墳・小山2号墳)

 太田遺跡は、国道165号線バイパスと南阪奈自動車道の建設にともなってはじめて調査された遺跡です。様々な時代の遺構・遺物が検出されましたが、庄内式期~布留式期にかけて の集落遺跡が西側部分を中心に大きく広がっています。集落の範囲は9300平方メートルに及び、県内屈指の大規模集落と考えられます。山陰系土器を多量に検出した円形周溝(古墳や区画溝、47棟以上の竪穴住居、土坑などの遺構が検出されています。

 遺跡の西側から、丘陵部にかけては古墳時代後期を中心とした時期の群集墳が造営されます。全体が太田古墳群と称されており、地形から太田支群、弥宮池支群、小山支群にわけられ ています。さらに、近年「葛城道の駅」の建設に伴って、太田支群と小山支群の中間地点と、小山支群に属する箇所で後期の古墳群が葛城市教育委員会により発掘調査されています。古墳の大半は、破壊されましたが、弥宮池1号墳の石室と、小山2号墳の石棺が移築されています。

 弥宮池1号墳は、全長7mの右片袖式横穴式石室を埋葬施設とする円墳で、玄室中央に組合式家形石棺、玄室南半から羡道にかけて木棺を置いていたと考えられています。耳環・ガラス小玉・鉄鏃・短刀・須恵器・土師器などの遺物が出土しています。古墳の築造時期は、須恵器から6世紀後半と考えられます。

 小山2号墳は、全長9.8mの両袖式横穴式石室を埋葬施設とする直径30mの円墳です。石室内に2基の組合式家形石棺が置かれています。奥棺は盗掘をうけ、ガラス小玉・鉄片・ 銀製空玉・金片などが出土したにとどまりましたが、前棺は未盗掘で、銀環二点、ガラス小玉七九六点・ガラス臼玉52点、銀製空丸玉18点、銀製有段紡錘形空玉23点、金片62 点、鉄地金壮刀子1点が出土しています。このほか、石室内外から金銅製雲珠・辻金具・杏葉などの馬具、150点以上の鉄鏃、金銅装胡金具、鉄斧、用途不明の人形状鉄製品・須恵 器・土師器などが出土しています。MT15~TK10型式の須恵器があり、古墳は、6世紀前葉に築造されたものと考えられます。なお、小山2号墳の南西には、墳丘長35mの前方後円墳である小山古墳(1号墳)があります。金環・変形四獣形鏡、碧玉製管玉・水晶製算盤玉・瑪瑙製勾玉などの遺物が知られており、宮内庁に所蔵されています。

 小山2号墳の組合式家型石棺

 高速道路の脇に移築されている

----

 弥宮池1号墳横穴石室

 この古墳も時代の波には勝てない

----

神明神社裏山古墳

 墳丘長45mの前方後円墳です。前方部を西にむけ、後円部南側には大きな盗掘坑があるとされていますが、雑木が生い茂っていて、その状況はよくわかりません。盗掘坑の状況から、横穴式石室の存在が予想されており、丘陵頂部にある平林古墳の築造後の6世紀後半の築造年代が想定されます。

 先生の説明を聞く

----

平林古墳

 墳丘長62mの前方後円墳です。後円部の埋葬施設である横穴式石室は、1958年に玄室と羡道の途中まで、1992年に羡道と前庭部の調査がおこなわれました。その全長は20.1mを測り、日本列島でも有数の長大な両袖式の横穴式石室です。盗掘をうけ、玄室内の石棺は失われたと考えられますが、羡道には追葬時の組合式石棺の底石だけが残っていました。玄室は、高さ3.7mと高く、奥壁は2段目で持送りがはじまりますが、前壁が直立する形態になっていて、笛吹神社古墳・二塚古墳・条ウル神古墳など奈良盆地西南部地域にに 共通する特色を有しています。出土遺物は、製画文帯仏獣鏡・ガラス玉のほか、金銅製鏡板・杏葉・鞍金具・雲珠・辻金具や鉄製鐙・障泥吊金具などの馬具、刀・鉾・鎗・弓金具・鏃 ・などの鉄製武器、斧・鎌・鑿などの農・工具と須恵器・土師器が出土しています。6世紀後半(TK43型式期)に築造されたものと考えられます。

 平林古墳に到着

----

調査をされた坂先生の思い入れのある古墳

----

 羨道には追葬された組合式家形石棺の底石が残る

----

 玄室の奥壁 持ち送りになってくるのがわかる

----

 玄室 大きな見上げ石 真っ直ぐになっている

----

 後円部を望む

----

芝塚1,2号墳

 芝塚1号墳は、墳丘長50mの前方後円墳です。後円部の埋葬施設の調査はおこなわれていませんが、前方部には木棺を直葬した埋葬施設が存在していました。鉄刀と鉄鏃が出土して います。周濠が検出されており、埴輪が出土しています。古墳の築造年代は六世紀前半と考えられます。

 芝塚2号墳は、直径25mの円墳です。組合式家形石棺を内蔵する右片袖式の横穴式石室が埋葬施設です。垂飾付耳飾片、金環、銀製棗玉、碧玉製管玉、ガラス玉、滑石製臼玉などの ほか、U字形鋤先・斧などの農・工具と金銅製杏葉・鏡板・雲珠・居木飾りや鉄製鐙などの馬具や鉄鏃・胡金具などの武器・武具類、須恵器などが出土しています。古墳の築造年代は 六世紀前半と考えられます。古墳は調査破壊されましたが、石棺は1号墳北側斜面に移動されています。

 平林古墳より芝塚1,2号墳を望む

----

 大和三山を望む

----

 芝塚1号墳

----

 芝塚2号墳の石棺

 1号墳の斜面に安置されている

----

兵家8号墳(丸子山古墳)

 兵家古墳群は、古墳時代中期を中心とした時期に築造された群集墳です。住宅開発にともない、多数の古墳が発掘調査が実施されました。12号墳では、長方板革綴短甲や眉庇付冑、5,6号墳では銅鏡や玉類、鉄製武器類・農工具類、鋳造鉄斧など豊富な副葬品が出土しています。8号墳は、測量調査だけが実施されました。直径34m、高さ4mの円墳で、近くの民家には、本古墳から出土したと伝える板石が保管されています。兵家古墳群のなかでは最も規模が大きい古墳です。

 墳丘下で先生の説明を聞く

----

 鍋塚古墳へ向かう

 真ん丸い円墳が見えてくる

----

鍋塚古墳

 直径40mの円墳です。西側に前方部を想定し、前方後円墳であるとする意見もあります。埋葬施設は未調査ですが、周濠から埴輪片が出土しています。埴輪のなかに鰭付埴輪が含まれることから、5世紀中葉まで築造年代が遡るものと考えられます。独立して立地することから、首長墳として位置づけることができます。

----

 左手(西側)に前方部があるのでは?と

 先生の説明を聞く

----

的場池10号墳

 兵家古墳群の北側丘陵上にかつて存在したのが的場池古墳群で、木棺直葬を埋葬施設とする小規模な円墳・方墳で構成される群集墳です。直径15m、7号墳の南西墳丘裾部に、付属するように幅0.8m、長さ2.5mの単次葬の小規模な石室がつくられており、10号墳として報告されています。須恵器蓋付坩・長頸壺、土師器坏と鉄刀子が出土しています。7世紀中葉の築造と考えられます。石室は、葛城市立体育館に移築されました。

----

 最後の見学地 塚畑古墳へ

 少しだけ竹内街道を歩く

----

塚畑古墳

 墳丘長72mの前方後円墳です。墳頂部は大きく削られています。葛城市教育委員会が前方部墳頂付近を調査しており、埴輪片などが出土しています。築造年代の確定には至っていま せんが、埴輪片から、5世紀後半~末の年代が想定されます。旧當麻町域では最大の前方後円墳であり、鍋塚古墳につづく首長墓として意義づけることができます。

 削平された墳頂部で、先生の説明を聞く

----

 塚畑古墳を背に、解散場所の近鉄磐城駅へ