案内 吉村和昭先生
日時 平成28年6月19日(日)午前10時
集合 JR京都線 摂津富田駅
行程 嶋上郡衙跡→芥川廃寺→今城塚古墳・高槻市立今城塚古代歴史館→郡家車塚古墳→前塚古墳→闘鶏山古墳→新池遺跡(埴輪製作遺跡)→番山古墳→二子山古墳→太田茶臼山古墳→太田廃寺
今回の例会では、今城塚古墳、太田茶臼山古墳などの著名な古墳を含む三島古墳群を中心に見学します。このたび回ります大阪府高槻市西部は旧石器時代から中・近世に至るまでの遺跡の宝庫です。吉村先生に25年前にも一度、ご案内して頂くなど、友史会例会ではこれまで何度か訪れた場所ですが、最後は12年前の平成16年です。この間、今城塚古墳の史跡整備が進み、その傍らには今城塚古代歴史館も開館するなど、より見学が楽しいコースとなっています。
降りしきる雨のなか、108名ものかたが摂津富田駅に集合
案内して頂く吉村先生
22年ぶりに博物館へ、最初の例会は雨
過去に担当された例会は一度も雨に遭われたことがないそう
嶋上郡衙跡
淀川中流域北岸の三島地域は、律令期において東西に二分されていました。東が嶋上郡、西が嶋下郡です(当初は三嶋上郡と三嶋下郡と称されました)。昭和45年、石組み井戸から「上郡」と墨書された土師器が出土したこと、その位置が旧山陽道沿いの郡家という字であることなどから、嶋上郡衙であることが確実となりました。郡衙関係の遺構は芥川西岸の段丘のおよそ1㎞四方に分布します。遺構は大きく2時期、7世紀後半と8世紀後半のものが認められ、後者は広範囲に遺構が確認されています。郡衙の中心施設である庁院は川西小学校北側の東西半町、南北一町の範囲と推定されます。正殿と脇殿が整然と配されていたと推定されます。
川西小学校北西側の一画にある。1/3に縮小された赤いレンガの中に回廊や正殿など名前が書かれている
近畿ではたくさん郡衙遺構が見つかっているが、郡の役所と確定された貴重な遺跡
1300年前には、役人たちがこの地を闊歩していたのだろうか
芥川廃寺
芥川廃寺
郡衙庁院推定地の西約200mにある素戔嗚尊神社(神郡社)には寺の塔心礎を転用したとみられる手水鉢があります。境内では古くから仏像塑像片や塔の九輪片などが採集されるとともに、付近一帯では多くの瓦片が採取されてきました。このことから早くから古代寺院の存在が想定されていました。これまでの調査成果などから、伽藍の中心地は神社境内付近、寺域は東西半町、南北一町と推定されます。南限では回廊状遺構が検出されています。伽藍配置は四天王寺式と考えられます。
無情にも雨が降り続く それでも熱心に先生の説明を聴く皆さん
素戔嗚尊神社の境内にある手水鉢 塔心楚を上手く転用
直径60cmの円穴が二つある
今城塚古墳
今城塚古墳は淀川北岸最大の前方後円墳です。史跡整備にかかり10年にわたる発掘調査がおこなわれ、その構造と規模があきらかとなりました。主墳丘は後円部三段、前方部二段、くびれ部寄りの前方部両側には造出がともない、周囲には二重の周濠が巡ります。全長354m、全幅358m、墳丘長181m、後円部径91.2m、前方部幅157.9mの規模を有することが判明しました。横穴式石室と推定される後円部の埋葬主体は、近世以前に失われていまが、その基盤とみられる石敷が確認されています。後円部の発掘調査では多くの石棺片が出土していますが、その石材は熊本県の阿蘇熔結凝灰岩(阿蘇ピンク石)、兵庫県の竜山石、二上山の白色凝灰岩の三種類に分かれます。このことから、三つの大型の家形石棺が収められていたと推定されます。一連の発掘調査のなかで特筆されるのが、北側の内堤張り出し上における巨大な埴輪祭祀場の発見です。五つに区分された長さ約65m、幅約6mの範囲から、家形埴輪15、柵形埴輪25、蓋形埴輪4、大刀形埴輪14、盾形埴輪1、靱形埴輪1、人物埴輪18(武人形・鷹匠・力士・冠帽男子・座像男子・巫女)馬形などの動物形埴輪18、鶏形埴輪4、水鳥形埴輪13の膨大な埴輪が出土しています。墳丘の規模、埴輪など出土遺物の時期から、継体天皇(没年531年)の墓は、現継体天皇陵の太田茶臼山古墳ではなく、今城塚古墳であることが確実視されています。
現在、右記の埴輪祭祀場も復元展示されるなど、史跡公園の整備が進んでいます。隣接する今城塚古代歴史館では、発掘調査により出土した埴輪をはじめとする数々の遺物が展示されています。郡家車塚古墳などの古墳出土遺物もみることができます。
今城塚古墳の模型
埴輪も模型も雨に洗われてとても綺麗
高槻市立今城塚古代歴史館
古墳公園に隣接する。今城塚古墳の発掘調査で判明した巨大古墳の築造過程を実物大のジオラマで解説している
突然、展示品の埴輪に話しかけられ・・・大人も子供も楽しめるミュージアム
弁天山古墳群
今城塚古墳北方に位置する奈佐原丘陵上にある三基の前方後円墳、岡本山古墳(弁天山A1号墳)(120m)、弁天山古墳(100m)、弁天山C1号墳(73m)を中心とした古墳群で、麓の郡家車塚古墳、前塚古墳までも含みます。前期から中期の古墳群です。今回は遠望するのみです。
南側から望む岡本山古墳
郡家車塚古墳
郡家車塚古墳は全長86mの西面する前方後円墳です。平成4~6年に測量・確認調査がおこなわれました。後円部頂からは二基の粘土槨が検出されています。
部分的なトレンチ調査ですが、第二主体部からは四獣形鏡1面、297点の玉類(勾玉、管玉、棗玉、算盤玉、小玉ガラス玉など)、竪櫛が出土しています。また墳丘では埴輪列が検出されています。前期末・中期初頭の築造とみられます。
私有地にある古墳。墳丘には入れない。
前塚古墳
前塚古墳は奈佐原丘陵の南端に位置する西面する前方後円墳です。墳丘はかなり削平され、周囲も建て込んでいますが、全長約94mで周濠を有します。明治期に墳頂部に凝灰岩製の長持形石棺が露出していたそうで、中からは仿製鏡片、鉄刀、鉄鉾の出土が知られます。石棺は長らく府立茨木高校に置かれていましたが、現在は大阪府立近つ飛鳥博物館で展示されています。
水田を丸く切る後円部のカーブがよくわかる。
闘鶏山神社・闘鶏山古墳
闘鶏山神社
祭神は天照皇大神 応神天皇 天児屋根命
名神高速道路の南側に鳥居があり、北側に社殿があるので名神高速道路の上をまたいで行く、陸橋が参道に
下には猛スピードの車が・・・
闘鶏山古墳は奈佐原丘陵西支脈の先端尾根上に築かれた全長86・4mの前方後円墳です。平成14年の試掘調査では後円部上から二基の竪穴式石室が発見されました。しかも、これらの石室は未踏掘であることがわかりました。ファイバースコープやデジタル写真撮影調査によって、第一主体部では、粘土棺床上に三角縁神獣鏡2面、方格規矩鏡1面、碧玉製腕飾類、同紡錘車などの副葬品、さらには被葬者の頭蓋骨が遺存している事があきらかになっています。4世紀前半代の古墳です。
新池遺跡(埴輪製作遺跡)
奈佐原丘陵南西部に位置する埴輪製作遺跡です。昭和20年代、地元研究者の免山篤さんが新池で埴輪を採集したことから存在が知られるようになり、その後、昭和の終わりから平成にかけての住宅開発にともなう発掘調査によって、埴輪窯18基、製作工房3棟、工人集落から成る一大埴輪製作遺跡であることがあきらかとなりました。埴輪窯は三つの群に分かれ、5世紀中頃から6世紀中頃までのおよそ100年間操業しています。ここで焼かれた埴輪は、南約1㎞に位置する太田茶臼山古墳や今城塚古墳、土保山古墳、昼神車塚古墳などの三島古墳群古墳だけでなく、三島地域以外の古墳にも供給されています。この遺跡は『日本書紀』欽明天皇二十三年条にみえる「摂津国三島郡埴廬(はにいほ)」にあたるものと考えられています。
新池ハニワ工場公園に着くころは小雨になり傘をさす人もまばら
発掘調査の現場を再現 鋤簾やみの コンテナには埴輪片がたくさん!
ハニワ工場館
新池遺跡最大級の18号窯が覆屋で保護されている
吉村先生と会話が弾む楽しい時間
3基の窯が毎日稼動し、計算するとここで年間7020個の埴輪が焼かれるとか?
番山古墳
新池遺跡をあとにして、奈佐原丘陵を太田茶臼山古墳方向、西へと降っていきますと、まず、名神高速道路の手前には番山古墳がみえます。現状は径約56mの後円部と周濠外堤輪郭のみが遺っており、前方部は削平されています。測量図から、本来は帆立貝式の前方後円墳とみられます。内部主体は不明です。5世紀末の築造とみられます。太田茶臼山古墳 丘陵を降りきると、名神高速道路をくぐります。このあたりから茨木市に入ります。太田茶臼山古墳は現在、宮内庁により継体天皇三島藍野陵に治定されています。
土室遺跡
土室遺跡は三島古墳群の造営に関係した人々の居住地区です。
土保山古墳
名神高速道路を左手に見ながらさらに降っていきます。高速道路下には建設時に破壊された土保山古墳があります。昭和34年の発掘調査では前方後円墳の可能性があるものの円墳の可能性が高いとされていましたが、平成5年からの名神高速道路拡幅にともなう調査で、周濠とその外側の区画溝が検出され、その形状から、前方後円墳の可能性が高いことがわかりました(区画溝まで含めた全長は70m以上)。昭和34年の調査では、後円部において未盗掘の竪穴式石室と副葬品を納めた粘土槨が発見されました。両者とも組合せ式の木棺が納められていました。竪穴式石室では、棺外から櫛、鉄鉾、鉄鏃、横矧板鋲留短甲、馬具などが、木棺(一号棺)内から、乳文鏡、ガラス小玉、櫛、横矧板鋲留短甲などが出土しています。一方、粘土槨の木棺(二号棺)からは衝角付冑、草摺、肩甲、靫、弓、鉄鏃、矢柄漆膜などが出土しています。いずれも非常に遺存状態良好なものでした。
二子山古墳
土保山古墳の南西に位置する前方後円墳です。名神高速道路建設にともなう調査で周濠部が調査され、南側くびれ部で造り出し、葺石が検出されるとともに、円筒埴輪基底部、形象埴輪片が出土しています。平成の高速拡幅にともなう発掘調査により、全長52mであることがあきらかとなりました。なお、円筒埴輪は新池遺跡A群の埴輪窯の製品に類似するとされます。
高速道路の手前、吉村先生の頭右が二子山古墳。奥は太田茶臼山古墳。
土保山古墳は左端付近の名神高速の下。
太田茶臼山古墳
丘陵を降りきると、名神高速道路をくぐります。このあたりから茨木市に入ります。太田茶臼山古墳は現在、宮内庁により継体天皇三島藍野陵に治定されています。富田台地中央やや西寄りに立地する墳丘長226mの巨大前方後円墳です。後円部・前方部とも三段築成で、両側のくびれ部に造り出しをもちます。周濠は盾形で幅約30mを測ります。墳形は古市古墳群の市野山古墳(允恭陵古墳)、墓山古墳との類似が指摘されています。墳形、埴輪の年代から5世紀中頃の築造とみられます。この点で、継体天皇の時代よりさかのぼる古墳であることは明白です。古墳の周囲に隣接して7基の中小古墳が認められます。これらのほとんどは茶臼山古墳の陪冢と考えられます。今城塚古墳には陪冢が認められないのとは対照的です。 周辺のこれまでの調査では、北西の周堤上で20数本が密に並べられた円筒埴輪列が、また南西の周堤外周でも埴輪列が検出されています。なお、太田茶臼山古墳の埴輪と新池遺跡A群埴輪窯出土埴輪には同一工具を用いて製作された埴輪が発見されています。ところで『延喜式』には継体天皇の陵について「三嶋藍野陵…在摂津国嶋上郡」と記されています。太田茶臼山古墳が継体天皇陵とする説が示されるようになるのは江戸時代からです。ただし、太田茶臼山古墳は嶋下郡に位置しています。この点について、本居宣長や蒲生君平などは『延喜式』が嶋上と嶋下を誤記した、また郡境が移動したなどと解釈しました。大正時代以降、これに異を唱え、今城塚古墳が本当の継体天皇陵だとする主張が起こり始めました。昭和初年、天坊幸彦は14世紀の田畠目録から条里の坪付の復元をおこない、郡境が不変であることを論証し、今城塚古墳こそが継体天皇陵であると主張しました。以来、文献史学、考古学の立場ではこの見解が主流となっていきました。
宮内庁が管理している古墳
鳥居と玉垣の前で 先生の説明を聞く皆さん
吉村先生 お薦めの太田茶臼山古墳撮影スポット
造り出しがよくわかる フエンスの隙間から順番に写真撮影
太田廃寺
太田茶臼山古墳の南方、現在の茨木市東太田二丁目を中心に立地する寺院跡です。明治40年に開墾中に塔心礎が出土(持ち出されて行方不明)し その中から舎利容器が出土しています。舎利容器は外から石櫃、銅碗、銀製容器、金製容器となり、その中に舎利が納められていました。現在、東京国立博物館に所蔵されています。この寺はこれまでに発掘調査がおこなわれておらず、実態は不明です。ただし、かつて認められた土壇状の高まりの数と位置などから、藤沢一夫氏は法隆寺式の伽藍配置を想定されました。周辺から出土する瓦には創建時のものとみられる単弁八弁蓮華文軒丸瓦、単弁十二弁蓮華文軒丸瓦、三重弧文軒平瓦、忍冬唐草文軒平瓦があります。これらを含む出土瓦の年代から、7世紀後葉から8世紀前葉に創建され、8世紀代を通じて存続したものと推定されています。なお、太田の地名から、中臣太田連を檀越とする説があります。
今は跡形もない 寺院跡
敷地にあった大きな企業の工場もなくなり
兵ものどもが夢の跡
写真撮影 坂部征彦氏 解説文(6月会報より引用)