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案 内:鶴見 泰寿 先生
日 時:12月18日(日)10時
集 合:JR桜井線 畝傍駅
行程:JR畝傍駅→小房線跡→畝傍御陵前駅→神武天皇陵→橿原文庫→八紘寮跡(橿考研附属博物館)→建国会館跡→大和国史館跡(橿考研)→野外公堂跡(橿原公苑駐車場)→大運動場(橿原公苑陸上競技場)→橿原神宮→文華殿(旧柳本藩織田屋敷)→久米寺→久米御縣神社→益田池堤跡→鳥坂神社→近鉄橿原神宮前

 近代の産業遺産を中心に地元橿原の遺跡を案内

今日は近代の産業遺産を中心に地元橿原の遺跡を案内いただく。

案内の鶴見泰寿先生

小房線跡

「JR畝傍駅から近鉄橿原神宮前までは、かつて「小房線」という路線がありました。すでに廃線されていますが現在も細長い宅地や路地などとしてその痕跡をとどめています。畝傍御陵前―橿原神宮前間は線路が併走しており、現在の橿原線線路(標準軌=狭軌よりレールの間隔が広い)の東側にはかつての小房線の線路(狭軌=レールの間隔が狭い)が残っている部分があります。

 小房線は複雑な変遷をたどっています。まず1924年(大正13年)11月、吉野鉄道が(旧)橿原神宮前駅(現在の橿原神宮一の鳥居前)―畝傍駅間に連絡線を開業しました。1928年(昭和3年)10月に、畝傍駅―(旧)橿原神宮前駅間に小房駅が開業します。そして1929年8月、大阪電気軌道(大軌)が吉野鉄道を合併しました。1939年(昭和14年)3月、(橿原神宮拡張に伴い)小房駅―(旧)橿原神宮前駅間を廃止し、(東側300mに)小房駅―「橿原神宮駅」(現在の橿原神宮前駅)駅間の新線が開業しました。1941年(昭和16年)6月に畝傍駅―「橿原神宮駅」駅間を小房線と改称しました。 1945年(昭和20年)6月、小房線の旅客営業は休止となり、1950年(昭和25年)7月に小房線の営業を休止し、1952年(昭和27年)9月に小房線は廃止されてしまいました。」

JR畝傍駅に残る旧小房線線路跡。

橋の跡。このあたりから旧国鉄と吉野鉄道が分かれる。

線路はしだいに南に回り込む。線路敷地跡に立つ住宅は廻りと向きが違う。

小房観音

高野山真言宗・別格本山。

本堂が建つ辺り一帯は、かつて「鯉ヶ淵(こいがふち)」と呼ばれる大きな池があり、近所の「おふさ」という娘が、白い亀の背中に乗った観音様を見つけ御堂をたてた。色々なお願い事をかなえてくださるとして、近くの村人たちに厚く信仰され、「おふさ観音」と呼ばれるようになったという。境内にはバラが咲く。

1928年(昭和3年)10月に畝傍駅 と(旧)橿原神宮前駅間に小房駅開業した。

小房線の説明を聞く。

ここから小房線線路跡が道として残る。南に向かう。

線路跡の道は次第に西に向きを変える。

中央公民館南側に残り橋脚。

旧大阪電気軌道畝傍線と小房線は昭和14年に300m東に移動し、現在の近鉄橿原線になる。

畝傍御陵前駅に残る小房線の跡。(南側)大阪電気軌道線に沿って橿原神宮駅に向かう。

畝傍御陵前駅に残る小房線の跡。(北側)ここから次第に東に分岐してゆく。

神武天皇陵へ向かう

神武天皇陵駐車場から森に入る。

森の中に残る移設前の旧大阪電気軌道畝傍線橋脚。

神武天皇陵

「今年は神武天皇崩御から2600年目にあたるとされることから、天皇皇后両陛下や皇太子同妃両殿下など皇族の参拝がありました。陵墓所在地の小字名は「神武田」といい、文久3年(1863年)の修陵によって 小丘と芝地が整備されました。さらに1940年(昭和15年)までに国による拡張整備が行なわれ現在の景観になりました。」

橿原道場

「皇謨を翼賛し奉るため、建元発祥の聖地橿原神宮の外苑に地を相し(占う)、国民心身鍛練の一施設として、橿原道場の建設が企図せられ」ました。

設備は運動場・紫光館・野外公堂・建国会館・弓道場・八紘寮・橿原文庫・大和国史館・橿原農園などによって構成されていました。

橿原道場敷地と建物配置

赤字は現在の施設

橿原文庫

 「日本精神の涵養に資する目的で設置されました。現在は橿原考古学研究所の畝傍収蔵庫として利用されています。橿原公苑の中では唯一創建当初から残っている建物で、土蔵風の書庫を備えた木骨大壁造平屋建てです。外観の至るところに古代大和を感じられるデザインが施されています。」

橿原文庫絵葉書

橿原文庫玄関

橿原道場の解説を聞く。

橿原文庫玄関の欄間

八紘寮跡(橿考研附属博物館)

 「青少年や一般修養団体などの宿舎として設置されました。八紘一宇に因んで8棟の宿舎が建てられました。収容人員は800名です。昭和55年(1980年)に橿原考古学研究所附属博物館が建設されました。」

博物館にて昼食

一二支の考古学を見学し、橿原道場の解説を聞く。

橿原道場の建設に奉仕した建国奉仕隊の旗。

八紘寮絵葉書

建国会館跡

 「昭和3年に京都御所で行なわれた昭和天皇御大典の饗宴場が下賜され、橿原神宮境内に移築されていたものを、紀元2600年奉祝事業に際して橿原道場の中心建物としてこの場所に移されました。大規模な建物で、収容人員は約2000名です。最近まで現存し、催し事に使われていましたが、平成10年9月の台風7号の被害を受けて大破し、解体されました。現在は橿原公苑の駐車場となっています。」

建国会館絵葉書

大和国史館跡(橿考研)

「橿原考古学研究所附属博物館の前身となる施設です。「国史参考品を陳列して皇国伝統の姿を識らしめ、以て肇国精神の涵養に資す」ことを目的としてつくられました。考古資料は末永雅雄氏(当研究所初代所長)、歴史資料は岸熊吉氏(奈良県寺社建築技師。当研究所三代目所長岸俊男氏の父)が担当したものです。展示室は3室の大陳列室と中央大広間からなります。大広間には和気清麻呂像(朝倉文夫作)が置かれていました。現在、像は岡山県和気町の和気町歴史民俗資料館前に移されています。」

大和国史館絵葉書

野外公堂跡(橿原公苑駐車場)

 「畝傍山を背にした舞台を馬蹄形に囲むように29段の座席(15000人)が配置された、直径約108mの円形劇場風施設です。中央には広場があり、相撲・柔道・剣道・テニス・バスケットボールなどの競技や野外講演・野外映画・野外音楽会などが可能となっています。現在は駐車場・テニスコート・体育館となり、当時の面影は「橿原道場建設之碑」の石碑以外にはありません。」

野外公堂絵葉書

大運動場(橿原公苑陸上競技場)

 一周400mの陸上競技トラック(8コース)と南側の芝生広場(200m×130m)からなります。運動場は20000人が集団体操をすることが可能です。東・南・北面には10箇所の出入口がある堤防状の観覧席があり、15000人が収容可能です。現在では芝生広場の南半分は野球場になっています。敷地の東南隅に建国奉仕隊の記念碑(近衛文麿書)があります。

大運動場絵葉書

陸上競技場前の橿原遺跡石碑前で解説を聞く

橿原神宮

 「橿原神宮は1890年(明治23年)に民間の要望により神武天皇の橿原宮跡地に創建され、明治天皇から京都御所の賢所と神嘉殿を下賜されて本殿・拝殿としました。祭神は神武天皇と皇后です。本殿は安政2年(1855年)に建立された京都御所賢所(内侍所)を移建したもので、重要文化財の指定を受けています。拝殿は後に移築されて神楽殿(御饌殿)となり、本殿と同じく重要文化財に指定されていましたが、1993年(平成5年)2月4日の火災で焼失しました。」

橿原神宮に向かう。

一の鳥居前が旧大阪電気軌道と吉野鉄道の橿原神宮前駅

一の鳥居

橿原神宮外拝殿

橿原神宮内拝殿(本殿はその奥)

文華殿(旧柳本藩織田屋敷)

 「天保15年(1844年)に建立された柳本陣屋の表向御殿を1967年(昭和42年)に移築したものです。重要文化財に指定されています(普段は非公開です)。」

橿原神宮のホームページ

http://www.kashiharajingu.or.jp/point/bunkaden/

久米寺

「真言宗御室派の寺院で、山号は霊禅山です。聖徳太子の弟の来目皇子が眼病を患い、薬師如来に祈願したところ平癒したことに感謝して建立したといわれます。境内には、万治二年(一六五九年)に京都仁和寺から意見された多宝塔の南側に巨大な礎石が列んでいます。これは東塔跡で、古代の久米寺は薬師寺式の伽藍配置で現在の寺院の西側にあったと考えられます。

 久米寺は、久米仙人による開基伝承があります。それによると、久米仙人が仙術で空を飛んでいる時、川で洗濯をしている女性のふくらはぎに見とれてしまったために法力を失い、地上に落ちました。しかし久米仙人はその女性と結婚し、俗人として暮らしました。その後、天皇が遷都を行なう時に久米仙人は労働者として雇われました。ある日、仲間から「仙術を使って材木など一気に運んでしまったらどうだ」とからかわれ、久米仙人は七日七晩祈り続けた後、仙術によって山にあった材木は次々と新しい都へ飛んで行ったそうです。これにより天皇は久米仙人に田を与え、これによって建てたられのが久米寺であるといいます。」

久米寺本堂

久米寺で解説を聞く

弘法大師筆の石碑、益田池碑銘井序

久米寺、多宝塔(重文、仁和寺より移築)

久米寺大塔の礎石

久米御縣神社(式内社)

「久米直が自らの祖神を祀ったのが創祀とされます。高皇産霊神・大久米命・天槵根命を祀っています。『日本書紀』神武紀には「大来米をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまう。今来目邑と号くるは此。其の縁なり」とあり、境内の一角に「来目邑伝称地」の石碑が建てられています。」

久米寺に隣接する久米御縣神社

久米邑傳稱地の碑

益田池堤跡

「高取川を堰き止めて造られた灌漑用の溜め池で、空海が撰文した「益田池碑銘并序」(ますだいけひめいならびにじょ)があります(空海『性霊集』巻二)。それによると、弘仁13年(822年)の冬、藤原緒嗣・紀末成の二人が池を築造せんことを奏請して許され、その後、大伴国道・藤原藤広の二人が引き継いで造られたとされます。池の範囲については、畝傍山の南、久米寺の西南であると書かれています。池の堤の一部は現在も鳥屋橋北から鳥坂神社まで長さ約55m(本来は200m)、幅30メートルが残っていて、県史跡に指定されています。池の跡は白橿ニュータウンとなっています。」

益田池堤跡へ

益田池堤跡

益田池堤跡説明板

益田池堤跡で解説を聞く

鳥坂神社(式内社)

「神武二年に天皇が大伴氏の祖道臣命の功を賞して宅地を賜って築坂邑に居らしめたと『日本書紀』にみえ(神社の近くに「築坂邑伝称地」の石碑があります)、この地に道臣命が高皇産霊神と天押日命を祀ったとされます。『延喜式』神名帳には二座と記され、本殿も二間社の形式を伝えています。」

鳥坂神社から畝傍山

鳥坂神社

鳥坂神社拝殿

鳥坂神社拝殿解説を聞く

「築坂邑伝称地」の石碑

近鉄橿原神宮前駅

「近鉄橿原線と近鉄南大阪線、近鉄吉野線が接続する駅となっていますが、この駅は複雑に変遷しています。大正時代末までは橿原神宮一の鳥居前付近に大軌畝傍線「橿原神宮前」駅がありました。 この駅には吉野鉄道(狭軌)が「久米寺」駅から北へ延びて接続し(のちに大軌吉野線となる)、さらに北へ延びて国鉄畝傍駅まで線路が通っていました。1930年(昭和5年)に大軌畝傍線(広軌)は「橿原神宮前」駅から「久米寺」駅まで延長しました。これとは別に大阪鉄道(大鉄)の「橿原神宮」駅が橿原神宮の南側にあり、「久米寺」駅と接続していました。昭和14年に大軌畝傍線を東へ移設した時に大軌「橿原神宮前」駅・大鉄「橿原神宮」駅・大軌「久米寺」駅を統合し、「久米寺」駅の位置に「橿原神宮駅」駅が設置されました。これが現在の「橿原神宮前」駅になります。」

橿原神宮駅で解散