2016年11月例会 横大路をあるく
案内:重見 泰先生
日時:平成28年11月20日(日) 午前10時
集合:近鉄大阪線 真菅駅
行程:真菅駅―宗我都比古神社―曽我遺跡―入鹿神社―接待場跡―国分寺―札ノ辻(八木札の辻交流館)―藤原宮海犬養門跡―三輪神社―面堂の礎石―市杵島神社―小西橋―桜井駅(解散)
横大路を歩きながら、古道の歴史を考えます。徒歩約11㎞。
「新羅・任那使を迎えた古代の道」(『友史会報』第578号)で、外交使節が飛鳥に入京する際のルートの復原を試みた。それは、竜田道で大和に入り、斑鳩宮を経由して筋違道を南下して保津・阪手道に入り、海石榴市の衢や阿斗河辺館へ向かったというものである。実は、この復原では大和への進入路として、もっとも重要な「横大路」についてまったく触れなかった。今回は、この横大路を案内いただく。
推古十六年と同十八年に入京した隋使や新羅使・任那使は、彼らの入京に際しては、斑鳩宮で厩戸皇子が応接したと考えられることから、横大路ではなく竜田道から大和に入って斑鳩宮を経由し、そこから筋違道を南下して、保津・阪手道を通って海石榴市の街や阿斗河辺館にいたったものと考えられる。
解説文(会報より抜粋)
横大路は、葛城市長尾にある長尾神社付近から桜井市谷の寺川に架かる小西橋までの12・7㎞におよぶ直線道路であり、古代から現在まで踏襲され続けている。現在は、その西側が国道166号になっている。横大路の西方は竹内街道へと続いており、竹内峠を越えて河内に至る。東に進むと初瀬谷に入って長谷寺のそばを通り、名張、伊賀上野を経て伊勢に至る。江戸時代には、目的地を指して「伊勢街道」「初瀬街道」とも呼ばれ、伊勢神宮に参詣する「おかげ参り」の流行によって多くの人々が横大路を往来した。現在でも、街道沿いには「おかげ参り」のために設置された常夜灯がいくつも残っており、往時を偲ぶことができる。
葛城市の長尾から桜井市の谷までの直線道について、「横大路」と呼称した最も古い史料は、建久4年(1193)四月六日の『下郡平田御荘総追捕使清原正秀注進状』に磯野郷の四至を記した「北限横大路ヨリ北二町行西東畔際」とされる(和田1974)。横大路は、12世紀頃には「ヨコノオホミチ」と呼ばれており、単に「オホミチ」「ヨコミチ」とも呼ばれていたようである。横大路周辺の小字名にみられる「横内」「大道」などは、その転訛と考えられている。
横大路の西端は、現在は、磐城駅前から西に国道166号がまっすぐ通っているが、国道166号が敷設される1960年代までは磐城駅前で南に曲がり、100m南にある長尾神社の北端でまた西に曲がって竹内街道に繋がっていたが、古代の横大路は磐城駅前で曲がることなく西へまっすぐ通っていた可能性が高い。
大和に入ってからの横大路の前身となるルートは、竹内遺跡の存在から縄文時代にまで遡ることが推測されている(和田1974)。こういった小道が、ある時期に直線道路として整備され、横大路と呼ばれるようになった。『日本書紀』推古二一年(613)十一月条に「又難波より京に至る大道を置く」とあり、これが直線道路としての横大路の設置記事として注目されている。推古十六年(608)八月条の隋使裴世清と推古十八年(610)十月条の新羅・任那使の入京において横大路の利用形跡がなく、舟運を利用したと推測されることが根拠とされ、この時点では官道として整備されていなかったと考えられている(岸1970a)。
これに対し、和田萃氏は、欽明の磯城嶋金刺宮、敏達の磐余訳語田幸玉宮、用明の磐余池辺双槻宮、崇峻の石村神前宮が横大路周辺に所在することから、直線道としての横大路の整備時期を欽明朝頃にもとめている(和田1974)。また、横大路から繋がる竹内街道沿いに位置する堺市長曽根遺跡では、難波大道と平行して竹内街道と直交する長曽根大溝Ⅰと、「復原竹内街道」に平行する長曽根大溝Ⅱが確認されているが、いずれも直線道路に規制された溝であり、大溝Ⅰは5世紀後半代には成立していた可能性があり、大溝Ⅱは6世紀後半~7世紀前半代のものと考えられている(森村1995)。このことから、竹内街道に繋がる横大路が直線道として整備された時期も6世紀後半以前にまで遡る可能性が指摘されている(近江2006)。
横大路の西端付近に位置する竹内遺跡では、竹内街道に沿った古墳時代の大溝がみつかっており、道路に規制されている可能性が指摘されている(神庭2013)。想定される道路は、竹内峠を越えて横大路に至る「旧竹内街道」の前身にあたる。これは直線道路ではないが、出土土器は5世紀後半~6世紀代のものであり、この時期までには、一定規模の道路が存在した可能性がある。したがって、この道路に続く横大路もその頃までに整備されていた可能性がある。
竹内峠越えの「当岐麻道」は、蘇我石川氏の本拠地ともされる磯長を通過しており、付近には蘇我氏と関係の深い敏達、用明、推古、厩戸皇子らの陵墓が築造されていることから、この「大道」設置を主導したのは蘇我馬子にほかならないだろう。
横大路・竹内街道沿いには倉地名が多く、倉の出納や事務を司る倉人の分布が蘇我氏の勢力範囲と重なることが指摘されている。こういったことから、横大路・竹内街道に沿って稲貢納物の収納・保管を目的とするミヤケが存在したと理解されている(和田1974)。
宗我坐都比古神社
「蘇我氏の本拠地と考えられている橿原市曾我には、馬子の創建と伝わる宗我坐都比古神社がある。その東向かいには字「宮毛」、南側の忌部周辺には「多部」「ミヤケ」などミヤケに関する地名が集中している。さらに、犬を飼養して屯倉を守衛することを職掌にした犬養部に関係する「犬貝」もみられることから、この一帯にミヤケがあったと推測されている(和田1974、千田1983)。」
「『古語拾遺』によると、履中(磐余若櫻宮)代に、忌部氏の管理する斎蔵の傍に内蔵を建て、雄略朝に大蔵を立て、蘇我麻智をして三蔵を検校させたという伝承がみられるが、曾我から忌部にかけてみられる倉地名やミヤケ地名は、蘇我氏や忌部氏の実態を考える上で非常に興味深い。また、当麻の衢にあたる横大路の西端付近では、道路の南側に倉地名が集中しており、当麻倉の故地であったと考えられている(和田1974)。」
例会の受付場所となった
宗我座宗我都比古神社の鳥居
七五三詣の旗が風に靡く
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案内をして頂く重見先生
「新羅・任那使を迎えた古代の道」の別ルートを考える
飛鳥に入るには、どのルートで行ったのだろう?
曽我遺跡
「国道24号橿原バイパス建設にともなう発掘調査で確認された遺跡で、古墳時代中~後期の大規模な玉生産を行っている(橿考研1989)。使用された石材には、碧玉、緑色凝灰岩、滑石、琥珀、水晶、翡翠、瑪瑙などがある。石材の多くは大和以外の地から搬入されたものであり、横大路を通ってもたらされたものと考えられる。
曽我遺跡の南、高取川を越えた忌部町には式内社である天太玉命神社があり、玉作り集団を支配下において宮廷祭祀に預かっていた忌部氏の祖神を祀っている。曽我遺跡の玉生産は、忌部氏との関わりで理解すべきであり、大和王権のための生産だったと考えられる。」
曽我遺跡の説明を聴く
季節はずれの暑さで、上着を脱ぐ
藤原京西端
橿原市立公民館・集会場真菅地区公民館 藤原京西端
近隣の方々に迷惑にならないように、一所に集まって説明を聴く
自治会の案内図が効力を発揮!
首落橋
「曽我遺跡の東南で横大路に架かる橋を「首落橋」といい、鎌足に討たれた入鹿の首がそのそばの家に落ちたという言い伝えがある(岩井・花岡大1976)。その家を「おって屋」とも「オッタ屋」とも言う。現在、「首落橋」の架かる水路は非常に小さく、橋自体もそれと言われなければわからない。」
首落橋付近
畑ヶ田横大路南側側溝
佐々木内科医院南側が畑ヶ田横大路南側側溝
横大路の道路跡にて
入鹿神社
「首落橋」の東側の小綱町には素戔嗚尊と蘇我入鹿を祀る入鹿神社がある。もともとは廃普賢寺の鎮守社であったとされ、俗に「入鹿の宮」といい、その氏子は多武峰には決して参らないという(岩井・花岡大1976)。
入鹿神社の拝殿
先生から興味深いお話を聴く
逆臣とされる蘇我入鹿 地元では崇敬を集めている
正蓮寺大日堂、入鹿神社は元鎮守社
蘇我川 桜並木
並木の紅葉が行く秋を惜しむ
常夜灯(おかげ灯篭)
常夜灯(おかげ灯篭)
伊勢神宮参詣の道案内
元は200m東にあった常夜灯
今は街角に移転 行きかう人を見守る
東側法務局庁舎改築に伴う調査で西六坊横大路南側側溝を検出
「幅2・9m、深さ60㎝。路面側には整地層が確認されている。周辺の古墳に使用されていたと考えられる埴輪のほか、飛鳥時代の土器、瓦、土馬や斎串、馬歯などが出土している。横大路の路面と想定される位置では土坑土師器鍋に側板のみの曲物をのせ、複弁八葉蓮華文軒丸瓦で蓋をした遺物が納められていた。この複弁蓮華文軒丸瓦は、飛鳥寺東南禅院の創建瓦であることが指摘されており(花谷1999)、これらは持統五年(691)十月に行われた新益京の鎮祭にともなう埋納坑と考えらえている(今尾2008)。横大路の施工は、このSK02の設置後に行われていることが層位から確認できる。」
横大路
横大路を東へ進む
大和国分寺
「勝満山満法院国分寺といい、本尊は阿弥陀如来坐像。寺宝に国の重要文化財である平安時代前期の木造十一面観音立像がある。宝暦11年(1761)の棟札のあった本堂は、2003年に焼失し、現在は新しい本堂が建立されている。創建については不明だが、国分寺建立の詔をうけた国分僧寺だという説や、『日本書紀』天武九年(680)にみえる八木寺とする説などがある。しかし、本堂再建にともなう発掘調査では、飛鳥・奈良時代に遡る寺院関連の遺構は認められず、18世紀頃以降のものしか確認されていない(橿原市2006)。」
大和国分寺石碑
国分寺の境内で、雨宿り
30人ずつ運営委員さんの案内で八木札の辻交流館へ
八木札の辻
「中街道と呼ばれた下ツ道との交差点一帯は八木町と称され、江戸時代には宿場町として賑わった地域である。横大路と下ツ道の交差点は「札ノ辻」と呼ばれ、幕府の命令などを張り出す高札場が設けられていた。暁鐘成の『西国三十三所名所図絵』巻八ノ二八(嘉永六年(一八五三))に「八木札街」の題で挿絵があり、当時の賑わいを知ることができる。その挿絵をみると、高札場の正面は横大路の西を向いており、横大路を初瀬や伊勢方面に向けて行く人々の目にとまるように高札が掲げられたことがわかる。その高札場の裏側にあたる東には平面六角形の枠の井戸が描かれており、現在もその一部が道路の南側に残っている。また、交差点の北東角に描かれている旅籠「平田家」は現在も残されており、橿原市の指定文化財に指定されて「八木札の辻交流館」として、内部の見学や客間の利用ができる。」
江戸時代は伊勢詣りや大峯山への巡礼で賑わった
東の平田家 今は「八木札の辻交流館」として橿原市の文化財に
『西国三十三所名所図絵』の挿絵に見る「札の辻」
六角井戸の一部が残っている
六角井戸の内部を覗くと・・・
八木の町並
町家が300軒も残っている
松尾芭蕉や本居宣長も歩いた町
接待場跡
「札ノ辻から100mほど西のところに、かつて「接待場」があった。「接待場」は「おかげ参り」で集まる人々の食事の接待や宿泊の世話などを行った場所で、「おかげ参り」が大流行した明和八年(一七七一)に参宮接待連中が建てた常夜灯があった。現在、この常夜灯は移転され、国道24号から西へ170mほどいった交差点南東隅に案内板とともに設置されている。」
接待場(せんたいば)跡の案内板
東町西二坊横大路痕跡
古代の官道も、今は地域のかたの抜け道に!
行きかう車に注意しながら説明を聴く
耳成山
耳成山
昼食場所の耳成山公園に向かう
間近に見る耳成山は綺麗な三角形
雨も止み、公園でお弁当を広げる
食事の後、先生の説明を聴き 午後の見学地へ
伝藤原宮海犬養門の礎石
「橿原市醍醐町にある養国寺の西側には、北に流れる水路があり、その側壁に二個の大きな礎石が顔をのぞかせている。礎石から30mほど南には、藤原宮の北面西門にあたる海犬養門跡が位置することから、水路内の礎石はその礎石だと言われている。」
藤原宮海犬養門
二つの礎石
藤原京大極殿をのぞむ
醍醐町環濠跡
西一坊横大路北側溝
「橿原市山之坊町で行われた近畿郵政局官舎の建替えにともなう調査で、東西溝SD05が検出されており、幅1.8m、深さ22.5㎝。堆積土は粘性の強い土質であることから、耐水状態あったと考えられる。出土遺物が藤原宮期に限られることや、藤原宮期の柱穴がSD05の北側でのみ確認されることなどから、横大路北側溝と推測されている。」
横大路発掘の説明を聴く
藤原京の横大路は30m~40mもの幅であったそう。国家の威信をかけた大事業
近畿郵政局官舎北側溝をタイルで表示
槻の大樹
「札ノ辻から東へ2㎞のところに三輪神社がある。社殿の南側に磐座らしい石があり、古代に三輪山を遙拝する場所だった可能性が指摘されている(和田2009)。境内の入口には御神木の大槻の木があり、この槻木は『西国三十三所名所図会』巻八に「槻の大樹」と題する挿絵で紹介されている。挿絵に描かれた槻木の姿は、現在の道路側からみたようすとよく似ているので、南側からみた姿を描いたものだろう。その解説には、「石原西の宮の街道の正中に有 幹のまわり凡二丈余」とあり、当時は街道の真ん中に槻木があったことがわかる。挿絵にも、荷物を抱えた人が槻木のすぐそばを通るようすや、旅人が立ち止まってその大樹を見上げるようすが描かれている。また、数人が手を広げて幹の大きさを測っているが、その足元には笠や荷物が置かれているから、彼らも旅の道中である。現在、三輪神社は道路の北側にあって、道路との境には水路が流れているため、槻木の存在には案外気付きにくい。とくに東へ向けて進むと手前の雑木林に隠れて見過ごしてしまうが、この槻木の大樹は、図絵でも紹介されるように、江戸時代の人々にとっては当地の象徴的な存在であった。」
『西国三十三所名所図絵』の挿絵に見る槻の大樹
三輪神社の境内
境内にある槻の大樹
当時は「おかげ参り」に行く人のランドマーク!
今はご神木として崇められている
面堂の礎石
「三輪神社の南西隅には地蔵堂があり、その背面の水路の中に直径110㎝の円柱座をつくり出した大きな礎石がある。説明板によると、藤原京内の寺院から持ち出されたものか、林宗甫の『大和旧跡幽考』(『大和名所記』)のいう「面堂」のものという。三輪神社の南東には、字「宗坊」「僧坊」があり、この付近に寺院があった可能性は高い。ここは古くから「面堂」と言い習わしているという(和田1983)。「宗坊」と「僧坊」の境には米川から引いた水路が通っているが、この水路は横大路を横断して道路の北側を並行し、三輪神社の南から西へと流れており、礎石はこの水路の中にある。この水路は、先に見た『西国三十三所名所図会』の「槻の大樹」(図2)には描かれていないようなので、あるいは、この水路を引いた時に「宗坊」「僧坊」から礎石が掘り起こされたのかもしれない。なお、三輪神社の西側には、中ツ道を踏襲する南北の小道が通っている。」
水路の中にある面堂の礎石
市杵島神社
「横大路と中ツ道の交差点を少し北に入ったところにあり、市杵島姫大神を祀る。市杵島姫大神は、福岡県宗像郡の宗像神社の祭神の一柱だが、その名称から市を守護する神として信仰されている。横大路と中ツ道との交差点付近に藤原京の市があった可能性があり、それとの関係が指摘されている(和田2009)。」
宗像神社との関わりは高市皇子の母が宗像郡の出であると、先生のご見解
藤原京造営に尽力した皇子に思いを馳せる
浄福寺六十六部廻国供養碑
市杵島神社境内の一画に神宮寺の浄福寺が建立されていたが、現在は地元の公民館に建て替えられている。境内には天文13年(1544)銘の六十六部廻国供養碑などが残る。六十六部供養塔とは、全国六十六カ国の霊場に大乗妙典(法華経)を奉納するという名目で行われた巡礼で、成就・満願を刻んだり、死没した廻国者の供養を行う塔。
横大路と交わる中ツ道。
三輪神社の西側
藤原京東端
藤原京東端
住宅地の片隅で先生の説明を聴く
北側 倉殿があるとのこと。
「横大路・竹内街道沿いには倉地名が多く、倉の出納や事務を司る倉人の分布が蘇我氏の勢力範囲と重なることが指摘されている。こういったことから、横大路・竹内街道に沿って稲貢納物の収納・保管を目的とするミヤケが存在したと理解されている(和田1974)。」
南側横大路横断する川
上つ道
横大路と交わる上つ道 北側
横大路と交わる上ツ道 南側
小西橋
「横大路と呼ばれた区間の東端付近をみると、桜井市谷の小西橋から東側では道路の方向が変わっており、東を向いて北に10度ほど振れている。このことから、寺川にかかる小西橋が横大路の起点となっているものと考えられているが、小西橋は、横大路と上ツ道との交差点から東へ100mほどずれている。」
小西橋
横大路の終点(起点)
横大路と上ツ道との交差点から、少しカーブになっているのがわかる。