案内 北井利幸氏
平成28年4月17日(日)10時 松ヶ本公園集合(阪急甲東園駅徒歩約十分)
入組野古墳→関西学院構内古墳→上ヶ原浄水場内古墳→甲山銅戈出土地→神呪寺→阪急電鉄甲陽線甲陽園駅
銅鐸出土地をめぐる企画の第五弾です。今回は銅鐸出土地ではなく、弥生時代の青銅器である銅戈出土地を中心にめぐります。大阪平野の西端となる六甲山脈の南麓に位置する甲山は大阪平野の様々な地点から望むことができ、その甲山から大阪平野に点在する銅鐸出土地を遠望し検討します。
「銅鐸出土地をめぐる」は展示室で観ることの多い銅鐸を出土地から検討するシリーズです。今回は第五弾です。第Ⅱ・Ⅲ弾で芦屋市から神戸市東灘区にかけての六甲山脈南麓地域の銅鐸出土地点を見学してきました。
今回はその東側に位置する西宮市内を歩きますが、銅鐸出土地点ではなく、銅鐸と同じ時期に使用された青銅器である銅戈の出土地点をめぐります。甲山周辺部ではいくつか銅鐸が出土しています。兵庫県川西市から2点(満願寺銅鐸・加茂銅鐸)、伊丹市から1点(中村銅鐸)、宝塚市から2点(中山銅鐸)、西宮市から1点(津門銅鐸)、芦屋市から1点(伝堂ノ上銅鐸)、神戸市から五ヶ所19点(渦ヶ森銅鐸・森銅鐸・生駒銅鐸・本山銅鐸・北青木銅鐸・桜ヶ丘銅鐸)、大阪府豊中市から一カ所2点(原田神社銅鐸)です。またこの他、淀川左岸、大阪湾を挟んだ東から南側にかけての河内・和泉地域でも多くの銅鐸が出土しています。これらの地域からは甲山を遠く望むことができます。甲山から眼下に広がる銅鐸出土地を遠望し、その位置関係を探ります。
下尾会長の挨拶
兵庫県に強風波浪の警報が発令され、今にも雨が降り出しそうな中、50人の会員さんが松ヶ本公園に集まりました。
案内をして頂く北井利幸先生
山田暁氏 (西宮市教育委員会 文化財課)
今回見学する古墳の管理をされている西宮市教育委員会から、悪天候にも関わらず、学芸員さんが来て下さいました。
入組野古墳
昭和28年に宅地造成に先立って発掘調査され ました。直径約17m、高さ約1.5mの円墳で横穴式石室が築かれていました。石室は全長2m、幅0.66m、高さ0.9mで、仁川渓谷で採取される花崗岩を使用しています。古墳に伴う人骨・遺物は出土せず、築造年代は明確ではありません。
現在は約300m南のここ兵庫県立西宮高校の校内に移築保存されています。
強風で帽子が石室に飛んでいきそうになりながら説明を聞いていました。
入組野古墳
関西学院構内古墳
玄門から見た奥壁
昭和34年に関西学院大学により発掘調査が行われました。直径12m、高さ3mの円墳です。石室は南に開口する右片袖式の横穴式石室で、全長9.74m(玄室長4,74m、羨道長5m)、玄室奥壁の幅1,5m、玄室床面から天井までの高さは約2,4mあります。仁川渓谷で採取される花崗岩を使用し,西宮市内では大形の石室です。玄室の両側壁は大形の石材を基礎に用いて、天井部に行くにしたがって小形の石材を内部に向かってせり出しながら積む持ち送り技法で造られています。上ヶ原台地の古墳群の他の古墳でも採用されていました。石室内からは、複数人分の歯や人骨片などのほか、副葬品として耳環五点、滑石製勾玉、碧玉製管玉7点、水晶製切子玉6点、ガラス製小玉35点、琥珀製棗玉2点、鉄鏃4点、革帯留金具片1点、須恵器が出土しました。石室、副葬品から7世紀に位置づけられています。昭和49年3月に西宮市指定史跡に指定されています。
背後に甲山! 白い時計台のある関西学院大学の校舎は昭和4年 W・メレル・ヴォーリズが設計。
山田先生の説明を聞く運営委員
5,6人に分かれて、石室内を見学。 天井石の下から光が漏れているので懐中電灯はいらないみたい!
分水樋
上ヶ原用水が三分岐していく分水樋。水路の幅がここで分けられそれぞれ流れゆく。この幅は各村々で決めたそう。
上ヶ原浄水場内古墳
中央奥が墳丘。
神戸市水道局上ヶ原浄水場の構内に残された古墳で、直径7mの円墳です。石室は南に開口する左片袖式の横穴式石室です。発掘調査が実施されていないため、詳細な時期は不明ですが、入組野古墳、関西学院構内古墳と同時期、古墳時代後期に築造された古墳ではないかと、先生は考えられています。
日曜日は上ヶ原浄水場が休みのため、残念ながら見学することが出来ませんでした。恨めしそうにフェンス越しに見る。
満開のツツジに足を止める。
銅戈出土の地 甲山へ
昭和45年11月、甲山山頂の平和塔の建設工事に伴って削平されたところから発見されました。平和塔の東側4,6mの地点で先端部が露出していました。約30度の角度で先端部を上にして埋納されていました。周辺部の調査が行われましたが、銅戈埋納遺構やその他の遺物は発見されませんでした。甲山山頂では、弥生土器の破片や石鏃、サヌカイトの?片などが採集されていることから銅戈と同時期の遺構が存在する可能性があるとのことです。
甲山森林公園から甲山が見える。標高309,4mお椀をさかさまにしたような山。登山道も整備されている。
展望台から大阪平野が眼下に広がる。雲の隙間から薄陽が射し、高層ビルがだんだん浮き上がってくるよう。
甲山の頂上からは周りの木々に遮られ、大阪平野を一望できないので、先生がコースにないサプライズを作って下さいました。遊園地にあるような展望台に登って・・・
今回のテーマは甲山から大阪平野に点在する銅鐸出土地を遠望し、その位置関係から見えてくるものは何かを考える。
木陰でお弁当を広げる、和気藹々のひと時。
この後、甲山へ
甲山森林公園のシンボル「女神の像」
甲山登山道 暫らく険しい道が続く。]
登山道にあった「源頼朝の五輪塔」
銅戈出土の地
甲山銅戈出土地の説明板
昼からは汗ばむ陽気。銅戈の説明を聴きながら、その後先生との楽しい質問タイム! 銅鐸の話しは尽きないようです。
今、皆が立っている下に銅鐸が埋まっているかも?
神呪寺
甲山の南側に位置する神呪寺は真言宗の寺院で、山号を「武庫山」と称しています。鎌倉時代の高僧虎関師錬による『元亨釈書』(元亨2年(1322))に、淳和天皇の第四紀如意尼が霊夢に導かれて武庫の地に至り、天長8年(831)に寺院を建立したことが記載されています。こうした文献史料の記載によれば創建を9世紀前半以降と考えることができます。西宮市内では数少ない創建が古代に遡る寺院です。10世紀末から11世紀初頭のヒノキ材の一木造りの木造如意輪観音坐像(重要文化財)、11世紀の製作と考えられるヒノキ材の一木造りの木造聖観音立像(重要文化財)、鎌倉時代製作のヒノキ材の一木造りの木造不動明王坐像(重要文化財)、同じく鎌倉時代製作のヒノキ材の寄木造りの木造弘法大師坐像(重要文化財)が所蔵されています。神呪寺とは甲山を神の山と信仰したところから、この寺を神の寺と名付けたことに由来します。また、神呪とは般若心経にある神呪で、真言という意味があります。
神呪寺境内から仁王門を眺める。
無事、甲山から下りてきました。朝の天気とは打って変わってきれいな青空が!心地よい風が吹き、遙かに仰ぐ山々に悠久の歴史を感じる時間でした。
神呪寺仁王門の山門 山号「武庫山」の扁額が。
あべのハルカス ツインビル 遠くに二上山も見える。
古代は大和からも甲山が見えたかも知れない。甲山は信仰の粋を集めた聖なる山。
写真撮影(坂部征彦) 解説文(4月会報より引用)