yushikai.jpg

案内 小栗 明彦氏
 平成28年2月21日(日)10時近鉄生駒線菜畑駅集合
 菜畑駅→中菜畑・一水口遺跡→往馬大社→壱分宮ノ前遺跡→西畑遺跡→萩原遺跡→やまびこホール(昼食休憩)→暗峠→石切劍箭神社(見学後に解散)

 平成26年9月例会では、暗越奈良街道沿いに分布する宝来山古墳、富雄丸山古墳、竹林寺古墳の築造時期や立地のあり方から考えて、暗越奈良街道が最初に拓かれたのは、江戸時代でも奈良時代でもない、古墳時代前期後半、4世紀中葉頃なのではないかという仮説を立て、それらの古墳の立地状況を確認しながら、奈良から生駒まで歩きました。今回の2月例会はその続編として、暗越奈良街道を生駒から東大阪まで歩きます。

 「暗越奈良街道」と呼ばれる国道308号線は、大阪から生駒山の暗峠を越えて生駒谷に入り、さらに矢田丘陵、西ノ京丘陵を越えて奈良に至る道であり、数ある奈良街道、伊勢参宮街道のうちの一つです。奈良側から見れば「暗越大坂街道」と呼ぶことのできる街道です。この道は江戸時代に整備が進み、奈良見物やお伊勢参りの往来で賑わいました。

 暗越奈良街道を開発したのは4世紀。街道沿いの、富雄丸山古墳の被葬者で富雄川を渡る地点を押さえた首長、竹林寺古墳の被葬者で竜田川を渡る地点を押さえた首長、石切劍箭神社付近に存在したであろう未知の古墳の被葬者で草香江(河内湖)からの上陸地点を押さえた首長が道路開発にたずさわり、また、暗越え奈良街道の奈良側往馬大社と大阪側石切劍箭神社の祭神は物部氏の祖饒速日(にぎはやひ)命であること、物部氏の本拠布留遺跡から出土した火焔形透孔陶質土器高杯が壱分西畑遺跡から出土していることから、道路開発の取りまとめを行ったのは宝来山古墳の被葬者で大王側近の物部氏であると小栗先生は考えておられます。

 暗越奈良街道の大阪側には4世紀の古墳はありませんが、石切劔箭神社では、三角縁神獣鏡、斜縁神獣鏡、画文帯神獣鏡、獣帯鏡、龍虎鏡、内行花文鏡などの銅鏡、腕輪形石製品(石釧・車輪石・鍬形石)、鏃形石製品、管玉などの碧玉製品、巴形銅器など、一括性の高い古墳副葬品目が保管されており、付近には、消滅してしまった古墳時代前期後半の未知の古墳が存在していた可能性が高い。また暗越奈良街道沿いに分布するこれらの有力首長古墳は、いずれも単独で立地しています。このため、その地域の首長が大和政権の有力構成員となっていた時代は、4世紀中葉におこなわれた暗峠越えの道路開発に従事した時の首長一代限りであったことを示しています。

 有力首長が不在となった暗越奈良街道沿いの地域では、壱分宮ノ前遺跡に物部氏の出先機関がおかれ地域経営されたと考えられます。

近鉄菜畑駅

案内は小栗先生

中菜畑・一水口遺跡

 往馬神社から約300m北東に離れた付近、竜田川が大きく西側に蛇行する部分の両岸に広がる、弥生時代から鎌倉・室町時代にかけての集落遺跡です。

 第3次調査では、西から延びてくる丘陵の上で掘立柱建物と、丘陵先端を巡る弥生時代末から古墳時代初頭の溝と自然流路が発掘されています。その頃、竜田川右岸の丘陵上に、周りを溝で区画した集落が出現したようです。第10次調査で4世紀後半の土坑が発掘されていることや、第9次調査で古墳時代の柱穴、古墳時代と奈良時代の須恵器、土馬が出土していること、第3次調査で丘陵周りの堆積層から奈良・平安時代の須恵器や黒色土器が出土していることなどから見て、この丘陵上には、弥生時代末に集落が形成されて以降、古墳時代から奈良・平安時代に至るまで、断続的に集落が営まれたと考えられます。

 また、第8次調査では、5世紀後半から6世紀前半の溝が一条発掘されており、古墳時代後期に竜田川左岸における耕地開発が始まった可能性があります。竜田川右岸は居住地、左岸が生産地という土地利用形態が始まったようです。

中菜畑・一水口遺跡 居住区

中菜畑・一水口遺跡 耕作地

往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)

 生駒市壱分町に所在する延喜式内社。主神は伊古麻都比古命と伊古麻都比売命。

 天平2年(730)の正倉院文書『大倭正税帳』に「往馬神戸稲弐百壱拾玖参束参把握」とあり、大同元年(806)の『新抄格勅符抄』に「伊古麻神三戸大和」とあり、奈良時代前半には既に祀られていたことが分かります。

 社司谷野正重『郷社伊古麻都比古神社御由緒調査書』には、「総国風土記曰、平群郡伊古麻都比古神社圭田56束、所祭饒速日命也、雄略3年5月始奉神田行式祭、有神家巫戸等」と あり、奈良時代より前には、神武東征と戦った長髄彦が奉じ、物部氏が始祖とした饒速日命を祀っていたと伝えられます。

 また、平安時代には、往馬大社の火きり杵と火きり臼で火をきって、大嘗会の浄火に用いていたようです。昭和15年(1940)の紀元二千六百年祭で、橿原神宮で使われた祭器も、往馬大社の火きり木を持参して、香具山の上で焼かれたそうです。

往馬神社へ

往馬神社本殿

往馬神社で解説を聞く

往馬神社参道

往馬神社鳥居

壱分宮ノ前遺跡

 壱分宮ノ前遺跡は発掘された遺構や遺物から見て、「豪族居館」的な性格が考えられます。

 「豪族居館」は以下の要素を備えていることが挙げられます。

 ①濠、堀、溝、柵、土塁などの複合した囲郭施設があり、平面形が方形もしくは長方形。

 ②水上交通、陸上交通の要衝に位置する。

 ③居館主人が生前に入手したであろう古墳副葬品目にある遺物や、居館内での祭祀行為の痕跡である祭祀遺物が出土する。

 ④対外交渉の拠点であったことを反映して、外来系土器が出土する傾向にある。

 ⑤居館と対応して、付近に居館の主人が埋葬されたと目される前方後円墳などの首長古墳がある。

 これらの要素について壱分宮ノ前遺跡は、

 ①一辺約70mの方形区画溝が巡る可能性が高い。

 ②約1.3㎞南に東西に走る暗越奈良街道と、北から南に流れる竜田川との交差点があり、水陸交通の要衝に位置する。

 ③古墳副葬品目である車輪石や、祭祀遺物である滑石製有孔円盤、土製模造品が出土している。

 ④製塩土器や大阪南部の陶邑窯から搬入されたと見られる初期須恵器、軟質土器が多く出土している。

 ⑤約700m南西に竹林寺古墳がある。

 このように、「豪族居館」であるほとんどの要素をみたしています。

 ただし、竹林寺古墳以降の代の首長が埋葬された古墳が見当たりません。居館的な施設であることに間違いはないけれども、生駒谷の首長の居館ではないと考えられるのです。

 壱分宮ノ前遺跡の約200m南に、西畑遺跡第1次調査Ⅲ区の流路跡から5世紀代に韓国慶尚南道西部の咸安地域からもたらされた火焔形透孔をもつ陶質土器高杯脚部が出土しています。天理市の布留遺跡でも同じ舶来品の火焔形透孔陶質土器高杯が出土しています。

 布留遺跡は弥生時代から続く集落遺跡で古墳時代中期に規模が拡大して大集落となる遺跡です。首長の居館跡や工房跡、祭祀場跡などが発掘されています。石上神宮を背後に控え、物部氏が本拠とした場所と考えられています。日本列島では西畑遺跡、布留遺跡、橿原市新堂遺跡の3遺跡でしか出土例がなく、希有な土器だけに、布留遺跡と生駒谷の強い繋がりが想定できます。

 このことから布留遺跡を拠点とする物部氏が、暗越奈良街道の物流を直接支配したことから、生駒谷地域の首長が不要であったためと考えられます。往馬大社では、奈良時代よりも前の時代には、物部氏が始祖とする饒速日命を祀っていたと伝えられることや、東大阪の草香江(河内湖)から暗越奈良街道への上陸地点付近に位置する石切劍箭神社においても饒速日命が祀られている点も、物部氏が関係していたという想定を補強します。 つまり、壱分宮ノ前遺跡は、物部氏の出先機関的性格の居館であって、物流拠点として機能していた場所と解釈することが可能でしょう。

北から望む壱分宮ノ前遺跡(竜田川側)

北から望む壱分宮ノ前遺跡(往馬神社側) 右は、居館建設にあたり整形された段差

東から望む壱分宮ノ前遺跡(背後は往馬神社社叢と生駒山)

西畑遺跡

 生駒市壱分町に所在します。往馬神社から約500m南東に離れた、竜田川右岸の河岸段丘上に立地し、南北両側を谷地形で区切られた間の、南北約200mの範囲を占めています。弥生時代から鎌倉・室町時代にかけて営まれた集落、官衙、墓地などの複合遺跡です。 

 生駒谷における集落遺跡の様相が分かる唯一の例と言ってよいでしょう。

 まず、弥生時代中期後半に竪穴住居と方形周溝墓がつくられます。古墳時代中期の竪穴住居も14棟発掘されています。平安時代中頃から中世になると、遺跡の範囲全体で多数の掘立柱建物が発掘されていることから、大規模な集落が形成されたと考えられます。第13次調査では、鎌倉時代の井戸も1基発掘されています。第1次調査では、集落の東側を限った南北方向の蛇行する区画溝の外側で、土壙墓がみつかっています。副葬品として白磁碗、瓦器皿、小刀が収められていました。この中世の大集落は近世まで続かず、衰退して耕作地へと変わっていきます。

西畑遺跡にて解説を聞く

萩原遺跡

 生駒市萩原町に所在します。竜田川右岸の暗越奈良街道沿いに広がる弥生時代から鎌倉・室町時代にかけての集落遺跡です。

 遺跡が初めて公に認識されたのは、岩根保重氏、藤岡謙二郞氏らによってまとめられ、昭和19年(1944)に刊行された『生駒山脈』という書籍の中において、小平尾遺跡という名称で紹介されたことに始まります。南生駒尋常小学校(※氏らは萩原小学校と誤記。)の跡地から出土した弥生時代中期の土器や石鏃、石槍などが紹介されました。昭和40年代、50年代頃には、生駒南小学校の施設の新築、改修工事が次々とおこなわれました。その工事によって弥生時代中・後期の土器、古墳時代の埴輪、奈良・平安時代の須恵器、中近世の土師器、瓦器、瓦質土器、陶器、瓦などが出土し、採集されています。考古学的な発掘調査がおこなわれ始めたのは、昭和61年(1986)の第1次調査からで今までに18次にわたる発掘調査がおこなわれています。

 第12次調査で弥生時代中期の溝が発掘されていることや、第17次調査地や生駒南小学校敷地から中・後期の弥生土器が出土していることから、第12次調査地付近を中心とする低丘陵上に、弥生時代中後期の集落が営まれていたと考えられます。

 西の生駒山から発して竜田川に注ぐ、神田川の北岸でおこなわれた第18次調査では、古墳時代後期の竪穴住居が発掘されており、神田川が竜田川に合流する付近には、古墳時代後期の集落が展開していることが予想されます。

 生駒山から東へ派生する尾根の先端に立地する、奈良時代前半の官人、美努岡萬の火葬墓の南側でおこなわれた第13次調査で、奈良時代後半の土坑が発掘されていることや、生駒南小学校敷地から奈良・平安時代の須恵器が出土していることから、暗越奈良街道の北側に奈良・平安時代の墓地や関連集落が営まれていたようです。

 また、暗越奈良街道から近い位置にある調査地では、中近世の遺構や遺物が出土していることから、中世以降、街道沿いの集落が発達したと考えられます。

萩原遺跡 生駒南小学校東側の低い段丘

萩原遺跡 生駒南小学校ある段丘

萩原遺跡 生駒南小学校校舎 左が第1次調査地点

暗峠

生駒南小学校前を通過し西へ暗峠を目指す

なだらかな坂が続く

やまびこホール(昼食休憩)

段々畑が続く。

長い坂で隊列が伸びる

奈良側を振り返る。矢田丘陵と笠置山地が望める。

暗峠に到着。

日本の峠100選の碑

紅梅の花が咲き始め

南天の実

大阪側には側沿いに寺院が

大阪の街が見えてきた

大阪の街を見ながらひたすら下る

枚岡公園への分岐

豊浦1号墳の石室が開口

石切剱箭神社(法通寺跡)

 大阪府東大阪市石切町一丁目に所在します。主神は饒速日(にぎはやひ)命とその子である可美真手(うましまで)命であり、延喜式内社です。

 社伝には、次のようなことが伝えられています。「可美真手命の後裔である物部氏は、河内地方を所領とし、石切剱箭神社の神主であったが、孝元天皇の時代に豊かな稲穂を献上したため、一族に穂積の姓を賜った。石切剱箭神社の神主は、代々、穂積の姓を称した。天武天皇の時代に、穂積氏も穂積寺を建立した。穂積寺は後に法通寺と呼ばれるようになった。現在の石切剱箭神社の神主は、代々、木積氏であり、穂積氏が室町時代の頃に功があったため、功積氏の姓を与えられ、それがいつしか木積氏となった。」

 昭和59年(1984)、神社境内において、穂積殿の建設に伴う事前発掘調査がおこなわれました。その結果、法通寺跡の石積み基壇や回廊状遺構などがみつかり、基壇周辺では7世紀末から中世までの瓦が大量に出土しました。基壇の下層からは、5世紀後半の井戸状遺構もみつかっており、7世紀に法通寺が建立されるより前の5世紀には、既に集落が営まれていた場所であることが分かります。 また、神社の宝物殿には、三角縁神獣鏡、斜縁神獣鏡、画文帯神獣鏡、獣帯鏡、龍虎鏡、内行花文鏡などの銅鏡、腕輪形石製品(石釧・車輪石・鍬形石)、鏃形石製品、管玉などの碧玉製品、巴形銅器など、前期後半の大型古墳に副葬されていたものであろう、一括性の高い遺物が保管されています。4月と10月の年2回おこなわれる春秋の大祭にあわせて、宝物館は一般公開されています。

 今回は特別に見学させていただいた。ありがとうございました。

石切剱箭神社鳥居が見えてくる

石切剱箭神社絵馬殿

絵馬殿横で解説を聞く

絵馬殿の饒速日(にぎはやひ)命(天津神のしるしとして長髄彦が神武に示した天の羽羽矢を持つ)

絵馬殿の布都御魂剣(石上神宮ご神体)を持つ可美真手(うましまで)命

拝殿を抜ける

穂積殿へ

穂積殿内の宝物館へ

 三角縁神獣鏡、斜縁神獣鏡、画文帯神獣鏡、獣帯鏡、龍虎鏡、内行花文鏡などの銅鏡、腕輪形石製品(石釧・車輪石・鍬形石)、鏃形石製品、管玉などの碧玉製品

 巴形銅器などを見学。用意いただいた図録もほとんど売り切れた。

穂積殿内の法通寺建物基壇

穂積殿を出る

西から穂積殿を望む