案内 重見 泰氏
近鉄橿原線結崎駅→史跡島の山古墳→白山神社→屏風杵築神社→県史跡黒田大塚古墳→孝霊天皇廬戸宮伝承地
→孝霊神社→保津・宮古遺跡→十六面・薬王寺遺跡→羽子田遺跡→阪手北遺跡→近鉄橿原線田原本駅
推古18年(610)冬10月8日、新羅使と任那使が難波津の近くの難波館から入京した。この日、新羅使の荘馬(かざりうま)の長の額田部連比羅夫と任那使の荘馬の長の膳臣大伴とともに、使人を阿斗河辺館に安置した。その翌日、使人は推古天皇の宮小墾田宮に招かれ迎接をうけている。
2年前の隋使が小墾田宮を通り過ぎた三輪山の麓にある海石榴市の衢で迎えられている。その当時まだ官道が整備されていなかったと考えられており、大和川から初瀬川をさかのぼって海石榴市に上陸したものと考えられていた。古道の整備が始まったのは推古21年条の『難波から京に至る大道を置く』という記事以降だというのが従来の理解だったが、その後の発掘調査の成果から、隋使、新羅・任那使が入京した時には、大和の古道はすでに整備されていた可能性が強くなってきている。
陸路を通った場合に利用したと想定されているのは、龍田道、筋違道、保津・阪手道、下ツ道、横大路、阿倍山田道。このうち、筋違道と下ツ道の敷設年代をどのように考えるのか、そして経由した「阿斗」がどこにあるのか、今回の例会は、彼らが通った入京の道のうち、大和に入ってから小墾田宮にいたる道をさぐる。
詳しくは会報を熟読いただきたい。
「新羅・任那使が入京した道は、隋使が入京した道と同じ。龍田道で大和に入った使人は、斑鳩宮で厩戸皇子の迎接を受け、筋違道を南下して保津・阪手道に入り、隋使は海石榴市へ、新羅・任那使は阿斗河辺館へ向かった」というのが、重見先生の考え。
筋違道と下ツ道の敷設年代について
保津・阪手道は地形に沿った道であり、もともとは古墳時代前期初頭の地割にそった生活道路であったものと推測されている。難波や住吉から磐余をつなぐ経路にある道路として古来重要な道であったのであろうが、磐余に大王宮が頻繁に置かれるようになった6世紀後半に大規模な側溝をともなう道路として整備されたものと考えられる。
筋違道は保津・阪手道よりも遅れる7世紀初頭頃、推古9年(601)の斑鳩宮の造営を契機に敷設されと考えるのが妥当であり、斑鳩宮と飛鳥の宮を結ぶための最短ルートとして設定されたものと考えられる。『古今目録抄』にあるように、まさに厩戸皇子のための道路として敷設された可能性が高いが、厩戸皇子の政治的立場を考えれば、下ツ道と同等の大規模な路面幅であることが示すように、実質的には官道として整備された。また、大王宮への道路という意味では保津・阪手道と同じであるが、筋違道の規模が保津・阪手道よりも大きく直線的で、さらに下ツ道と同じ規格であるのは筋違道と下ツ道の敷設時期が近いからだろう。
「阿斗(あと)」はどこか
「阿斗」の地名は、「阿斗河辺館」のほかに『日本書紀』敏達12年条に百済の日羅を迎え入れた「阿斗桑市の館」が登場する。阿斗の候補地は田原本町阪手(旧阿刀村)と桜井市粟殿がある。粟殿(おおどの)はかつて桑内(おど)と称したという。「あとの」が「おどの」に通じやすいからであるが、粟殿には「桑ノ市」という小字が残っているのも魅力的である。「桑ノ市」には現在、奈良県桜井総合庁舎が建っている。粟殿は、隋使裴世清が迎えられた海石榴市と初瀬川を挟んだ対岸に位置する。阿斗が粟殿であれば、海石榴市を含めた一帯は外交使節を迎える場であり、宿泊する施設が集中する地域ということになる。この一帯は交通の要衝「巷」として発展した地域であり、「阿斗」の候補として申し分ない場所である。阿斗が粟殿であれば、新羅使と任那使は隋使と同じ入京ルートをとったことになる。また、新羅使の宿舎を「河辺」館と呼び、館のすぐそばを比較的規模の大きな河川が流れていたはずである。粟殿付近には初瀬川や寺川(粟原川)が存在する。
田原本町阪手の阿斗河辺館候補地には阪手北遺跡が所在するが、川がなく、飛鳥時代の顕著な遺構は今のところ確認されていない。
阪手よりも粟殿の方に分があるように思われる。
近鉄結崎駅
近鉄結崎駅に集合
斑鳩と飛鳥をつなぐ直線道路は東西南北に沿った条里地割に対して斜めに走っているから「筋違道」と呼ばれ、太子が斑鳩宮から推古天皇の豊浦宮・小墾田宮まで毎日通うために、その近道として「須知迦部路」をつくったとあるため「太子道」とも呼ばれる。
現状では、寺川が大和川から分岐するあたりから田原本町保津までの約3.6㎞は道路として残る。
筋違道、屏風杵築神社付近、伴堂へ
筋違道、伴堂へ
島の山古墳
寺川が大和川から分岐するあたりに「島の山古墳」がある。全長200m、周囲の周濠を含めた全長は265mの前方後円墳。4世紀末頃の築造。寺川と飛鳥川に挟まれた微高地北端にあり、南南東へ約1.8㎞離れた黒田大塚古墳までの間に約20基からなる三宅古墳群を形成する。筋違道はこの三宅古墳群の東側を並行する。隋、新羅、任那の使人はこの古墳群をながめていたにちがいない。盗掘を受けた後円部には竪穴式石室の存在が推定され、前方部には長さ10mの粘土槨にコウヤマキ製の木棺を安置していた。特徴的なのは、木棺を覆う粘土に133点もの鍬形石、車輪石、石釧などを張り付けていたことと、木棺を粘土で被覆する際に2500点以上の玉類をばらまいていたこと。これらは魔除けのためであろう。棺内には水銀朱がまかれ、銅鏡三枚、石製合子3点のほか、玉を連ねたネックレスとブレスレットを装着していたようである。副葬品に武器はなく、被葬者は女性だったかもしれない。また、東造出し付近では笊がみつかっている。祭祀で食物を入れたのだろう。
前方部竪穴式石室の一部とみられる石材が比売久波神社の拝殿と本殿の間、川西町立ふれあいセンター、個人宅に残されている。
島の山古墳墳丘(北から後円部)
島の山古墳墳丘(西から墳丘側面)
比売久波神社前で説明を聞く
比売久波神社
比売久波神社の拝殿と本殿の間の石
川西町立ふれあいセンターの石材(2010年6月例会時に訪問)
白山神社・杵築神社
島の山古墳を経て筋違道を南下したところが「屏風」である。『古今目録抄』よると、聖徳太子が斑鳩宮から橘寺や推古天皇の宮に通うために筋違道をつくり、その道を通う途中で屏風を立てて供御を召されたので屏風といったと伝える。筋違道の西にある白山神社には、この時に聖徳太子が腰かけて休んだという「腰掛石」があり、道を挟んだ東向かいにある杵築神社には、太子が休憩する様子を描いた絵馬(寛政五年)が奉納されている。なお、杵築神社の「屏風のおかげ踊り絵馬」(慶応四年)は県有形民俗文化財に指定されている。
屏風杵築神社前の筋違道
筋違道 屏風杵築神社
筋違道 屏風杵築神社
筋違道 屏風杵築神社
筋違道 屏風杵築神社「屏風のおかげ踊り絵馬」
筋違道 屏風杵築神社 絵馬
筋違道 白山神社
白山神社 黒駒に乗る太子像
白山神社 腰掛石
黒田大塚古墳
全長70m、周濠を含めると86mの前方後円墳。6世紀前半の築造。低地にありながら墳形をよくとどめているが、中・近世の大溝で墳丘裾が削平されている。主体部と副葬品は不明だが、周濠部付近の調査で滑石製双孔円板・滑石のほか、円筒・朝顔・笠形埴輪、笠形・鳥形木製品が出土。筋違道は黒田大塚古墳の東約20mを通っている。被葬者は倭屯田を管理した在地有力氏族と想定されている。
黒田大塚古墳、前方後円墳墳丘
黒田大塚古墳、後円部→前方部
黒田大塚古墳、解説風景
黒田廬戸宮跡伝承地・法楽寺・孝霊神社
田原本町黒田は、第7代天皇、孝霊天皇の黒田廬戸宮跡伝承地とされるが、孝霊天皇は闕史八代の一人で実在しない。闕史八代の宮は葛城と軽の地域に集中しており、蘇我氏が両地域に勢力を有していた推古朝に生み出された伝承と推測される。推古28年是歳条に厩戸皇子と蘇我馬子が天皇記、国記などを記録したとあり、この時に成立した可能性がある。黒田が孝霊天皇の宮伝承地とされたのは、筋違道沿いに屯田・屯倉が存在したことで王権に関わる伝承が生み出されたと考えられている。なお、黒田廬戸宮跡伝承地の碑は、孝霊天皇の廟所であり、聖徳太子の創建と伝わる法楽寺の南に建てられている。
孝霊神社
孝霊神社境内
法楽寺本堂
法楽寺鐘楼 戦争で供出されかかった痕跡が残る
保津・宮古遺跡
現在の遺跡地図で宮古北遺跡に含まれている第四次調査では、飛鳥時代の掘立柱建物十四棟が検出されており、7世紀中頃から7世紀末にかけての3時期の変遷が想定されている。7世紀中頃の建物の造営軸は北で東に約30度傾いているが、天武朝頃になるとほぼ正しく南北方向を向くように造り替えられている。天武朝以降の建物は総柱建物が多く、規則的な配置がとられているのが特徴であり、一般的な邸宅とは異なる。井戸や溝から出土した土器の年代も7世紀中頃~末頃のものであることから、この場所での土地利用は半世紀程度であった可能性がある。また、この傾向は西に約100m西に離れた第三次調査でも確認できる。
保津・宮古遺跡 3,4次調査地点
保津・宮古遺跡(保津・阪手道と筋違道の巷)
筋違道を踏襲した現在の道路は保津の東西道路で途切れる。この東西道路は大字宮古と保津の境界であり、また式下郡と十市郡の郡境にもなっている。この道路は、発掘調査によって古代の道路跡だということが明らかとなっていて、この道が地名区分の基準になったものと考えられている。道の名称は現在に伝わっておらず、遺跡名の「保津・阪手道」は仮称である。
この道路の痕跡を東へ追っていくと、下ツ道を横切って推古18年(610)に新羅使と任那使を安置した阿斗河辺館の推定地(田原本町阪手)を通過し、南へ緩やかに曲がりながら初瀬川に至る。さらに初瀬川に沿って進むと、推古16年(608)に隋使裴世清を迎えた海石榴市へ到達する。
筋違道西側溝の中・下層からは6世紀末~7世紀初頭頃の遺物が出土している。このことから、筋違道はその頃に敷設された可能性がある。最上層には布目瓦が含まれており、奈良時代以降に埋没している。
推古朝に遡るような土地利用はほとんど見られず、土地利用が始まるのは7世紀中頃のことである。7世紀中頃の建物群は東を向くように建てられており、7世紀後半から奈良時代には広範囲で南北方向に向くように建て替えが行われていた。当初の建物群が斜めを向いているのは、その基準が斜行する保津・阪手道である蓋然性は高いと思われるが、それに対して、7世紀中頃には存在していたはずの筋違道は建物群の造営にまったく影響していない。筋違道の敷設が古来の道や地割を踏襲したものではなく、ある時期に強制的に行われたことを示している。
保津・宮古遺跡 18次調査地点(保津・阪手道と筋違道の巷)
保津・宮古遺跡 18次調査地点で解説を聞く
羽子田遺跡(保津・阪手道)
第十六次調査では道路幅が変わる2時期の道路を確認しており、道路の付け替えが行われたことが分かっている。路面幅は古いもので約11m、新しいもので7mほどである。南側溝は古墳時代後期まで遡る可能性があり、少なくとも飛鳥時代には機能していたとみられる。側溝の付け替えがいつの時期かは不明ではあるが、いずれにせよ保津・阪手道の規模は筋違道よりも小さい。規格の違いは成立経緯の違いや時期差などと関係する可能性があり注意される。この他、羽子田遺跡では道路側溝と思われる溝が複数確認されており、現代まで踏襲される間に複数回の付け替えが行われた可能性がある。
保津・阪手道、近鉄踏切(羽子田遺跡)
羽子田遺跡で解説を聞く
保津・阪手道と下つ道の交差点
橋の向こうが阿斗河辺館候補地の阪手北遺跡
平城京左京三条二坊十四坪
今日は平城京左京三条二坊十四坪(奈良市三条大路1丁目の奈良警察署跡地)、平城京右京三条一坊一・二・七・八坪と東大寺東塔院跡で現地説明会が開催されていた。例会終了後、平城京左京三条二坊十四坪現地説明会に向かった。終了間際の15時に現地の到着。今尾課長、山田先生の説明を聞く。
出土した掘立柱建物は37棟以上を数える。井戸は10基、土坑は6基以上。井戸6は、横板を平面六角形に組んだもので、平城京内では左京三条一坊一坪で検出された例につづいて2例目。調査区北西部の大型土坑3からは、三彩瓦片38点が出土した。
佐保川の氾濫による洪水砂や洪水に起因すると考えられる整地土をはさみ、上下2時期の奈良時代の遺構面を確認。上下2面とも遺構の重複関係があったため、少なくとも5時期以上の土地利用の変遷があった。
遺跡全景
山田先生の解説
6角形の井戸
洪水の跡を示す地層