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朝日遺跡・清洲貝殻山貝塚資料館、白鳥塚古墳、青塚古墳・まほらの館、東之宮古墳、(長良川温泉泊)、象鼻山古墳、群昼飯大塚古墳、美濃国分寺跡、野古墳群

10月27日 (土) ~28日 (日) 弥生から古墳時代に、 独特なパレス土器・木製品他を生みだした濃尾平野西側を訪れる。
朝日遺跡

 愛知県清須市、名古屋市西区にまたがる朝日遺跡は、東西1.4km、南北0.8kmに及ぶ東日本最大の弥生の集落遺跡。
 吉野ヶ里遺跡発見に先立つ昭和47年、昭和4年に調査された貝塚山貝塚をよけて、名古屋環状2号線(国道302号)と清洲ジャンクションが建設されたが、そこで弥生時代の巨大な集落、数多くの住居跡、墓がみつかった。遺跡の大部分は国道と清洲ジャンクションの下にある。
 遺跡からは土器、石器、骨角器、木製品、金属器など膨大な量の出土品がみつかっている。
美しく飾られた赤い土器、細かな装飾を施した骨角製の装飾品、特別な祭器である銅鐸などの出土品は、東海地方の弥生文化を代表する重要な遺物となっている。 朝日遺跡には、弥生時代をとおして約600年にわたって人々が生活し、集落も幾度となく姿を変えた。
◆弥生時代前期(2200年前)
遺跡の南西部に小さな集落がつくらた。居住域のまわりには環濠がめぐり、集落を囲む環濠内に貝殻山貝塚など小規模な貝塚が残された。
伊勢湾周辺地域で最古段階の遠賀川系土器と最終末段階の突帯文系土器が共伴した。
◆弥生時代中期(2200~2000年前)
遺跡の規模は最も大きく、複雑になる。
谷をはさんで南北に居住域がつくられ、東と西の広い範囲に墓域が営まれた。北居住域は環濠、逆茂木、乱杭などの強固なバリケードで守られ、玉作の工房など特殊な遺構が残されている。南居住域は溝や柵によっていくつかに区画され、中央の谷には大規模な貝塚が残された。
◆弥生時代後期(2000~1700年前)
北居住域、南居住域とも環濠がめぐらされた。墓は谷をはさんだ西側のほか、居住域を囲むように営まれた。この頃、しだいに金属の道具が普及したが、北居住域では青銅器がつくられていた可能性がある。
南居住域の外側では、銅鐸を埋納した穴がみつかっている。

検見塚古墳

ジャンクション内に残る5世紀後半から6世紀初頭の円墳。
現状は直径約10m、高さ2m弱だが、外濠外径53m、内濠内径36mの2本の周濠が見つかり、墳丘径は35m程度と考えられる。
円筒埴輪が出土。

復元住居

貝殻山貝塚
南西部の周濠墓跡

愛知県清洲貝殻山貝塚資料館
志段味古墳群 白鳥塚古墳
名古屋市守山区上志段味にある『志段味古墳群』
白鳥塚(しらとりづか)古墳の墳丘形態が大和王権の大王墓と同じであることや、中社(なかやしろ)古墳・南社(みなみやしろ)古墳の古式の畿内系円筒埴輪、西大久手古墳で出土した東日本最古級の巫女(みこ)形埴輪・馬形埴輪など、発見され、近畿の大和王権との強い結びつきがうかがえる。
 白鳥塚古墳は、4世紀半ば頃に尾張で最初に登場した墳丘長100mを超える大前方後円墳で、尾張の最初の王の墓。
 古墳の平面形や白色の石英を葺石に用いているため、遠くからは白鳥のように白く見えたという。

名古屋市見晴台考古資料館木村有作氏から説明をいただく。

葺石に使われた石英片

後円部へ登る

西側周濠付近で解説を聞く
墳丘(左後円部、右前方部)
青塚古墳
 犬山市南部に位置する、墳長は123m、後円部は直径78m・高さ12mの4世紀半築造の前方後円墳。
愛知県内の古墳では断夫山古墳に次いで2番目の規模の古墳である。

愛知県埋蔵文化財センター(NPO青塚古墳史跡公園・ガイダンス施設理事長)の赤塚次郎氏の出迎えを受ける。

 後円部3段、前方部2段築成で、各段に列石が配され、これに沿って壺型埴輪が2メートル間隔で廻らされていた。円筒埴輪、鰭付朝顔埴輪、鏃形石製品が出土した。

 墳丘は現在も大縣神社の社地であり、墳丘には大荒田神が座すため立ち入り禁止。
(事前に許可をいただいて墳丘へ登る)

 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは秀吉方の砦が築かれた記録がある。

後円部から前方部の大きな方形基壇を望む。

後円部にて解説を聞く。

ガイダンス施設 埴輪

ガイダンス施設 鏡

東之宮古墳
 成田山名古屋別院の裏山、東之宮神社にある4世紀中頃の前方後方墳。
 全長約78m、後方部の幅約47m、前方部の幅約43m。
昭和48年の発掘調査により、三角縁神獣鏡5、平面鏡6、石製合子2、石釧3、鍬形石1、車輪石1等が出土。
昭和48年の調査の際、蓋石を鉄材で支えたが、時間を経て腐食の心配が出たため再調査補修中とのこと。
犬山市歴史町づくり課 渡辺樹氏から説明を受ける。

南から墳丘を望む
左前方部 右後方部

北から墳丘を望む
左後方部 右前方部
東之宮古墳登り口付近から眺めた夕暮れの犬山城
ミニ講座
友史会恒例の夕食前のミニ講座
今日ご案内いただいた樋上氏から約1時間「弥生古墳時代のおける「地域型」鍬の出現と展開」と題した講演をいただいた。
翌日は雨
鵜飼の船が並ぶ長良川
象鼻山古墳群
古墳群地図(養老町) 古墳群 編年(養老町)

 象鼻山古墳群は、岐阜県養老町の南宮山の東南端に位置する象鼻山の山頂にある墳墓群・古墳群。
 弥生時代後期から古墳時代後期(2世紀中頃から6世紀)に築造された約70基の墳墓・古墳からなる。
墳形は前方後方墳・円墳・方墳。

雨の中、山道を登る。
山道の沿いにも古墳が並ぶ。
突然視界が開け墳丘が累々と並ぶ。

15号墓

8号墓

3号墓は墳墓群では一番古い墳墓。弥生時代後期末の長方形墓で中央に円形の高まりがある上円下方墓。
写真左手前一帯が下方部テラス。写真右が中央の円形の高まり。

1号墳は標高約142mの山頂にある古墳群最大の古墳時代前期の前方後方墳。
全長約43m、後方部長23m、後方部幅26m、後方部高さ4m、前方部長18、前方部幅14m、前方部高さ3mで水銀朱で被覆した箱形木棺。
出土品は、青銅鏡(双鳳紋鏡)、玉(琴柱形石製品)、細身鉄刀、鉄刀2点、鉄剣5点、鉄槍1点。

1号墳後方部へ登る

1号墳 後方部から濃尾平野を望む

1号墳 後方部から前方部を望む

1号墳 前方部から後方部を望む

1号墳 左後方部  右前方部

1号墳 左前方部  右後方部

6号墓と後方が5号墓

7号墓と後方トイレの裏が4号墓
9号墓と左奥が4号墓
大永5年(1525)小谷城主浅井と美濃国主土岐との古戦場跡の碑が建つ
昼飯大塚古墳
赤坂総合センターにて大垣市教育委員会文化振興課中谷正和 氏から昼飯大塚古墳の説明をいただく。

昼飯大塚古墳は全長約150m、前方部長62m、後円部直径96m、高さ13mの古墳時代前期末の岐阜県最大の前方後円墳。墳丘は3段で築造され、周囲には壕を巡らせていた。

 竪穴式石室と粘土槨そして木棺直葬の3棺が確認されている。石室などは盗掘を受けていたが、滑石製の勾玉や管玉、ガラス玉、鉄剣や鉄刀など副葬品が多数見つかっている。

古墳の上からは円筒埴輪のほか、家・盾・甲胃形埴輪など豊富な形象埴輪が出土。


昼飯大塚古墳に登る


後円部からから前方部を望む。
右奥に粉糠古墳。

墳丘から粉糠(こぬか)古墳を望む(右の森)
墳丘の規模は、二段構築された後方部の辺50m、高さ4.5mで、前方部の最大幅は45m、高さ4mを測り、墳丘全長は100m。

後円部から墳丘

前方部から墳丘

前方部から墳丘
美濃国分寺跡
歴史民俗資料館にて解説を聞く

鐘楼跡

鐘楼跡に雉

塔跡の礎石

金堂跡
野古墳群
野古墳群は、岐阜県揖斐郡大野町にある5世紀 - 6世紀の古墳群。
美濃は元御野と書き、野は美濃の語源となる美濃の中心地だったかもしれない。

 野古墳群は大野町の北端、標高25メートル前後の低地に群在する大規模な古墳群。野古墳群の構成は、前方後円墳7基(モタレ古墳、不動塚古墳、南屋敷西古墳、登越古墳、南出口古墳、乾屋敷古墳、9号墳)、帆立貝式古墳の7号墳、方墳の8号墳の計9基(ほか数基は滅失)からなる。前方後円墳などが、これほど密集して築造されている事例は岐阜県下ではほかに例がなく、学術的な価値も非常に高い。

 不動塚古墳(野2号墳)は、古墳時代前期築造の2段築成の前方後円墳で、後円部に比べて前方部がかなり低く設定されている。現状では墳丘の周囲を水田や道路などにより若干の削平をうけてはいるものの良好に現存している。測量図からの推定復元によると、前方部裾部は広がらず方形がそのままついたような形状をしている。後円部については基段、上段ともに急激な傾斜をもって立ち上がり、後円部頂部は比較的広く、段築のテラス面も明瞭に遺存する。現状では、不動塚古墳からの出土品はなく、築造年代を推定するまでに至っていない。墳丘の規模は全長58m、後円部径40m、高さ6m、前方部幅13m、高さ1.5m、くびれ部幅15m、高さ 1m。

 モタレ古墳(野1号墳)は古墳時代前期築造の前方後円墳。周囲を水田に囲まれ、前方部は土地改良などで大幅に削平をうけているが、後円部の遺在状況は比較的良好で、規模も大きい。このため古墳の形状は、従来は円墳と考えられてきたが、測量調査の結果、南側に前方部が付く前方後円墳であることが判明した。また現在は野古墳群の中で北西部端にあるが、明治時代の字絵図をみると、この西にまだ古墳があったことがわかる。モタレ古墳からの出土品は現在では円筒埴輪片が知られるのみ。
 墳丘の規模は推定全長54m前後、後円部径41m、高さ6mで、前方部は削平を受けているために正確な規模は不明。

写真左 不動塚古墳(野2号墳)
写真右 モタレ古墳(野1号墳)
.登越古墳(野4号墳)
 野古墳群最大の前方後円墳。全長83m、後円部径52m、後円部高さ7.3m、前方部長42m、前方部高さ5.8m。
.南屋敷西古墳(野3号墳)
  2段築成の前期の前方後円墳。墳丘斜面には不定形の割石を用いた葺石があり、円筒埴輪列が巡る。円筒埴輪は春日井市下原古窯で焼かれたもの。
 全長76m、後円部径54m、高さ5.4m、前方部幅28m、高さ3m、くびれ部幅9m、高さ1.2m。
 南出口古墳(野5号墳)は、古墳時代前期の通称城塚と呼ばれる前方後円墳古墳。この古墳は、明治2年に石室天井石が除かれ、ここよりリュウ金獣帯鏡と呼ばれる金メッキを施した直径20.3cm舶載鏡が出土し、昭和28年には国の重要文化財に指定された。現在は東京の五島美術館所蔵。
 墳丘は後円部が小さく、また前方部も先端に片寄って段築をなくすためにくびれ部付近が細長く、低くなっている。特に前方部と後円部の比高差が激しく、遠方より眺めるとまるで円環のようにも見える。全長82m、後円部径42m、高さ7m、前方部幅31m、高さ4m。

写真左 後円部天井石
写真下 前方部から見た墳丘全景

16時20分大垣駅で解散。16時35分発米原行きか16時40分発豊橋行きで帰路につく。