中国長江下流域の古代遺跡を訪れる
2012年8月21日(火)~27日(月) 考古学研究所友史会後援 | |
行程 | |
8月21日(火) 成田空港7:50集合 全日空NH919成田9:50発/上海浦東11:55着 専用バスにて南京ヘ 状元楼大酒店(泊) 8月22日(水) 馬鞍山:朱然墓(三国朱然墓文物陳列館) →丹陽:南朝陵墓群→南京:状元楼大酒店(泊) 8月23日(木) 南京:秦淮河・孔子廟(朝の散歩) →南京:南京博物院→朝天宮 (南京市博物館 )→揚州ヘ 花園国際大酒店 8月 24日(金) 揚州博物館(新しくオープン ) →:大明寺(鑑真和上ゆかりの寺 ) →揚州城国家考古遺址公園 (唐城遺跡) →漢広陵王墓博物館 「漢倭奴国王」兄弟金印 →揚州城南門遺跡 揚州城南門近くの運河(古淮河) →揚州城 花園国際大酒店 8月25日(土) 専用バスにて無錫ヘ 無錫博物館→呉文化博物館(無錫 ) →鴻山遺跡博物館(無錫)古墳群(春秋戦国時代の呉越文化の遺跡博物館)→蘇州ヘ 竹輝飯店(泊) 8月26日(日)蘇州は2500年前の呉の都。臥薪嘗胆の故地。 盤門蘇州城(214年の水陸両門) →蘇州博物館(新館) 専用バスにて無錫の日帰り見学 東呉博物館個人収集家の博物館銅鏡銅器唐三彩青磁→蘇州旧市街河沿いの観光 竹輝飯店(泊) 8月27日(月) 専用バスにて上海浦東空港ヘ成田着の場合全日空NH920上海浦東13:10発/成田17:00着 | |
8月22日 南京から馬鞍山・丹陽・南京へ戻る | |
![]() | 夫子廟は、孔子を祭っている場所であるが, 南京の有数な歓楽街 |
馬鞍山:朱然墓 | |
![]() | 安徽省馬鞍山市(長江中流、南京より西南49km)は、三国時代は呉の丹楊郡に属し、市内采石鎭は三国時代の牛渚折で、呉の魏に対する重要軍鎭であった。 朱然は後漢末光和5年(182)に丹陽故郷に生まれ、もとは施姓であったが、親族の末氏の嗣子になった。呉になって孫権と同学であったので、年19才で余姚長となり、後に山陰令、折中校尉、臨川郡太守にうつり、鏡の南下を防ぐのに功あり、偏将軍となり、関羽をとらえる功で昭武将軍・西安卿侯になり、ついで江陵を守り、征北将軍・永安侯になった。呉になっても軍で活躍し、数多く功を治め左大司馬右軍師になった。赤鳥12年(249)に69才で死亡。 朱然墓は馬鞍山市南部の雨山の南約1000mの地にある。封丘はすでにほとんどなくなっていた。墓は南向きで墓坑上部で南北9.52m、東西3.62m、深さ3.6m。 この中に磚築の墓室は前室と過道と後室があり、前・後室に黒漆塗りの木棺が1棺ずつあり、後室の木棺のそばに副葬品が多く、朱然の棺と思われる。 副葬品は140個以上あり、漆木器(盤・案・漆硯箱・脇几・尺・刺〔名刺〕・謁など)青磁器(碗・盤・盞・盆・罐・壷・香炉・灯など)陶器(罐・盆・銚斗・井・磨・鴨・豚など)銅器(炉・熨斗・水注・鏡)がみられる。 銅鏡6000件あり、半両・五銖・ 貨泉・直百五銖・定平1百などがある。 |
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![]() | 朱然の墓 |
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![]() | 朱然の家族の墓 |
丹陽南朝陵墓群 | |
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南朝の帝王陵墓の大部分は南京附近であるが、それ以外、丹陽・江寧・句容でもみられる。今回はこの中の丹陽附近を見学する。 六朝の陵墓は独特の埋葬制度と芸術的特色を持っている。 1. 同族の墓中埋葬 2.埋葬地の「風水」はすべて山を背にし、平原を前にする形につくられる。 3.造営方法は規格化されていて ①埋葬地を選ぶ ②墓坑を掘る ③墓室を磚で築造する ④棺と副葬品を墓室に入れる ⑤入口を封閉する ⑥最後に墓の正面部に建築物を建て、桟道に石刻・石碑・石柱をたてる。 丹陽にある梁文帝蕭順之の建陵は石刻が最も多く、石獣一対・石柱一対・石碑一対・石礎(方形)一対かある。墓磚には文様がつけられる。銭文、幾何文、蕉葉文、雲雷文、花文、画像文などがあり、画像文の中で有名なのは、南京西善橋の南朝初期の墓にあった「竹林七賢」図である。 『宋書』倭国伝によると、南朝宋には、倭王讃が、413,421,425年、珍が438年、済が443,451,460年、興が462,477年にそれぞれ朝貢しており、武は479年に上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求め、順帝は武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」としている。 『南斉書』倭国伝には、479年(建元1)南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進め、 『梁書』武帝紀には、502年(天監1)に梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進めるとの記述がある。 | |
30建陵 | |
![]() | 梁の武帝蕭衍(しょうえん在位:502年 - 549年)の父、蕭順之(しょうじゅんし)の陵墓。 蕭順之は南斉の初代皇帝高帝に可愛がられたが、2代目の武帝に敬遠され、宰相などの要職につくことができなかった。 彼の子供、蕭衍は南斉を滅ぼして、梁を建国し、父に文帝という諡号を贈り、建陵を築造した。 全部で11箇所ある丹陽の石刻は、建陵以外すべて神獣だけだが、建陵は、麒麟と天禄のほかに、石柱2柱、亀趺(亀の形をした石碑の土台部分)2個がある。 |
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31修陵 | |
![]() | 梁の初代皇帝武帝、蕭衍(しょうえん)の陵墓。 天禄1頭だけが残されている。 武帝は南斉の蕭宝巻(東昏侯)打倒の兵を挙げ、都の建康に軍を進めて東昏侯を殺害し、和帝の禅譲を受け、502年(天監元年)南朝3番目の国家、梁を建国した。 建国後は質素倹約を旨とし、学校の設置、人材の登用、租税の軽減などので施政の実績をあげたといわれている。晩年は自ら仏典の注釈書を著わすなど、仏教に埋没して政務がおろそかになり、何度も出家して「皇帝菩薩」と呼ばれる。在位48年は南朝歴代皇帝中最長で、85歳の長寿。 侯景の乱により建康が陥落した後、幽閉され餓死。 南京には、武帝の弟の石刻が5箇所も残されている。 |
32簡文帝蕭綱陵 | |
![]() | 簡文帝蕭綱は南朝梁の第2代皇帝(在位549年 - 551年)。晋安王に封ぜられていたが、兄蕭統(昭明太子)の死により皇太子に立てられる。侯景の乱により建康が陥落した後、549年に侯景により皇帝に即けられる。政治の実権は完全に侯景に握られており、単なる傀儡に過ぎなかった。 551年8月、侯景を討とうとする王族たちの軍に敗北して戻ってきた侯景は、簡文帝を廃して元の晋安王とするとともに、皇太子を始めとする簡文帝の子供たちをみな抹殺し、昭明太子の孫で簡文帝の大甥にあたるまだ幼い予章王蕭棟を位に就けた。 2ヶ月後、晋安王蕭綱は侯景の手の者によって身体の上に大量の土嚢を積まれ、圧死させられた。 |
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29興安陵 | |
![]() | 南斉の第5代皇帝明帝、蕭鸞(しょうらんめいてい 在位452年 - 498年)の陵墓で、麒麟と天禄が残されている。 但し天禄は損傷が激しく、ほとんど原形をとどめていない。 蕭鸞は両親が早世したため、叔父の南斉の初代高帝に育てられ、皇族内で強い影響力を持つ。 蕭鸞の従兄、第2代皇帝武帝の死後、跡を継いだ年若い皇帝蕭昭業および弟の蕭昭文を次つぎに廃帝(殺害)にし、自らが第5代皇帝に就任。有能だったが猜疑心が強く、即位後に武帝の子孫を全員誅殺してしまう。 明帝の跡を継いだ長男の蕭宝巻(東昏侯 とうこんこう)は、明帝の遺言により6人の重臣を殺害し独裁体制を作ると奸臣を近づけ、民衆から収奪して享楽的な生活を送った。 蕭衍(のちの梁の武帝)が、蕭宝巻の弟で荊州刺史の蕭宝融(和帝)を奉じて挙兵。蕭宝巻は、衛兵に殺害され廃帝となる。 |
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33陵口 | |
南朝の斉から梁の初めにかけて、何人かの皇帝が南京から100キロほど離れた丹陽で生まれたため、この地にも皇帝陵が築造された。蕭梁河の北側に、丹陽に現存する全ての石刻が残されている。 当時の都、建康(今の南京)から、墓参りに丹陽を訪れるには、多くの人が運河を利用したので、運河を利用して陵墓参拝にやってきた人々のために、陵墓が近いことを示す標識として、蕭梁河の両側に大きな石獣、麒麟と天禄が設置された。 これらの石獣のある場所は、皇帝陵の入り口に位置しているため、陵の入り口、すなわち陵口と呼ばれ、今も町の名として使われている。 石刻は、蕭梁河から少し離れた京杭運河沿いの、麒麟は公園の端、天禄は対岸の工場の片隅に移設されている。 | |
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南朝葬儀風景の想像図 | |
南朝葬儀風景の想像図 「中国古代の風景⑩六朝時代の陵墓」 (『歴史群像JN0.17,1995年2月)より | |
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①大帳…背後に山をひかえた場所を墓地に選ぶことは、先秦時代から行なわれていた。戦国時代の諸国の王墓には、明らかに背後の山を意識して墓地が選定されたものがある。秦の始皇帝陵は、背後ではないが、近くに山がせまり、山岳との一体感が感じられる。洛陽市の東で発見された晋武帝司馬炎の峻陽陵も北に高い岩山があり、これまた山に寄せて墓地を構えた例である。 ②来龍・・・墓のすぐ後ろに横たわる丘で、椅子の背もたれに似た役割をもつ。後方の大帳から嶺がつながっている場合が多く、そのような状況を風水師は、「龍脈が通っている」と表現する。来龍の位置は龍脈の末端にあたり、龍脈が露出して、子孫繁栄、富貴永年を保証する霊気が発散していると考えられた。 ③砂…末龍から左右に分かれ、墓地を囲む尾根を砂といった。それを四神になぞらえ、前方に向かって左の砂を青龍で右砂を白虎ということもあった。砂によって挟まれる谷の奥に墓を営むことは、ほとんどすべての六朝陵墓に共通している点である。 ④墳丘…谷奥中央の斜面削り、横から見てL字形の墓坑を掘削したのち、その中に大量のレンガを積んでドーム状の墓室を築いて埋めもどし、円い墳丘を盛りあげる。墳丘の前方は開けられて、埋葬の時まで墓室の入り口が見えていた。墓門には石製の扉がつき、その上には人字形の建材(蟇股)を浮き彫りにした石板がはめ込まれた。これは皇帝や王侯たちのシンボルである ⑤葬列…皇帝の亡骸を納めた木造りの棺は、天蓋のついた輿に乗せて墓室へと運ばれる。棺の前後には鼓吹隊がついて、葬送の曲を奏で、女たちは道端で哀哭の儀を行なった。列の後方には副葬品をいれた輿がつづき、納棺の後、つぎつぎと墓室に供養品を満たしていった。 ⑥神道・・・谷筋を通り、墓門へと向かう参道を神道という。神道の真下には墓室から谷の開口部にいたるまで延々と暗渠が埋設され、墓室に溜まった水はその中を通って外部へと流れ出た。 ⑦陵園…陵の占有地を区画した施設。秦代や前漢時代には、城のように頑丈な土塀をめぐらせて陵園を保護したのだが、後漢時代の皇帝陵では行馬という木製の垣根で代用したという。六朝陵墓の農園もそのような簡素な施設で仕切られ、そのラインは地形に沿って曲がりくねっていた。 ⑧神門…谷の開口部に設けられた陵園の門。門前には神道を挟むように石刻が立てられた。門のすぐ前には階段かスロープが付設されていたらしく、その両側に当てた石(耳石)が発見されている。 ⑨神道石刻…一般には獣の彫刻と石柱だけで構成されるが、最も完備したものでは、前方から獣・石碑・柱・石碑の順に八つの石刻がならべられた。獣は麒麟と獅子のニ種があり、皇帝陵には麒麟、王侯墓には獅子という厳格な区別があった。石碑は亀の形をした石座(亀趺)の上に立てられ、碑文には墓主の功績が記された。石柱は華表ともいう。珠を食む虎に、似た奇怪な獣が向かい合った石座、上’方゛墓主の名を記した石板が彫り出さ’れた柱身、蓮華をかたどった天蓋から なり、天蓋の上には小型の獅子が置かれた。 ⑩菩提寺…南北朝時代は仏教の隆盛期で、陵墓こも仏教的要素が採り入れられ、かつての祭祀施設は仏寺に置き換えられた。陵への参拝は運河が使われ、埋葬の時も、船に棺を乗せて運んだのであろう。 | |
8月23日 南京:秦淮河・孔子廟(朝の散歩) →南京:南京博物院→朝天宮 (南京市博物館 )→揚州ヘ 花園国際大酒店 | |
南京市内 秦淮河江南貢院 | |
![]() | 呉の孫権ははじめ武昌(湖北咢卩城)に都を定めたが、長江の流れで江岸が崩落することかあり、より安全な少し下流の南京に都をおくことにする(黄竜元年〔229〕)。 この地は伝説では春秋時代末に呉正夫差が築いた「治城」にはじまるとされる。更に越が「越城」を、楚国が「金陵邑」を築き、ここに城がつくられた。 孫権は「建業」と称し、東晋からは「建康」と改称した。『建康実録』(唐の許嵩著)では「城周廿里十九歩」宮城は「周約八里」で、はじめはみな上墻竹籬(土壁・竹垣)であったが、東晋末に1部に磚が使用され、南斉には全体に磚築にかわり、梁では三重の宮城壁になった。 建康周辺の軍事的なとりでや附廓城がみられ、その中で最も有名なのは都城西面の長江沿いにある石頭城である。「金陵邑」の旧基上につくられ、磚瓦をかさね、山を城壁とし、江を城濠とし た険固で怪異な地勢で、中に倉城があり、軍用器械や糧食物資をたくわえていた。ここはまた呉の水軍の駐屯地で船舶千艘が停泊できた。 夫子廟が中心で、「秦淮風光景区」を作っている。 |
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![]() | 江南貢院は 宋朝により建築された科挙の試験場であり、最盛期には中国最大の科挙試験場となった。ここから輩出された官人としては唐伯虎、鄭板橋、呉敬梓、施耐庵、 翁同龢、呉承恩、李鴻章などがいる。 |
南京博物館 | |
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朝天宮南京市博物館 | |
![]() | 江南地方に現存する明清代の古建築では最大規模である。 明代に文武百官がここで朝廷での礼儀を学んだので「朝天宮」と呼ばれる。 |
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8月24日 揚州 | |
揚州博物館 | |
![]() | 集合写真 |
大明寺 | |
大明寺は唐代の高僧,鑑真和尚の寺。 1500年,清朝の皇帝『大明』2字の扁額を嫌うと言う理由から『法乗寺』と改称。 1980年鑑真和尚の坐像が里帰り,佛教協会の開催にあたり『大明寺』と復古された。 | |
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![]() | 大明寺門 |
![]() | 栖霊塔 隋の時代に建てられた九重の塔が始まり。鑑真がこの寺の住職をしていた頃、李白や白居易らの唐時代の有名な詩人たちの漢詩の中にも栖霊塔が出てくる。 唐代に火事で焼失し、その後宋の時代に再建された栖霊塔も明代の末期に戦乱で消失。 1996年に再建された九重の塔は高さ70m。 |
大雄宝殿内の仏像 | |
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1973 年に完成した鑑真記念堂。 鑑真の逝去 1200 周年を記念して唐の建築様式で建てられた。 | 遣唐使船の模型 |
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揚州唐城遺跡 | |
![]() | 揚州の唐城遺跡は唐代の衙城遺跡で、隋煬帝行官の旧跡である。 今は土の城壁、城門、そして城壁周囲のお堀、やぐらがまだ現存している。 揚州と広陵王陵 揚州(広陵)は春秋時代後期に呉王夫差が城を築いて以来の城で、東晋時代には謝安 (東晋中期の政治家、泥水の戦いで勝利の立役者)が守りを固めたことがある。恒温(東晋中期の将軍)が広陵城を築いた。磚築の城壁で文字磚もみられる。この城は漢の広陵王の城の基礎の上に再建されたもののようである。 唐代揚州城の衛門が調査された。南門は水陸交通の要衝にあたり、東側に甕城(壅門)がある。これは城門を防衛するためにその外側に小方形(甕形)の門がこいのことである。 西側には水門がある。これはブン(さんずいに文)河につながる水門と水関からなる。唐代南門甕城は雨期にわたる修理が行われている。 |
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広陵王陵劉荊墓 | |
![]() | 揚州の西北約12kmのウ(おおざとに于)江甘泉鎮に広陵王陵がある。東西に二墓がならび東側の2号墓から福岡志賀島出土「漢委奴国王」金印と兄弟印と思われる「広陵王璽」金印が出土した。 |
1981年2月、江蘇省邦江県で「広陵王璽」と刻する金印が発見された。この金金印は、わが国の志賀島発見の金印と1年ちがいでつくられたとも考えられるので、両者を比較研究することによって、倭国研究に大きな貢猷があると思われるので、いくつかの問題について紹介してみたい。(杉本憲司先生) 1 金印の発見された古墓 揚州の西北約12kmに位置するウ江県甘泉鎮の北西郊に東西にならぶ2つの大墓があり、「双山」とよばれている。西墓(1号墓)は1975年に採土工事にともなって調査がおこなわれている。金印をだした東墓(2号墓)は1980年春に調査がおこなわれた。2号墓は現存で、直径約60m、高さ13m前後のかたくつきかためられた墳丘がある。墓室は墳丘の中央に、磚築でつくられ、その墓室座は附近の地面より2m前後高くなっている。墓室は平面がほぼ方形(南北8.8m、東西9.6m)で、南に墓ロかおり、甬道は塼で封閉されていた。墓室は前室・2つの棺室と廻廊とからなり棺室内の棺などの葬具はすでに朽ちて残っていないが、棺室が2つ並んであるところから、夫婦墓ではないかと報告者は考えている。墓室内は盗掘によりあらされ、副葬品は完全に残っていないが、現存のもので泥質灰陶の明器(鼎、壺、盒、盆、杵臼、炉、竈、猪圈、建物、博山炉など)、釉陶壷、磁器罐、青銅器(牛形灯、雁足灯、盒形灯、博山炉、熨斗、帯鈎、銅印〔陰刻篆文で「長楽無極」と刻される。一辺が2.4cm〕、竜頭形の器柄、鋪首銜環、五銖銭)、鉄器(炉、剣、金鞘書刀〔額は漆を塗られた木製の額の上に雲母がはられ、その外側を巻雲文の透し彫りのある金でおおっている〕、鏡〔漆奩内にあり〕)、金器(各種の形をした装飾品、水晶をはめた金指輪、前述の鞘など)、銀腕、漆器(方形の大奩内の上段に絹織物でつつまれた教諭、下段に九箇の小形盒が入れられた化粧用具入れ。そのほかに盤・耳杯・箱などの残欠あり)、玉器など(玉人、真珠、玉珠、玉管、虎紐瑪瑙印〔刻宇なし。2.7cm四方で、陝西咸陽で発見された「皇后之璽」に形は似ている〕など)、ガラス器片(ソーダガラスで暗藍色をしている)が出土している。残された副葬品をみる限りでは相当立派なものが副葬されていたことが想像される。 さて問題の金印であるが、実は墓室内から出土したのではなく、墓から約200mはなれたところにつまれていた、2号墓の乱掘坑内から取りだした土や塼の山から、1981年2月偶然に発見されたのである。この点から一等の資料でないが、この墓から出土したと考えてもほとんどまちがいのない準一等の資料としてよい。 この墓は構造の面から見て、後漢時代初期に比定されている、河南省南陽附近の大墓のものと非常に良く似ている。たとえば南陽楊官寺画像石墓と唐河県針織廠の画像石墓は墓室を構築している材料に塼と石のちがいがあるが、墓門、前室、二棺室、棺室をめぐる廻廊状の部屋からなっている点は全く同じ形式である。 出土した雁足灯の台に、「山陽邸銅雁足鐙建武廿八年造比十二」の17字が刻され、金印の文字と共に、この墓の被葬者、年代を者える上で書要な手がかりを年えてくれる。「建武」という年号は6回使用されているが、38年のあるのは後漢光武帝の時だけで、墓の構造からみる年代とも合較する。次に山陽公になった者を、光武帝の建武年間でもとめると、『後漢害』光武十王列伝にみえる光武情劉秀の第9子の劉荊がそれにあたることがわかる。『後漢書』光武帝紀下と合せてみると、劉荊は建武15(39)年夏4月に山陽公に封ぜられ、17年には爵を進めて山陽王になっている。その後劉荊は光武帝が崩ずるまで山陽王にあったので、この雁兄灯は山陽王の邸内で使用するものとして建武28(52)年につくられたことがわかる。さて劉荊なる人は不人情でひそかに人を害するようなところがあり、父、光武帝が崩じた時(中元2〔57〕年)にも、陵謀をたくらみ、次の皇帝になった同服の兄である明帝を困らしている。次年の永平元年にはまた西羌の反乱を利用して陵謀をたくらもうとしたので、ついに皇帝は山陽王から広陵王に徙封して、且つ都から遠くはなすために広陵国につかせてしまう。しかしこの後も兄皇帝の思いやりをはからず、相変らず陰謀をはかり、ついに請誅をうけ、永年10(67)年3月に自殺してしまうことになる。 墓の年代、遺物からみてこの墓に葬られた人は、この広陵王劉荊以外の者は考えられないので、墓誌銘など直接に墓の主人を明示するものがないが、劉荊とその夫人であるとしてほぼまちがいがないと思う。 2 金印 報告によると縦金製で、精巧に鋳造されている。印面は縦横それぞれ2・三センチの正方形で、台高は0.9cmある。鈕は亀鈕で、高さが2.1cmあり、重致は123グラムをかぞえる。印面には写真でみるかぎりであるが薬研彫りで、「広陵王璽」の四字が陰刻されている。この金印は劉荊が広陵王に封ぜられた、永平元(58)年8月に皇帝より贈られたもので、『後漢書』輿服志下に引かれる徐広の注に「太子致諸王金印、亀鈕、クン朱綬」とあるに合致する。 とこで志賀島の金印とすこし比較しておこう。岡崎敬氏の測定によると、印面は正方形で各1辺の長さにごくわずかの差があるが平均値で3.347cmある。台高も各角でごくわずかの差があるが、平均値で0.887cmある。「広陵王璽」金印の測定は、「漢委奴国王」金印ほど精害な器具による測定でないと思われるので、それを割引いて両金印を比較すると、印面、台高の数値はほぼ同じ大きさと考えてよい。鈕の部公は亀鈕と蛇鈕であるので大きさの比較はできないので略す。 ところで「漢書奴国王」金印は、『後漢書』光武帝紀下と、東夷伝倭の条によると、光武帝の中元2(57)年、春正月に、漢の奴国の自づがらは大夫と称する使い者が、貢物を持って朝賀に来たのに封して、光武帝が印綬を賜ったとあるものにちがいない。 光武帝の崩ずる1月前のことである。「広陵王璽」金印は、前述の如く劉荊が広陵王に封ぜられた永平元(58)年に賜ったものであるならば、1年ちがいでこの両金印がつくられたものであり、印面の大きさも同じであり、文字の彫り方も写真でみるがぎりでは、両面より薬研彫りにほられ、底部がさらわれていることがら、現物による比較はまたおこなわれていないが、同一の人の手でつくられた可能性が充分にありうる。これによって「漢委奴国王」の金印は孤例ではなく、兄弟の金印があることになった。 両者の金印でことなるのは鈕の部分で、「広陵王璽」金印が亀鈕であることは、前述の如く徐広の説に合致するが、衛宏の『漢旧儀』(『初学記』に引用されたもの)にみえる、「諸侯王印、黄金駱駝鈕、文日璽」とは、鈕がことなっている。印文に「璽」のある点は合致する。これでは駱駝鈕とされるが、いままでのところ、駱駝鈕の金印は晋代のものであるが、内蒙古自治区涼城県沙虎子溝がら出土した「晋烏丸義候」、「晋鮮卑帰義候」、銀印では「晋鮮卑率善中郎将」の印銘をもつものがあるだけで、これはすべて北方系の民族に対するものであるし、また、皇帝の璽が虎鈕であるほが、皇后以下の皇太子、列侯、二千石の官の印が亀鈕とあることがらみて、『漢旧儀』の伝えにまちがいがあるのがも知れない。 次に「漢委奴国王」金印の蛇紐についてはすでに多くの人がのべているので、ここではくわしくはいわないが、いままで発見された蛇鈕の印が、雲南省晋寧県石塞山古墓出土の前漢武帝時代に比定される「漢王之印」金印をはじめとして、少し時代が下る魏・晋時代の蛇鈕印もすべて、南方の蛮夷にあたえられたものであることが注目される。 3 王国について 志賀島の金印は倭の奴国王におくられた金印で、その奴国とは、『三国志』魏書漢人伝にみえる「対馬」、「末盧」、「伊都」国の次にある「奴国」であてるべきとする説はほぼまちがいがないと思われ、その地は北九州の那珂川流域の福岡平野が考えられる。 それではこの奴国王が支配した国とはどれほどの規模をもったものかと考える一助として、漢代の王国と、その中の一つである広陵国について簡単にのべてみたい。前漢時代、高祖は天下を統一すると部分的に封建制度を回復して郡国制度をおこない、功臣・一族を諸侯王(王と略称される)と列侯(徹候・通候ともいわれ、候と略称される)として封建している,王は数郡数十県に及ぶ大きな封土を国としてあたえられ、その国内の統治権は王がにぎり、中央政府とぽぼ両じ独立した官僚機構があった。しがし周代の封建制とはことなり中央の皇帝権による規制があった。高祖は異姓の王を次第に同姓の王にかえ、景帝時代独立化した王国連合が反乱をおこしたいわゆる呉楚七国の乱を契機として、その規制はさらに強まり、王国・侯国の独立化は失なわれ、中央集権化が完成していったのは武帝の時である。これ以降の王国は小国化し、大国でも十余城に、小候では数十里に過ぎないという状態になった。このようなことが前漢時代が終るまでおこなわれ、後漢時代になっても、それがうけつがれさらに封土が小さくなっていき、王の封土も一郡をこすものがなくなっている。 王に封建される者は前漢では皇族、功臣であったが、後漢では、すべて光武帝劉秀の同族である南陽春陵の劉氏一族と、彼の皇子たちだけであった。さて広陵王に封ぜられた者をみると、先づ前漢では武帝の皇子胥が元狩六(前11七)年封ぜられたのがはじめて、それ以後一時的な断絶かあるが続き、王莽の時にいたって廃せられている(『漢書』 諸侯王表)。後漢になると前述したように、光武帝の皇子荊が広陵王に封ぜられた。後、荊が罪ありて自殺し子供の元寿が永平14(71)年に広陵候に封ぜられるが、これは王でなかった。しかし明帝は元寿を特に厚く遇し、王の璽綬を服することを認め、父の荊が封ぜられていた王国の6県をうけている。また元寿の弟3人が卿候に封ぜられたり、元寿兄弟が皇帝に特に召されたり、器物輿馬を賜ったりしている。このような明帝との関係が荊が罪ありて自殺したにもかかわらず、その墓の副葬品が豪華であることを説明してくれると思う。 広陵国の範囲はどれくらいあったのかについてみておこう。『漢書』地理志下二によれば、広陵、江都、高郵、平安の4県からなり、また同書にのせられた元始2(2)年の統計によると、戸数は3万6773戸、人口は14万722人を数えることができる。労カンの「天漢面積之合計及口数増減之推測」(中央研究院歴史語言研究所集刊第五本二分、1935) 参考文献(文中にあげたものは略す) 南京博物院「江蘇カン江甘泉2号漢墓」『文物』1981年1期 岡崎敬「「漢委奴国王」金印の測定」『史淵』100号1968年 | |
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![]() | 金印の印影 |
![]() | 劉荊墓 |
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![]() | 劉荊夫人墓 |
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揚州南門遺跡 | |
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南門近くの運河 | |
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揚州東門 | |
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8月25日 揚州から無錫・蘇州へ | |
無錫博物館 | |
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鴻山遺跡博物館(無錫) | |
![]() | 江蘇省無鴻市鴻山鎮東部に土トン(土変異敦墓が百墓ちかくあるが、これは戦国時代の越国の貴族を中心とした墓地である。特大の墓は長方形の墳丘(長68.2m幅40.6m封土高3.95m)の中に竪穴墓坑をほり、その中に皇室(皇道、墓室、後室)をつくっている。出土品は盗掘にあっているのですべてが残っていないが、それでも1000点を超えている。それは青磁器(青銅器を模したもの=鼎・豆・壷・三足壷・罍(さかだる)・罐・はんぞう・鑑・三足盆・盤・冰酒器・温酒器・虎子など)楽器(磬・鐘・句罐・錞于・振鐸など)陶器(瓮・罐・盆・角形器・盤蛇玲琉球形器など)玉器などが出土している。 |
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8月26日 蘇州 | |
蘇州城盤門 | |
![]() | 蘇州城の築城は紀元前214年だが、その頃の蘇州は地勢が低いため、よく水浸しになった。それを改善するために、町を縦横に流れる用水路を掘り、その土で道路をつくりながら、蘇州古城の基本的な配置を行ったという。現在残っている宋時代の「平江図」(地図)をみると当時とほぼ同じで、市内の通りや橋、城門などの名称も変わっていない。 現在の盤門は1351年に改築されたもの。かつては東西南北に2門ずつ計8門あったそうだが現存するのは1ケ所のみである。 その盤門は、城壁と運河を組み合わせたものであり、しかも、水路と道路が平行して道られた独特のもの。中国で唯一といってもよい珍しい水陸両門である。 城内には、2001年APECの会場となった四瑞堂をはじめ、宋時代に建てられた瑞光塔や京杭大運河に架けられた呉門橋があり、盤門と共に「盤門三景」として訪れる人たちのカメラアング ルとしても人気が高い。 |
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蘇州博物館 | |
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東呉博物館 | |
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蘇州旧市街 | |
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