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河田山古墳群→小松埋蔵文化財センタ→秋常山古墳群→御経塚遺跡→雨の宮古墳・能登王墓ノ館→真脇遺跡・真脇縄文館(縄文初期~晩期)

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河田山古墳群
河田山古墳群(こうたやま)古墳群が見えてくる。
中央の丸い山が1号墳。
 河田山古墳群は、古墳時代の前期(4世紀)から終末期(7世紀)にかけて築造された古墳群である。梯川流域の平野をのぞむ6つの尾根上に、前期から中期(5世紀)を中心とした古墳が多数つくられていました。弥生時代以来、梯(かけはし)川右岸から鍋谷川周辺の平野部で扁作を営み、成長してきた集落首長たちの墓域と考えられている。
  東部産業振興団地(現国府台)の造成に伴う調査で発見された古墳は、前方後円墳2基、前方後方墳2基、方墳35基、円墳21基、不明2基の計62基におよぶ。そのうち、9基の古墳が、団地造成計画の変更などにより、現状のまま保存された。
 この古墳公園には、河田山古墳群のなかでも最初に造られたグループに属する河田山1号墳(前方後方墳)と、終末期に属する切石積横穴式石室をもつ9号墳と12号墳(方墳.)が保存されている。12号墳はエ事範囲に含まれていたものであるが、その石室が全国的にも貴重な発見であったことから、公園内に移設して、見学できるように墳丘を復元整備さてれいる。
 河田山古墳群史跡資料館には、古墳群の発掘調査で出土した12号墳とは別の尾根・発見されたもう一つの切石積横穴式石室、33号墳が移築展示されている。(小松市立河田山古墳群資料館資料より抜粋)

資料館館長の説明で重要文化財指定記念特別展「八日市地方遺跡から越(コシ)の国へ」第2会場を見学
移築展示された33号墳
12号墳
 この古墳は、7世紀後半飛鳥時代にあたるものである。内部の埋葬施設に凝灰岩製の切石積横穴式石室と呼ばれる精巧な石室と、北陸の古墳で初めて確認された外護列石を墳丘前面に配する特異な施設をもっている。また、天井部がアーチ状になっている特微から、朝鮮半島と繋がりをもつ有力者の墓と考えられている。
 この12号墳の石室が移築され、墳丘が復元されて古墳公園となっており、石室内部を見ることができる。石川県で最も大きな横穴式石室である。(小松市立河田山古墳群資料館資料より抜粋)
1号墳
 前方部が撥状に開く前期古墳の特長を持つ全長約25mの前方後方墳。
 前方部幅約14m、後方部はわずかに横長で幅15m。
小松市埋蔵文化財センタ
 重要文化財指定記念特別展「八日市地方遺跡から越(コシ)の国へ」第1会場を見学

上 学芸員に熱心に質問する参加者
左 遺物調査の現場を見学

出発時には学芸員の方にお見送りいただきました。
秋常山古墳群
  秋常山1号墳は全長約140mの前方後円墳である。昭和59年(1984)に発見され、平成5年(1993)から平成19年(2007)にかけて発掘調査を行った結果、後円部最大径約110 m 、高さ約20m、前方部長約45mを測る3段築成の前方後円墳てあることがわかった。その規模は石川県最大、北陸地方においても福井県坂井市六呂瀬山1号墳と並び最大級となる。
  墳丘築造にあたっては、ほぼ南北方向に伸びる丘陵尾根を削り出して成形し、丘陵が低い東側を中心に土を盛っている。また、上から1段目と2段目の墳丘斜面には手取川の河原石を利用した「葺石」を施している。
  2段目東側の後円部と前方部が接続する場所には「造出」と呼ばれる平坦な高まりがあったと想定され、赤く塗った小型の土師器(高杯)が出土している。
 築造時期は古墳の形や出土した土器から4世紀後半頃と考えられる。
(能美市立歴史民俗資料館資料より抜粋)
1号墳

2段目と後方は2号墳

後円部に登る

墳丘全体 右が前方部
2号墳
 秋常山2号墳は、南北約27m、東西約32酒m、高さは東側で約4.8m、西側で約2.8mの方墳である。
 発掘調査ては、墳頂部や斜面から円筒埴輪と朝顔形埴輪の破片が多く出土しており、出土状況から墳頂部の周囲に並べられていたと推測される。埴輪を持つ古墳は能美市内で初めての発見。
 また、墳丘の西側裾から鎧、繋、鉄斧などの鉄製工具と砥石がまとまって出土している。
 埋葬施設は、木棺を粘土で覆う「粘土槨」であったことがわかりました。北側を頭にして、頭部付近には刀子・針・竪櫛・滑石製目玉、足部の両側には鉄刀を1本ずつ副葬していた。
 造られた時期は埴輪や副葬品から5世紀半ば頃と考えられる.古墳のさまざまな特徴から、1号墳の披葬者と関連があり、生前に祭祀の場で活躍した人物の姿が想像される。
(能美市立歴史民俗資料館資料より抜粋)

上 墳丘
左 粘土槨

左 1号墳後円部   右 2号墳
御経塚遺跡

 御経塚遺跡は、野々市町北西部にある縄文時代後期~晩期(3,500~2,300年前)の大規模な集落遺跡である。
 集落は、中心部に祀り(まつり)に使われた広場をもち、広場の周りには、竪穴建物跡が並んでいる。最近の調査では、金沢市チカモリ遺跡で発見された巨大木柱列と同じような、穴が円形にめぐる遺構もいくつか確認されている。遺跡からは、1万点近くのたくさんの土器や石器が出土しました。土器は、食べ物を煮炊きするための深鉢や入れ物に使用した浅鉢などが見つかった。石器は、狩りの時に矢の先につけた石鏃(せきぞく)や土掘りに使った打製石斧(だせいせきふ)、ヒスイ製の玉類、御物石器(ぎょぶつせっき)や石棒(せきぼう)をはじめとする祀りの道具など多彩なものが見つかっている。特に御物石器、石棒など祭祀遺物は1遺跡の出土量としては全国的にみても大変多く、縄文人の信仰心の厚さをうかがい知ることができる。この遺跡は、縄文時代の生活や文化を知る上で大変貴重であることから、昭和52年に国の史跡に指定されました。現在、約15,000㎡が史跡公園として整備され、竪穴建物を復元し、縄文の集落を体感することができる。 また、公園の隣には、御経塚遺跡をはじめ町内の発掘調査で出土した考古資料を展示公開している「野々市町ふるさと歴史館」が併設されている。
(石川県埋蔵文化財センター資料より抜粋)

雨の宮古墳群
 雨の宮古墳群は、能登の穀倉、邑知(おうち)地溝平野を眼下に見る眉丈山脈の最高所、「雷が峰(らいがみね)」(標高188m)を中心とする尾根筋に並ぶ古墳群てある。前方後方墳1基、前方復円墳1基、方墳1巻、円墳33基、合計36基からなる。
2基の大型古墳を中心とする雨の宮古墳群は、立地、墳丘の形などから、4世紀後半から5世紀初期につくられたと考えられ、能登国初期の首長墓にふさわしいものである。(中能登町教育委員会より抜粋)
5,6,7号墳
 5,6、7号墳がつながる。
いずれも2号墳より後に作られ、7号墳→5号墳→6号墳の順に作られている。5号墳は直径約.13m、高さ約2mの円墳である。中央に長さ約5m、幅約1.5mの木棺を直接地面に埋めた痕跡が確認されたが、副葬品は残っていなかった。
 6号墳は直径約72m、高さ約2mの円墳である。裾を丸く仕上げるために5号墳を少し削って作っている。中央に長さ約4m、幅約2.3mの、木棺を直接地面に埋めた痕跡が確認されている。
 7号墳は直径約8m、高さ約1mの円墳。5号墳が重なっているために築造当時の姿はよく分からない。中央に盗掘坑が掘られており、棺が埋められた痕跡は、一部壊されていたが、幅は約1.5mであったことだけは確認できた。(中能登町教育委員会資料より抜粋)
2号墳
 2号墳は、1号墳の北東50mに並ぶ。自然地形をたくみに利用した2段築造の前方復円墳である。1号墳と同じく葺石をもつ、1号墳と併行する主軸で全長65mを測り、前方部は1号墳と相対し両者向き合う姿となっている。(中能登町教育委員会資料より抜粋)

2号墳前方部から後円部を望む。右奥が5号墳

1号墳から望む2号墳。手前は36号墳
1号墳
 1号墳は雷が峰を後方部とする2段築造の前方後方墳で、墳丘全面が葺石で覆われている。主軸をほぼ東西におき、全長約64m、後方部の高さ約8mを測る。前方部には通称「雨の宮」・天日陰比咩神社があるが、社殿を建てる際、墳丘の一部が削られ板状の安山岩も露われていた。後方部は古くから太鼓打場や相撲場となっていた。(中能登町教育委員会資料より抜粋)

2号墳から望む1号墳

後方部から望む前方部

前方部から眺めた2号墳墳丘
17号墳
 17号墳は、直径約16m、高さ約1.5mの円墳である。 墳丘は狭い尾根を幅1.5~2mの溝で断ち切って作り出している。この溝の埋まり方などから、1号墳よりも先に作られていたようである。
 墳頂平坦面の東寄りには、安山岩の板石で積み上げられた小規模な竪穴式石室が作られていました。石室は北側を頭に長さ3.7m、幅1.5mの規模で、大きめの板石8枚程度で蓋をしたものであった。内部については、調査を実施していないので分からないが、埋葬された当時の姿がそのまま残っているものとみられる。(中能登町教育委員会資料より抜粋)
雨の宮能登王墓の館
 雨の宮能登王墓の館には1号墳出土品と1号墳粘土槨の実物大模型展示されている。
 夕刻の到着にもかかわらず中能登町町長のお出迎えを受ける。
出発時にはすっかり日が暮れきれいな三日月が見えた。
ミニ講座

西藤館長の挨拶のあと、谷内尾(やちお)晋司氏(前石川県埋蔵文化財センター所長)の「石川の遺跡」のミニ講座



集合写真
真脇遺跡

 真脇遺跡は石川県能登町字真脇にある、北陸最大級の縄文時代遺跡である。
富山湾に臨み、三方を丘陵に囲まれた小さな入り江の奥の沖積平野に位置している。
 以前より土師遺跡が存在し、平安時代末期の古文書にもその名が見られることから、古い歴史をもつ土地として知られていたが、中・近世の地層の下から縄文時代の地層が発見され、縄文時代の遺跡であることがわかった。
 1989年には国指定史跡となり、1991年には出土遺物のうち219点が国の重要文化財に指定されている。
 真脇遺跡はいくつかの点で非常に特徴的な遺跡である。
遺跡からは通常は残りにくい木製品や、動物の骨、植物の種子などが非常に良好な状態で出土しました。とくに前期末葉から中期初頭にかけての地層から出土した大量のイルカの骨は、縄文時代の人々の食生活を明らかにする大きなヒントとなっている。
 そして縄文時代前期初頭から晩期終末のものまで途切れることなく遺物・遺構が出土していることから、およそ4000年もの間この地で人々が継続的に生活していたということが伺える。このような遺跡は全国的にも非常にまれである。
 墓穴の中に板を敷いてから遺体を埋葬した「板敷き土壙墓」や、まったく同じ場所で6回も炉を作りかえていた「貼床住居址」は真脇遺跡以外にはまったく類例がない。
 クリの丸太を半分に割り円形に並べて立てられた「環状木柱列」は石川県金沢市の新保本チカモリ遺跡や富山県小矢部市の桜町遺跡などからも見つかっているが、北陸独特のものであり、真脇遺跡で見つかったものも非常に重要なものである。
 遺物では、イルカ骨と一緒に出土したトーテムポールのような木柱が、イルカ漁に関する儀式に用いられた可能性が考えられるとして注目されている。また、“おさかな土器”の愛称で親しまれている真脇式土器は、真脇遺跡の調査で初めて全形がわかった土器である。北陸独特の土器であるが、同時期に似た土器が関東や、遠くは秋田県のあたりまで出土しており、縄文人の交流の様子をうかがわせてくれる。(能登町資料より抜粋)

縄文館館長と唐川氏
縄文館館長の案内で遺跡を廻る。

北側から遺跡全景
板敷土壙墓
 板敷土壙墓は中期の住居址の近くから発見された。時期も住居址とほぼ同じである。墓は全部で4つあり、それぞれの墓穴に板が敷かれていたことから「板敷土壙墓(いたじきどこうぼ)」と名づけられた。全国でも類例の無い、真脇遺跡だけで確認された形態のお墓で板敷土壙墓が発見された地層には凝灰岩質の粘土が一面に敷き詰められていた。中期前葉から中葉にかけて、真脇の人々は砂地だったこの土地を大々的に整地し、ムラの形を整えていたのである。この粘土は住居址の床に貼られていたものと同じ粘土である。
 4つの土壙墓はそれぞれ東西南北の四方向に配置され、楕円形をした土壙の向きも南北あるいは東西に統一されていて非常に規格性が高いものである。また土壙自体が一般的なものよりも大きく丁寧に作られていて、この4つの墓が特別な人を埋葬した墓であったことが伺える。
敷かれていた板はスギ材が主でしたがクリやアスナロも認められた。当時ノコギリやカンナも無かった時代に「板」を作るのは大変な作業であったと思われる。そのようなものを被葬者の亡骸の下に敷く、という行為からもこの墓がいかに特別だったかがわかる。
 整地層との関連もふまえ、彼らはムラづくりのリーダーたちだったのではないかと考えられている。出土した板の年代分析から4つの墓のうち最も新しいものと最も古いものとの間には200年ほどの年代差がある。4人のリーダーの下で、何世代かにわたってムラづくりが行われていたことの表れといえる。
 3号土坑墓からは人骨も出土した。(ほとんど土と同化していたため土壙全体を室内に持ち込み調査したとのこと)。
屈葬で埋葬されており、胸には赤色漆塗りのペンダントをつけていた。壮年期(20代~30代)の男性と考えられる。
 さらにこの板敷き土壙墓のすぐ南から木柱の列が発見されました。この柱列は、居住域と土壙墓のある聖域を分ける意味を持っていたと考えられている。またこの木柱列の列の方向が冬至の日没の方向を指している可能性も指摘されている。
その他この土壙墓調査時の調査区からは、石棒や土偶、そして人形のペンダント、滑石製の耳飾や玉など日用品ではない特殊な遺物が出土したことからもこの場所がムラの聖域であったことがわかる。(能登町資料より抜粋)
環状木柱列
 真脇遺跡では晩期の地層から巨大な柱の列が出土している。これを環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)と呼ぶ。
 直径90cm以上のものから小さいものでは30~50cmくらいのものまで、巨大な柱が真円配置で、線対称形に並べて立てられていた。環状木柱列は縄文時代晩期の北陸地方だけに出土する特殊な遺構である。これらの木柱列はいくつかの特徴的な要素を持っている。
 使っている木材はすべて丈夫で腐りにくいクリの木で統一されている。どの柱も丸太ではなく、かまぼこ状に割られている。しかもまったく半分に割るのではなく、木の中心の芯の部分を除いてあり、その柱は平らな面を外側にして立てられている。
 また、円形に並んだ柱の中には入り口と見られる施設が作られている。柱とは別の扉状のものを付けるものもあれば、簡素なものではその部分の柱をハの字状に開いて立てているものもある。
 さらに特徴的なのは、この環状木柱列が同じ場所で何度も立て替えられているということである。真脇遺跡では少なくとも6回の立て替えが認められた。この木柱列が立てられていた場所は縄文人にとって「聖なる場所」だったのかもしれない。
 現在同様の構造物は石川、富山、新潟の16遺跡で見つかっている。これらの地域では土器などの他の遺物の特徴も共通するといわれており、縄文時代晩期の北陸地方に、同じ思想を持った人たちの集団が暮らしていたということが伺える。(能登町資料より抜粋)
縄文館
縄文館を見学
遺跡の隣に廃線となった「のと鉄道」縄文真脇駅舎が残る。
帰路
帰路 千里浜なぎさドライブウェイを走る。

名神高速の渋滞に巻きこまれ京都着は1.5時間以上遅れて19時半を過ぎていた。