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山代の里・二子塚古墳→八雲立つ風土記の丘・岡田山古墳→神原神社古墳→加茂岩倉遺跡→荒神谷遺跡・資料館→宍道湖温泉すいてんかく(泊 ミニ講座)→田和山遺跡→出雲弥生の森博物館・西谷古墳群→県立古代出雲歴史博物館

 10月23日(土) 山代の里・二子塚古墳→ 八雲立つ風土記の丘・岡田山古墳→神原神社古墳
           →加茂岩倉遺跡荒神谷遺跡・資料館→宍道湖温泉すいてんかく(泊 ミニ講座)
    24日(日)  田和山遺跡出雲弥生の森博物館・西谷古墳群→県立古代出雲歴史博物館
山代二子塚古墳
山代二子塚古墳は松江市山代町に所在する西日本最大級の前方後方墳である。南西部には一辺約 42mの大庭鶏塚 (方墳)があり、東側には 45mx40mの規模を持つ山代方墳が隡接して築かれている。山代二子塚古墳は全長約94mの規模をもつ2段築成の古墳で、主軸は東西方向を示す。後方部は約 1/3が明治 40年代に陸軍歩兵第 63連隊の射的場設置時に削りとられているが、調査等から長さ57m、幅 53m、比高 8mあまりの規模を持っていたものと考えられている。くびれ部の幅は約 33mで前方に向かって開いて伸び、前方部先端の幅は約55mあまりを計る。前方部最高所の比高は約 7mで、全体的に均整のとれた整美な古墳である。周溝は地山の三瓶木次降下軽石層を掘り込み、その下方にあるマンガンバンドの固い平坦面を意識的に溝底にしたところが多く、溝底の標高は後方部側が最も高く、前方部が1.7mあまり低くなっている。溝底幅は後方部北側で 9.0mを計り、前方部側では 4.5mと狭くなっている。このように周溝は深さ、幅、形状に統一性が見られないが、標高が高い後方部側はしっかりした溝を持ち、周溝を含めた全長は104mである。また、北側くびれ部には葬送儀礼に関連したと考えられる後方部項上方向に登っていく道状の盛土が調査で確ㄆされている。周溝の外側には若干の高まりが見られることから溝のまわりに 20m前後の幅を持つ長方形の外堀がめぐっていたものと推測されており、外堤を含めた総長は 150mあまりになる。山代二子塚古墳は微高地状の台地を利用して築造している。現在までの調査結果から築造方法を検討してみると、まず、地山を削り出して(後方部のみ確認)墳丘1段目の平面形を整え、後方部上面の外側に浅い溝をめぐらし、溝の内側に盛り土をして墳丘 2段目を築成している。溝と盛り土の間にはやや大きめな石を張付けており墳丘が崩壊しないよう工夫されている。また、葺石は盛り土がなされている墳丘2段目のみ施されているのも注目される。なお、後方部には地下レーダーの調査で主軸に直行する横穴式石室の存在が指摘されている。今までの調査で周溝内及び墳丘裾から円筒埴輪や須恵器が出土している。円筒埴輪は口縁部向かってやや開く3段タガの付くもので、胴部には円形のスカシが施されている。この円筒埴輪は山陰須恵器編年Ⅱ期の時期である向山西 2号墳出土埴輪よりは新しく、横穴式石室を持っている岡田山1号項より古いと考えられている。また、周溝の中から検出した須恵器にはⅢ期でも古いタイプの蓋杯片があることから山代二子塚古墳の築造時期は、山陰須恵器編年のⅡ期新~Ⅲ期古段階に位置付けられ、6世紀の中葉前後の時期と推定されている。なお、古墳の全域から子持須恵器が出土しているが、その中に親壷の底がないいわゆる「出雲型子持壷」の祖形になると思われるものが含まれていることは興味深い。
山代二子塚古墳は、古墳時代後期初頭に出雲東部を政治的に支配していた大首長の墓と考えられており、付近に存在している鶏塚古墳や山代方墳とともに、この地域は出雲の古代史を解明する上に極めて重要なところで、今後の調査、研究が期待されるところである。
(埋蔵文化財調査センター 川原和人)
ガイダンス 山代の郷
日本で唯一の墳丘盛土の見学施設
古墳の後方部の削られた壁面に表れている人工的に積まれた土層を見学する施設である。この古墳は 1500年前に多数の人々が土砂を運んで造ったもので、土層の一筊一筊が古代人の労働の結晶である。見学施設の広さは約 130㎡、土層面以外の 3方の壁面には山代二子塚古墳や周辺の遺跡に関するパネル展示のほか、近くの向山 1号墳の出雲地方独特の「石棺式石室」が再現展示されている。(ガイダンス山代の郷パンフレットより抜粋)
山代方墳
山代二子塚古墳の東側には 45mx40mの規模を持つ山代方墳が隣接して築かれている。
大庭鶏塚
山代二子塚古墳の南西部には一辺約 42mの大庭鶏塚 (方墳)が築かれている。
八雲立つ風土記の丘
八雲立つ風土記の丘一帯は、古代出雲の中心地で、数多くの遺跡が残されている。展示学習館から半径 2㎞の円内に、出雲国国府跡、出雲囻分寺跡、囻分尼寺跡、また意宇六社と呼ばれる神社もあって、文化財の一大宝庫である。尚、展示学習館には、近くの岡田山 1号墳から出土した「額田部臣」銘文入大刀(重要文化財)も展示されている。
(風土記の丘パンフレットより抜粋)
岡田山1号墳
風土記の丘展示学習館の近くには、岡田山 1号墳・岡田山 2号墳がある。岡田山 1号墳は、前方後方墳で墳長 24m、( 6世紀後半)石室内部の様子を見学することが出来る。「額田部臣」銘文入り大刀出土。
(風土記の丘パンフレットより抜粋)
岡田山2号墳
岡田山 2号墳は、直径約 44mの円墳、築造は 1号墳より古く 5世紀ごろ、発掘調査は行われていない。
(風土記の丘パンフレットより抜粋)
神原神社古墳
大原盆地を流れる赤川左岸の微高地突端にあり、墳丘上には『出雲国風土記』にみえる武内神原神社の本殿が建っていた。墳丘はたびかさなる社殿の増改築によってかなりの変形を受けていたが、墳麓の調査によって南北 34m、東西 30m、高さ 3mの方墳であることが判明した。墳丘の築成にあたっては、微高地の自然地形を利用して北側の墳裾を除く三辺に 3m~7mの溝をめぐらし、その上に多量の盛り土を施して墳丘を整えている。
狭長な竪穴式石室を内部構造とし、その築造年代は石室の構造、副葬品の組み合せ、出土土器の型式などから 4世紀中頃と推定される。
一般にわが国の古墳は、 3世紀末ないし 4世紀初頭に機内地方で発生したものといわれているが、山陰地方ではこれよりやや遅れ、 4世紀中頃から古墳の築造が始まったとみられている。
古墳の出現はいわゆる初期大和朝廷の成立と密接な関係があり、また地方における古墳文化の成立は、その初期大和朝廷の政治支配圏の拡大過程を通じて形成されたものと理解されている。とすれば、神原神社古墳はまさにそうした日本古代史上の重要な胎動期に当面するものであり、全囻的にも注目すべき存在の一つといわねばならない。しかも、多量の鉄製武器・農工具と兯に発見された景初 3年銘の三角縁神獣鏡は邪馬台囻の女王卑弥呼が景初 3年に親王より授った 100枚のうちの 1枚とみられるもので、一体、この鏡を神原神社古墳の被葬者がどのようなルートで入手したのか、これは単に出雲における古墳文化の形成にとどまらず、ひろく日本古代国家の成立過程にも関連する重要な問題である。
(雲南市教育委員会発行神原神社古墳パンフレットより)

写真 上中 移築された神原古墳
写真下 神原神社
加茂岩倉遺跡
1996年 10月 14日、大原郡加茂町大字岩倉において、農業用道路建設工事中に発見され、幸い工事関係者の機転により、遺構(銅鐸を埋めた穴=埋納坑)の一部と 2組 4個の銅鐸が原状の形で残った。39個の銅鐸が埋紌されていた地点は、標高 138mの丘陵中腹斜面。水田からの比高は 18mを測る。現在の岩倉の集落から離れた谷の奥に位置している。神庭荒神谷遺跡の場合と異なり、遺跡からの眺望はあまりよくない。何故このような場所を選んだのであろうか。岩倉は「磐座」(神か降りてくる岩)を意味すると考えられる。实際、岩倉地域内には巨岩が散在しているし、「大岩頭」「大岩尻」という小字名もあり、「青銅器埋納」「巨岩祭祀」そして「地名」との有機的関係をうかがわせる。
荒神谷遺跡
1984年 7月、宍道湖南岸に近い簸川郡斐川町荒神谷遺跡で、日本中を驚かす大発見があった。
弥生時代の銅剣の当時国内発見総数が約 300本であったが、それを上回る数の 358本が1固所から出土したのだ。
場所は人里から離れた丘陵の尾根下の斜面(標高 28m)。ここに人工的に埋められていた。すべて刃を起こした形で、西側から 34本、 111本、120本、93本と 4列にきちんと並べられていた。
遺跡の発見は实にラッキー極まりないものであった。まず、宍道湖岸の丘陵地に沿う大型農業用道路新設に伴う஦前現地踏査に端を発した。建設予定地内に遺跡がある
か否かを肉眼観察しながら歩いていた専門職員の一人が、丘陵すその水田から古墳時代の須恵器の破片を一個採集した。
たとえ 1個でも遺物が拾えたという事は、付近に遺跡が存在して
いることを暗示する信号である。
そこで、辺り一帯の丘陵地と水田に、合計 22本のトレンチを掘ってみた。すると、そのうち 1本が見事に 3列目の端に当たった。そのトレンチがもう 50㎝ずれていたら、〝世紀の発見″はあり得なかった。偶然とは言え、まさかの発見につながる場所にトレンチを設定していた。
水天閣ミニ講座
田和山遺跡
弥生時代の出雲には、盛んに青銅器祭りが行われ、そして大量の青銅器が埋納される頃、何とも不可思議な田和山遺跡が存在する。三重の環壕によって厳重に守られた山頂には、わずか 2棟の建物。一般的に環壕の中にあって守るべき集落が環壕の外にある。何としてでも守りたい聖地であったのか。
集合写真
西谷墳墓群
西谷墳墓群は、出雲平野を見下ろす標高 40メートル前後の小高い丘の上にある。 1953年の発見以来、これまでに弥生時代から古墳時代にかけての 32基の墳墓と横穴墓群が確ㄆされている。うち四隅突出型墳丘墓は、 1、2、3、4、6、9号墓の 6基である。これらからは、墳丘を飾る複雑な配石構造や高度な土木技術を駆使した墓上建造物、他地域のものを含む大量の土器や、他に例の尐ない珍しい副葬品の数々などが発見されており、西日本各地の王と交渉を行い、貴重な産品や新しい技術、情報を掌握することによって民衆にㄆめられた「王」の活躍の片鱗をうかがい知ることができる。いわば「王墓の丘」であるこの地には、遙か 1800年前、出雲の地に登場した「王」とその一族が眠っている。
6基の四隅突出型墳丘墓の墳丘規模には、 60メートルを超える 9号墓、 50メートルを超える 2号墓、 3号墓といった大型のものがある一方、 20メートル前後と考えられる 1号墓などのように、小型のものも見つかっている。また、墳丘規模の大きなものほど、墳丘裾の立石・敶石構造が複雑であることが指摘されている。このことは、四隅突出型墳丘墓の中でも階層差があったことを示唆するものである。
50メートルを超える巨大墳丘を持つ 3号墓には、少なくとも 8基の埋葬施設があることが知られている。 3号墓の主、つまり「王」の眠るところは、第 4埋葬施設と呼ばれる墳丘のほぼ中央にある埋葬施設だと考えられている。遺体を納めた木棺をさらに外箱(木槨)で保護する手の込んだ構造や、木棺内に敶き詰められた多量の水銀朱、埋葬後の儀礼で使われたと思われる大量の土器や建造物の存在などが他の埋葬施設を凌駕するからだ。
当時の最高水準の土木技術者が指揮を執り、大勢の民衆の労働力を墳丘築造につぎ込んだ特別な墓造りの様子、手厚い王の埋葬方法、大規模な墓上での葬送儀礼の様子を垣間見ることができよう。
<島根県立古代出雲歴史博物館発行「弥生王墓誕生」による>

写真上から
 4号墳
 3号墳
 2号墳
 手前から4,5,6号墳