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武漢黄鶴楼→長江南岸嘴→湖北省隋州博物館→曽侯乙墓→盤龍城遺跡博物館→盤龍城遺跡→荊州博物館鳳凰山168号漢墓→荊州城→紀南城→東湖→湖北省博物館(編鐘演奏)→馬王堆漢墓→湖南省博物館→長沙市間牘博物館(特別見学)→長沙博物館(象鼻嘴一号漢墓)→首都博物館→北京大学考古博学院

盤龍城遺跡 長沙市間牘博物館
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関西空港
 
武漢黄鶴楼
黄鶴楼は、中国の「江南三大名楼」の一つ現在の黄鶴楼は1985年に再建されたものである。

催顥 (さいこう)作 漢詩      

昔人已乗黄鶴去 此地空余黄鶴楼
黄鶴一去不復返 白雲千載空悠悠
晴川歴歴漢陽樹 芳草萋萋鸚鵡州
日暮郷関何処是 煙波江上使人愁

昔人(仙人) 已に黄鶴に乗りて去り
此の地 空しく余す黄鶴楼
黄鶴一たび去つて復た返らず
白雲 千載 空しく悠悠
晴川歴歴たり 漢陽の樹
芳草萋萋たり 鸚鵡洲
日暮 郷関 何れの処か是なる
煙波 江上 人をして愁えしむ


 
南岸嘴
武漢市漢江南岸嘴
 
湖北省隋州博物館 曽侯乙墓
1978年に発掘された戦国時代前期の墓。「曽」の君主「乙」は紀元前433年亡くなったと記されている。
4つの墓室から構成される竪穴式木槨墓で、二重の漆塗り木棺と、殉葬された21人の女性の棺、膨大な量の青銅製礼器、楽器、漆器などが発見された。
ここを有名にしたのは65個からなる編鐘(セットにした鐘)である。これは先秦時代最大規模の編鐘で、L字形の漆塗りの架(鐘を懸けるもの)と共に出土した。他の楽器には漆塗りの琴や笛の類などがある。また青銅製礼器は、整然と並べられた状態で発見されたが、なかには古代中国青銅器のうちで第2番目に重い大尊缶(重さ 327.5kg)や、繁辱なほど複雑な装飾を持つ尊盤、方鑑缶など、この時代の青銅器美術の粋を示すものがあった。曽国は春秋戦国時代の大国である楚と密接な関係をもっていた国で、青銅器にも楚の影響が顕著である。


写真左上 竪穴式木槨墓模型
写真左中 漆塗り木棺
写真左下 大尊缶
写真下  編鐘
 
曽侯乙墓
 
盤龍城遺跡博物館
武漢市東北にある盤龍湖付近の丘の上から発見された、殷代の城郭都市遺跡。

長江流域で発見されている唯一の殷(商)代の都市遺跡であり、商の初期の中心地河南省鄭州市付近で栄えた二里岡文化との結びつきが強く、黄河流域の二里岡文化がその絶頂期に遠く離れた長江沿岸にまで達していたことを示す。
盤龍城の集落は全体で1平方kmという大きな都市にまで成長する。多くの青銅器が出土しており、銅の出土が少なかった二里岡文化が、長江中流の銅山や銅資源を確保するため、盤龍城に前哨あるいは植民地を築いたとみられている。

盤龍城後期の地層の発掘結果からは、二里岡文化の後期以降の様式は見られず、この時期に二里岡文化が長江付近から退場したと見られる。
盤龍城は以後緩やかに衰退し二里岡文化の終焉とともに放棄された。

二里岡文化(BC1600年頃-BC1400年頃)
中国の黄河中流から下流を中心に栄えた青銅器時代の文化。河南省鄭州市で1951年に発見された二里岡遺跡からその名をとっている。
 
盤龍城遺跡
 
荊州博物館
越王勾践の剣
 
鳳凰山168号漢墓
 
荊州城
 
紀南城
戦国楚の都城郢の遺跡。
紀元前689年から前278年の間の411年間、戦国楚の都が置かれたところ。東西 4.5km、南北3.6kmあり、ほぼ正方形をしている。
城壁は崩れてしまっていて、土手となっている。
 
東湖
 
湖北省博物館 編鐘演奏
 
新幹線
 
ミニ講座
 
馬王堆漢墓
馬王堆漢墓は3基の墓から成る。

出土した「ダイ(車ヘンに大)侯之印」「長沙丞相」「利蒼」の3つの印章と「十二年二月乙巳楚朔戊辰(漢文帝12年(紀元前168年)2月24日)」の木簡から被葬者と埋葬時期が判明。

2号墓が長沙国の丞相ダイ侯利蒼、1号墓が利蒼夫人辛追、3号墓がその子供の墓。

1号墓は、直径約30m、地面から約40m掘り下げて表面は約16mの盛り土から覆う。
墓道、墓坑と墓室から構成された長方形の竪穴で、北向き。

写真左上、中 公開されている3号墓
写真左下 2号墓
写真下  1号墓


 
湖南省博物館
馬王堆漢墓模型
利蒼夫人辛追遺体
副葬品
 
長沙市間牘博物館
 
長沙市間牘博物館 特別見学
 
象鼻嘴一号漢墓
 
首都博物館
 
北京大学考古博学院
金牛山人骨(28万年前)