青島→青州(せいしゅう)青州博物館→臨湽(りんし)(古車博物館、四王塚、足球博物館、斉国歴史博物館、晏子(嬰)の墓、桓公台→章丘(しょうきゅう)(城子崖(じょうしがい)遺址博物館、城子崖遺址西城墻発掘現場)→済南(さいなん)(山東省博物館、黄河)→徐州(徐州博物館、漢兵馬俑博物館、水下(みずのした)兵馬俑、獅子山(ししざん)、西(前)漢楚王墓、漢画像石芸術館(新館・旧館)、亀山(きざん)漢墓)→臨沂(りんき)(臨沂市博物館、王義(おうぎ)之故居公園内の洗硯池、西晋墓、、銀雀山(ぎんじゃくざん)漢墓竹簡博物館)→沂南(きなん)(沂南漢画像石墓)→青島(小魚山(しょうぎょざん)公園、石老人(せきろうじん)海水浴場、青島画像塼陳列館)
第7回世界遺跡の旅 ![]() 6月19日~26日の八日間、中国・黄河下流域をめぐる考古学の旅に参加した。団長の菅谷文則先生をはじめ全員が関空に勢ぞろいし、順調なフライトで予定通り青島(チンタオ)に着陸。いずれの訪問先もこの旅の目的に沿った充実した場所が、目一杯に企画されており、参加者全員が期待に胸を膨らませていた。 団長は菅谷文則先生、周知のように橿考研指導研究員、滋賀県立大学名誉教授、北京大学客員教授などの要職にある。北京大学に留学の経験も持っておられ、日本・中国の考古学・歴史学の権威であり、過去、現地を何度も訪れ、この地の研究にも多くの実績をもっておられる。当然この地の研究者との親交も豊富であり、ましてや中国の学者の話をわれわれにも分かりやすく、楽々と通訳してくださる、中国語のオーソリティーでもある。 私たちは大船に乗ったように無心に研修に集中できる。心強く、うれしい限りである。 私たちのコースは、専用バスで、青島→青州(せいしゅう)【龍興寺跡から出土した、ガンダーラからのものをはじめ、多くの北魏石仏を備えた青州博物館】→臨湽(りんし)【西周の紀元前859年に斉(せい)の献公がここに遷都し春秋時代の紀元前221年に秦の始皇帝に滅ぼされるまでの都斉国故城で古車博物館、田氏(でんし)斉(せい)の四代の墓といわれる四王塚、蹴鞠の元祖という足球博物館(意外なことに、ここで沂源(きげん)猿人の頭蓋骨化石が展示してあった)、斉国歴史博物館、晏子(嬰)の墓、東周殉馬坑、春秋五覇の第一人者かんこう桓公が諸侯と会見したと伝えられる桓公台】→章丘(しょうきゅう)【龍山文化の発見地として世界的に有名な城子崖(じょうしがい)遺址博物館・城子崖遺址西城墻発掘現場】→済南(さいなん)【山東省博物館、黄河】→徐州【徐州博物館、漢兵馬俑博物館、水下(みずのした)兵馬俑、獅子山(ししざん)西(前)漢楚王墓、漢画像石芸術館(新館・旧館)、亀山(きざん)漢墓】→臨沂(りんき)【臨沂市博物館、王義(おうぎ)之故居公園内の洗硯池西晋墓、『孫子(そんし)兵法』『孫臏(そんびん)兵法』『六韜(りくとう)』『管子(かんし)』『晏子(あんし)』『墨子(ぼくし)』などの竹簡が衝撃的に出土した銀雀山(ぎんじゃくざん)漢墓竹簡博物館】→沂南(きなん)【沂南漢画像石墓】→日照市(市博物館改装工事中で、他の青島の陳列館見学にふり替わり、通過となったが)→青島【ドイツ風の建物などが残る旧市街などが望める小魚山(しょうぎょざん)公園、石老人(せきろうじん)海水浴場、青島画像塼陳列館】と、山東半島を、秦の始皇帝以来、天下を大統一した歴代の皇帝がその偉業を天の神に報告する「封禅(ほうぜん)」の儀式をおこなったという、泰山(たいざん)を軸に、反時計回りにほぼ一周して青島に戻る。途中、徐州だけは山東省をとびだし、江蘇省に出入りする。大観光地でもある泰山へは日時を要することもあり、やや目的を異にしているため、私たちは立ち寄ることはない。 見学した遺跡や博物館は数が多く、各内容も膨大で、限られた紙数のなかでは詳細を書き上げることはできない、HPなどを通じてみなさまに報告できれば幸いであります。 旧石器時代の沂源(きげん)猿人(北京原人よりやや進化したという原人)の影をわずかながら見、新石器時代の北辛(ほくしん)文化・大汶口(だいぶんこう)文化・龍山(りゅうざん)文化、歴史時代に入って商(殷)の遺物、周時代・戦国春秋時代の斉国の遺跡・遺物、西(前)漢時代・東(後)漢時代の遺跡・遺物、その後の時代の遺物など、ほんとうに数多くをみることができた。また、どこの遺跡・博物館でも圧倒的に多くの資料があり、ともすれば、許容の少ない私の頭脳から溢れだしてしまう。 田斉の四代威(い)王の墓といわれる四王塚の一つへは全員で汗をしてのぼった。世界的に知られる龍山文化発見の地、城子崖遺址西城墻発掘現場では4000~4500年前の城壁を手でじかに触り、大汶河岸の大汶口遺跡を車中から遠望し感激したり、漢墓に入り、あまりの大きさと構造の複雑さ(二つもの厠まである)と精巧さに驚いたり、漢画像石画の見事さに見入り、そのテーマやストーリーの解説を受けたり、とにかく、見るもの、しるもの、考えるもの、感動するものはいくらでもあった。ただ、圧倒的なボリュウムの前に詳細で丹念な観察をするには、無理とはわかっても、時間がもっとほしい。それに、私たちの精神力や体力が続くかの心配もあったのだが。 毎朝八時半出発、夕食時までの見学、車中では菅谷先生のタイムリーな一言講座、辻田氏の中国語の勉強、現地案内人で山東大学博士課程で研究中の劉さんによる、しっかりした日本語での、象形文字の初源、甲骨文・金石文の解説。毎夕食後の菅谷先生を中心にしたミーティング、臨湽のホテルで一室を借りきった菅谷先生の特別講座。平均睡眠時間約5時間、寝る間もおしんでの8日間であった。 済南で現在の黄河を見た、地図の上で、河口までは西北西に300㎞はあるであろう。徐州で旧黄河を渡った、ここかも河口まで200㎞はあるであろう。黄河の決壊は歴史上、自然のもの、人為的なものが何百回も知られている。鄭州や開封あたりで決壊すると、高地の山東半島を挟み、北西の渤海または南西の黄海のどちらかに流れ出ざるを得ない。河口の振れ幅は数百㎞にのぼる。「ある日、利根川の上流が決壊し、突然、河口が大阪湾に変わるようなものだ。氾濫によっての被害の程度は想像もできない」と、だれかが、あまり適切とは思えない冗談をいった。中国は土地も河も歴史も雄大である。駆けめぐった八日間であったが大陸の尻尾の一部を垣間見ただけかもしれない。 わが島国にも、海をわたって、また、半島を経由して細々ながら2000年にわたり伝わった文明、文化の源泉はまさにここ、中国黄河流域にある。中国を少しだけでも知ることが日本の考古学を知るうえで欠かせない。卑弥呼の時代から手あつく来訪者をもてなし続けた中国は、いまも健在である。 青島に戻って、風光明媚な湾岸に、緑の海藻が絨毯のように押寄せているのにびっくり、ここは奥林匹克(オリンピック)のセーリング会場、大変なことになっている。海上には千百隻の船、海岸線に沿って重機や人力での除去が、懸命になされている。会期までに間に合えばいいのに「中国がんばれ!」思わずつぶやいてしまった。 青島でのサヨナラパーティーもすませ、いっそう親密さを増した仲間たちと無事帰国。とたんに、また、中国に行きたくなった。飛机(飛行機)の往復距離約2800㎞、バスでの移動約1650㎞でした。今回、またも図録を8㎏買ってしまった。自分用の土産に買って帰った美しいレプリカの黒陶袋足鬹(くろとうたいそくき)、戦国末から前漢初めと教えられた「長生無極」の文字軒丸瓦を思い出とし、自室に置いた。 今回の旅では、菅谷先生はじめ多くの方々のお世話になった。 海外旅行担当運営委員。同行して担当に協力していただいた、他の委員。企画からご助言をいただいた松田真一館長。同行できなかったが事前・事後の諸問題に対処していただいた全運営委員の方々に感謝したい。 豊富な経験と完全な中国語をもとに、細心の心遣いで、楽しく安全に案内していただいた㈱国際交流サービス・辻田社長。現地ガイドの劉さん、高さん、徐州の徐さんにも謝意を表したい。(中村鴻三) | |||
6/19(木) 関空→青島 青州→臨淄 | |||
青州博物館 | |||
![]() | 青州博物館は1996年に確認された龍興寺址の窖蔵から発掘された北魏から北斉の石仏大小およそ400体を中心に展示。 博物館の中庭 正面建物が展示館 | ||
![]() | 石仏は薄い衣が身体に密着し、衣を通して身体の線がわかる、仏像の表面は彩色され、正面から見るために背面は薄い。 | ||
![]() | 龍興寺址の仏像出土地点。写真左手のレンガ塀の樹木の向こうから出土。現在はグラウンドになっている。 | ||
6/20(金) 臨淄(りんし) | |||
中国古車博物館 | |||
![]() | 中国古車博物館は高速道路の建設で発見された、春秋時代の殉車馬を展示。 | ||
![]() | 入口で説明を受ける。 | ||
出土状態で保存展示 | |||
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四王塚 | |||
![]() | 四王塚は、斉国の威王、宣王、閔王、襄王の四王陵、小山のような古墳 | ||
![]() | 威王陵に登る | ||
![]() | 威王陵墓頂より斉候剡、桓公午の二王陵を見る | ||
世界足球博物館 | |||
![]() | 臨淄はサッカー発祥の地としてFIFAも認知 博物館入口 | ||
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斉国歴史博物館 | |||
斉国歴史博物館は、紀元前859年以降前221年に秦が斉を滅ぼすまで春秋戦国時代に臨淄に都した強国斉国の国都である斉国故城の出土品を中心に展示。 | |||
![]() | 博物館入口 | ||
菅谷先生の説明 | 戦国時代の戦いのパノラマ | ||
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晏嬰(あんえい)墓 | |||
![]() | 晏嬰(あんえい)は、春秋時代の政治家、景公の時代(前547~490)に宰相となり40年余り補佐。 墓の入口 | ||
![]() | 死後、「平」を諡され、晏平仲と呼ばる。 墓碑「斉国晏平仲之墓」 | ||
殉馬坑 | |||
![]() | 殉馬坑は、斉王墓の殉馬600頭以上と馬車を展示 | ||
![]() | 頭部を外側に向け、首をもたげて横臥した姿勢で2列に規則正しく並ぶ | ||
桓公台 | |||
![]() | 桓公台は、高台に建てられた斉の宮殿跡地。 周囲に大規模な宮殿のあったことが判明。 | ||
バスから桓公台へ | 桓公台へ登る(高さ14m) | ||
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ミニ講座 | |||
ホテル帰着後菅谷先生のミニ講座開催 中国では城壁は城の一部というより境界を明確にする為に築かれている。等・・ 講座後の先生への質問攻め | |||
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6/21(土) 章丘 → 済南 | |||
章丘城子崖遺址博物館 | |||
![]() | 城子崖遺址博物館は、黒陶を特色とし龍山文化と呼ばれる紀元前2500~2000年の新石器時代文化を紹介。 城子崖遺址は遺跡を取り囲む版築の城壁 展示の黒陶を見る | ||
![]() | 黒陶の制作 | ||
版築の城壁を見る 菅谷先生による版築発掘断面の説明 | |||
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黄河 | |||
黄河下流域を見る | |||
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済南山東省博物館 | |||
![]() | 山東省博物館は、旧石器時代から新石器、商周青銅器時代、秦漢時代に及ぶ山東省各地からの出土品を展示 博物館入口での記念写真 | ||
仏三尊石造像 | 画像石を見る | ||
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6/22(日) 済南→除州(途中 泰山→大汶口遺跡→曲阜(孔子廟)→孟子廟→北辛文化遺跡を通過) | |||
徐州博物館 | |||
![]() | 徐州博物館は、古代から明清時代に至る徐州の歴史に関する遺物を陳列 特に徐州市周囲の前漢墓から出土した優れた遺品を陳列 漢墓から出土した遺体を玉片で覆った銀縷玉衣 | ||
![]() | 前漢亀鈕銀印 | ||
前漢青銅鏡 | 前漢采舞俑 | ||
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6/23(月) 徐州 | |||
漢兵馬俑博物館 | |||
漢兵馬俑博物館は、獅子山楚王墓の東500mより兵馬俑坑が楚王墓の地下宮殿を囲むように発見された。 | |||
![]() | ![]() | ||
水下兵馬俑博物館 | |||
水下兵馬俑博物館は、同じに発見された兵馬俑だが、現場を池としたため発掘場所は水面下となった | |||
水下兵馬俑博物館全景 | 陳列 | ||
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獅子山西漢楚王墓 | |||
前漢を開いた劉備の弟 劉交の孫にあたる楚の第三代王劉戊(前154年死亡)を埋葬した墓 石灰岩の小山をくりぬいて造られている | |||
![]() | 王墓の入口 | ||
入口を入り外墓道を見る | 奥へ続く外墓道 | ||
![]() | ![]() | ||
漢画像石芸術館 | |||
徐州郊外で発掘された画像石墓の画像石を展示 題材内容は生活、生産などの現実世界や神仙世界など多方面にわたる | |||
![]() | 新館展示 | ||
![]() | 画像石墓の構造 | ||
![]() | 旧館入口 | ||
![]() | 画像石の一例 | ||
亀山漢墓 | |||
亀山漢墓は、楚の第三代王劉戊を埋葬した獅子山西漢楚王墓の40年後に死亡した楚の第六代王柳注の王墓 王の部屋と正室の部屋が造られ通路でつながっており、井戸やトイレなどを備え、地上の生活をそっくり持ち込んでいる点で獅子山王陵より充実している。 | |||
![]() | 漢墓入口 | ||
![]() | 漢墓内の柱のある部屋 | ||
馬車と馬 | 正室の棺(レプリカ) | ||
![]() | ![]() | ||
![]() | 漢墓の前の道でみやげ物を売る菅谷先生 | ||
6/24(火) 郯城 → 臨沂(りんし) | |||
臨沂市博物館 | |||
王義之故居公園内で発見された西晋墓の出土品を中心に孔廟の設けられた博物館 | |||
![]() | 博物館入口 | ||
![]() | 孔子像 | ||
![]() | 胡人騎馬煙台 | ||
苅庇印章 | 画像石 | ||
![]() | ![]() | ||
王義之故居(西晋墓) | |||
![]() | 王義之の故居公園内から発見された西晋墓 公園入口(一号、二号西晋墓は撮影禁止) | ||
銀雀山西漢墓 竹簡博物館 | |||
銀雀山西漢墓 竹簡博物館は、金雀山、銀雀山から多数の漢墓が発見され、このうち銀雀山から出土の竹簡より春秋末期、呉の国に仕えた武将孫武と、その子孫で斉の国に仕えた兵法家孫臏が別の兵法書を著していたことが判明 | |||
![]() | 博物館入口 | ||
![]() | 竹簡が発見された西晋墓の復元 | ||
![]() | 孫武と孫臏の竹簡に書かれた兵法書 | ||
6/25(水) 青島 | |||
沂南漢画像石墓 | |||
沂南漢画像石墓は、沂南西4kmで発見された後漢末の制作と推定される画像石墓 | |||
![]() | 石墓入口 近所の農民が穀物を広げて乾す。 | ||
![]() | 石墓画像の説明 | ||
![]() | 石墓内部 | ||
夕食会 | |||
旅行最後の夜の懇親会 | |||
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6/26(木) 青島→関空 | |||
青島 | |||
小魚山公園 | 石老人海水浴場の青海苔汚染 | ||
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画像磚博物館 | |||
中国軍の軍人が集めた漢画像磚を海軍ホスピタル内で陳列 (陳列品は写真撮影禁止) | |||
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