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神郷亀塚古墳→安土城考古博物館→安土瓢箪山古墳→千僧供古墳群→木村古墳群→八幡社古墳群(雪野山解説)

近江の国湖東の古墳時代前半期の遺跡を訪ねて 友史会々員 前川 伊三吉氏

9月末のこの時期、いく分過ごし易さを感じつつも、降水確率50パーセント、暗雲たちこめる中の研修であった。
最初に訪れたのは「神郷亀塚古墳」であった。古墳は畑の一角にあり削平され三分の一程の小さなマウンドを我々一行が取り囲んだ。発掘調査では、二つの木槨を持つ前方後方墳で周濠を持ち、周辺では後の時代まで祭祀をした形跡があったそうである。被葬者を崇めたものか、後の時代にできた同一地内の乎加神社の信仰であったかは定かではない。次に訪れた乎加神社の本殿は神明造で、特徴として両切妻に棟持柱が聳え立つ格式の高い建物である。伊勢神宮より移築されたとのこと、神聖なる玉砂利敷の内より見学させて頂けた事はラッキーであった。次は昼食を交替ですませ、安土城考古博物館を見学する。館内はこの地域より出土の遺物を集成展示しているが、中でも雪野山古墳の副葬品は、以前橿考研博物館特別展(一九九八)に展示されたもの、再度の対面である。
五面の銅鏡の内二面が三角縁神獣鏡でその内の一面は、椿井大塚山古墳、黒塚古墳二四号鏡と同型で、まさしくヤマト王権の勢力拡大に利用された鏡で、中央政権よりこの地区の支配を許されたあかしに下賜されたものと思える。この雪野山古墳は本日最後の見学地である。古墳は標高三百メートルの雪野山山頂にあり、登降には時間的制約もあり、計画当初より見学は断念、山裾での説明で本日の研修も無事終了した。
 悪天候なれど十分満足の一日を過ごさせて頂いた、案内の先生方、企画運営の役員の皆様に感謝。
 
近江国、湖東を訪ねる 研修旅行に参加して 友史会々員 木村 美恵子氏

 「近江を訪ね、雪野山古墳の未盗掘の前方後円墳を是非とも見たい。『雪野山』という言葉にも魅せられた」
  (友史会員役員より)

 9月30日、京都駅よりバス2台に分乗して、小雨の中を近江に向かいました。車窓から見る雪野山は、霧雨に半分隠れ、古代に誘うが如く迎えてくれました。鬱蒼として太古の姿をそのまま残し、あたかも祖先の記憶が甦り、幾たびも訪れたような気持ちになりました。残念ながら今回は時間の都合で雪野山は行く事が叶わず、麓の八幡社古墳群に足を運びました。 八幡社古墳群では、神社の境内のような落ち着いた雰囲気を感じながら、古代の人々に思いを馳せました。
 蒲生郡は古代から人が集まり、首長墓・集落は在地の豪族の系譜を辿る貴重な古墳群とされています。 供養塚古墳からは、形象埴輪が出土していて、五世紀後半の大和朝廷と強い関わりのある人物の墓と昔から言われています。
今回の講師の先生は大橋信弥氏(滋賀県立安土城考古博物館学芸課長)辻川哲朗氏(滋賀県文化財保護協会主任)講師の方々はとても詳しく説明されていました。また配布された資料は、国立大学の協力で発掘調査されたときに作られた物とのことで、とても綺麗に古墳分布、遺跡地図、副葬品などが記されていました。大橋先生の熱心な解説に会員の方々も満足して家路についたと思います。
また博物館の千賀先生には、秋の特別展で忙しい中を、友史会の研修旅行にご同行、ご配慮頂きまして、深く感謝いたします。加えて、今回の役員の皆様には、行程の下見や見学場所等準備して頂き、有り難うございました。
 
京都駅
京都駅出発9時。あいにくの雨模様だが、真夏のような連日の猛暑が影を潜め心地よい。今日は「近江の国の湖東に古墳時代前半期の遺跡を訪ねる」と題して、滋賀県東近江市能登川、蒲生郡安土町、近江八幡市の古墳時代前半期の遺跡を中心に滋賀県立安土城考古博物館学芸課長大橋信弥氏、滋賀県文化財保護協会主任技師 辻川哲朗氏に案内いただく。橿原考古学研究所附属博物 主幹学芸員 千賀 久氏も同行いただいた。
 
菩提寺SA
参加会員は100名。京都東ICから名神高速を北上。菩提寺SAにて小休止して、一路能登川の神郷亀塚古墳に向かう。近江の古墳は日野川、愛知川などの河川沿いと琵琶湖内湖沿いに分布し、物資の運搬を担う権力者の存在が推定される。
 
三上山
お天気がよければ、この付近から、写真にように近江富士・三上山が見えるがあいにくの雨で視界不良。この山を7巻半した「大ムカデ」を天慶・承平の乱で平将門を討伐した武将「藤原秀郷・俵藤太」が遠く瀬田の唐橋から弓矢で射たという伝説が残っており「ムカデ山」の別名もある。
 
乎加神社
乎加(おか)神社は、延喜式内社で、本殿、幣殿、祝詞殿、玉垣、・拝殿、手水舎からなる明治期の建物は国登録有形文化財。神郷亀塚古墳は、鎮守の森の北側、乎加神社の社地にある。
 
拝殿(手前)と幣殿 本殿は明治22年の伊勢神宮遷宮)時に譲り受け、同25年に移築されたと伝えられる。棟には堅魚木(かつおぎ)7本がのせられ、建物側面には直接棟木を支える独立棟持柱構造
 
神郷亀塚古墳
 愛知川南河畔にある神郷亀塚古墳は全長約28mの前方後円墳とされてきたが、発掘により、全長36.5m(前方14.5m、後方22m)の周濠を持つ前方後方墳であることが判明。埋葬施設および盛り土から弥生時代末の土器、周濠からは庄内式古段階土器がみつかり、弥生末期から古墳時代の初め(3世紀初頭)の築造と推定。盛り土には周濠を堀上げた地山土(自然本来の土)の粘土や砂を30層以上も積み上げる。1段目に約1mの高さを持ったテラスを構築した後、後方部をさらに3m盛り上げた、全高約4mの2段築成。埋葬施設は木槨墓。古墳の盛り土と二つの墓穴からは、砕かれた土器の破片が数百点出土。被葬者や家族が生前使っていた土器を古墳に埋める丹後など北近畿地方に多くみられる祭祀。古墳の西約20メートルからは墓守の住居とみられる、祭りに使う高杯を伴う5世紀後半の竪穴住居跡1棟が出土。この頃まで古墳の祭祀が継続か。
古墳西側の周濠付近からは祭りを集落の人々に知らせる旗や飾り物などを立てた木柱の跡とみられる不規則に並んだ柱穴群が出土。古墳の北東には、縄文時代後期の集落跡正楽遺跡。西側には弥生時代後期から古墳時代、さらに鎌倉時代まで約千年以上にわたって栄える湖東地域の中心集落中沢・斗西(とのにし)遺跡が隣接。多数の住居跡・祭祀場跡・土器・木器・青銅鏡や玉類などの祭祀具がみつかっており、このあたりに湖東地方を広く治めた小国の王が居住していた。
 
側面から 右がわ墳丘が後方部 前方部から墳丘を望む
 
安土城考古博物館
弥生時代の典型的な農耕集落である大中の湖南遺跡、近江の古墳時代の始まりを示す瓢箪山古墳を中心としたテーマと、完成された中世城郭の観音寺城跡、近世城郭の幕開けである安土城跡と織田信長を中心としたテーマで展示。セミナー室で説明を聞いた後見学。屋外の昼食は東屋。
 
繖山
繖山(きぬがさやま)を東南からの望む。
山頂のすこし下が観音正寺で、その左手一帯が中世六角佐々木氏の居城観音寺城の主槨。観音寺山とも呼ばれる。正面右、麓の集落は日本で最初に楽市が催された、石寺城下町。瓢箪山古墳は左山裾の裏側。繖山は古名は佐々木山と見られ、山の南西一帯、蒲生郡(安土町)と近江八幡市東部が「和名類聚抄」に見られる篠笥(ささけ)郷に比定されていることから、日本書紀即位前記、古事記安康天皇段の、雄略天皇の市辺押磐皇子殺害の記事に出ている、山林の管理や狩猟で中央政権の奉仕した佐々貴山君の本拠と考えられ、瓢箪山古墳との関係の想定される。
 
安土瓢箪山古墳
安土瓢箪山古墳は繖山の西南の丘陵を切断した全長162m、後円部径90m、前方部70mの古墳時代前期(4世紀中葉)の築造の前方後円墳。後円部に3基の竪穴式石室(鏡・石製品・銅器・鉄鏃・玉類・鉄器など出土)。前方部の2基の箱型石棺(銅鏡2面・石釧などの腕飾り類、管玉、剣・刀など多数出土)。
 
後円部の竪穴式石室
 
千僧供古墳群
 千僧供(せんぞく)古墳群は10基の古墳からなり4基が現存。安土瓢箪山に続く在地の首長墓として位置づけられ、篠笥(ささけ)郷内であることから佐々貴山君との関連も想定される。住蓮坊古墳は、古墳群東北方に位置し、墳丘径が約53m、掘を含めると径約93mの、古墳時代中期(5世紀中頃)築造の大型円墳。墳丘は段築の痕跡を有し、周濠は墳丘に対し同心円状の形態をとらず、変則的な形態。墳丘は比較的良好に遺存しているが、主体部は未調査。葺石、埴輪なども未確認。遺物としては、円濠内より古式の須恵器が2例出土。 古墳頂上部にある2基の墓は、江戸時代に建てられた鎌倉時代古墳北方で処刑されたと伝えられる法然の弟子住蓮と、同じ時京都で処刑されたという安楽の2僧を弔うもの。

 鎌倉時代の初め、都では「念仏を唱えれば貴賎の区別なく誰でも極楽往生ができる」という法然上人の念仏宗が民衆に受け入れられ広まっていた。後鳥羽上皇は南都北領既成宗派からの念仏宗弾圧要請にもあえてことを荒だてなかった。住蓮安楽は、弟子のなかでも特に専念念仏の普及に努めた。美男のうえ大変な美声で念仏会はいつも満員で女性の信者が多かった。後鳥羽上皇が熊野詣の間、住連、安楽は東山鹿ケ谷で六時礼讃を催した。集まりは盛況で後鳥羽上皇の女官伊賀の局らが混じっていたが、後日、法を隠れ蓑にして密通を働いたとのうわさが流れた。これを知った後鳥羽上皇は怒り、法然は土佐に流罪、住連はここ近江馬淵の荘の池のほとりで、安楽は京都で処刑された。(女官は六波羅探題の松虫と鈴虫、怒ったのは平清盛という説もある)千僧供町まちづくり委員会資料より抜粋
 
 供養塚古墳は、後円部に、幅約4m、長さ約8mのほぼ長方形を呈する「造り出し」を設ける5世紀後半の帆立貝式古墳。周濠内からは、墳丘部および外堤より転落した多量の埴輪(普通円筒埴輪や朝顔形埴輪を主体に、家(八棟以上)、衣蓋、靱、人物、馬、鶏等の形象埴輪)が出土。これらの形象埴輪は、濠内でも「造り出し」に対峙する外堤側に集中的に認められ、いわゆる外区の存在を推察。江戸時代から知られており、寛文二年に領主福富平左衛門が掘った時に、古鏡、水晶、刀などが出土したが、現存せず。昭和8年2月に、馬淵小学校通学路の造成時に土砂場とされ、採土の途中に石室を発見。刀剣・短甲「横矧鉄板鋲留式の板鎧」が出土。
 
岩塚古墳は、千僧供古墳群のうち最も南側に位置し、墳丘約27.5mの円墳。周濠はない。幅2m、長さ11mの横穴式石室が露出しており、古墳時代後期(6世紀末頃)の築造と考えられる。
現在は墳丘土が流出し、石室の石材が完全に露出した状態にあり、石室は、ほぼ真横に開口。
 北方の住連坊古墳、北西方の供養塚古墳に引き続いて築造された在地の首長墓の系譜を引く古墳。
 
トギス塚古墳は、千僧供古墳群のうち、最も東南部に位置する、周濠のない墳丘径約14mの古墳時代後期(6世紀後半)の円墳。墳丘の大部分が消失しているが、一部石材が露出。幅約1.5m、既存長さ約5mの横穴式石室。
 規模は次第に縮小しているが、住連坊古墳、供養塚古墳、岩塚古墳に引き続き築造された在地の首長僧の墳墓と推定。
 
千僧供町地域歴史資料館
供養塚古墳復元モデルを前に説明を聞く
 
雪野山古墳
木村古墳群、天乞山古墳(手前)、久保田山古墳から雪野山を望む。
雪野山古墳は雲のかかった後方の山頂にある。安土瓢箪山と相前後して築造された4世紀中頃の前方後円墳。平成元年に未盗掘の状態で発見され、全長70メートルの古墳の後円部の墳頂部に南北方位で堅穴式石室1基があり、三角縁神獣鏡などの銅鏡や石製品・土器、武具など副葬品も多く出土。
 
木村古墳群
木村古墳群は9基以上からなり、現在概要の確認できるものは5基。正規の前方後円墳はないが、大形円墳、方墳で構成され篠笥(ささけ)郷内とは別の系統の有力首長の存在を裏つける。確証はないものの蒲生郡内のもう一つの豪族蒲生稲寸氏の奥城の可能性は高い。

天乞山古墳は2方向の造りだしを持つ2段築成、一辺65cm最大長、76.5m、高さ10.3m、周濠の幅は22mの5世紀前葉の方墳。円筒埴輪を持ち、割り石積みの石室が主体部。
 
久保田山古墳円筒埴輪列ごしに天乞山古墳を望む 天乞山古墳割り石積みの石室
 
西に存在する久保田山古墳は天乞山古墳に続く、5世紀中葉から後葉の築造。径57m、高さ6mの円墳で北側に幅13.5m、南側に幅19mの造り出しを持つ。周濠があり埴輪は出土。
 
八幡社古墳群
八幡社古墳群45号墳から古墳群を通して雨に煙る雪野山を望む

雪野山の東麓(中羽田町)にある、6世紀中頃から7世紀前半にかけて2世代にわたって築造された古墳群。この地方豪族で壬申の乱の折、近江朝廷の将軍であったが大海人皇子側に寝返えり、軍功を挙げた羽田公との関係を指摘するむきもある。
前方後円墳46号墳以外は円墳。
ここで雪野山の説明を聞く。
 
八幡社46号墳
前方部、後円部、くびれ部の3箇所に横穴式石室を持つ。
八幡社46号墳
前方部石室を柵越しにのぞく。奥がL字型に曲がる稀な構造。
 
八幡社46号墳
くびれ部の石室
八幡社46号墳
後円部の石室
 
 
草津SA
暮れなずむ草津SAにて休憩の後、1号車は京都駅へ2号車は西大寺駅へ向かう。
 
ご案内いただいた大橋信弥先生の著書 蒲生町史第1巻「古代・中世」第2章第3節 豪族の分布、先生のお話、現地説明板を参考にまとめました。(文責 写真 大西 寿江、下尾 茂敏)