yushikai.jpg

大代古墳→徳島県埋蔵文化財センター→萩原墳墓群→天河別神社古墳群→宝幢寺古墳群→徳島市考古資料館→矢野古墳

「鳴門市の遺跡巡り」に参加して
坂部征彦さん
4月1日、そう、エイプリルフールの日、徳島県地方は曇のち雨の天気予報のもと新大阪を出発しましたが、一日中雨には遭わず、鳴門市を中心とした遺蹟を見学することが出来ました。バス車中で、今回の友史会のイベントが徳島新聞で前もって報道され、当日新聞社だけでなくNHKも取材に来る予定との報を聞いて会員から歓声があがりました。
私にとっては全く馴染みのなかった徳島県の古墳や弥生の墳丘墓を訪ね歩くのは胸躍る思いでした。最初に訪れた大代古墳からは吉野川河口域の平野を一望でき、古墳を造った首長の権勢を感じさせるものでした。発掘調査の新聞報道もあり一番の見所であった萩原2号墓では、つい三日前の3月29日に埋め戻されたと聞き会員の間から大きな嘆息がもれました。しかし、ホケノ山古墳の石囲い木槨にも先行するという積石木槨が土の下にある現場に立てただけで興奮を覚えたものです。
何せ総勢140名が参加し大型バス3台での移動です。やはり予定消化に遅れが出て、最後の徳島市立考古資料館・矢野古墳では運営委員から時間がないので資料館だけ見るようにとの指示の叫び声が飛ぶ一幕もありました。会員の間には若干不満も残ったかもしれませんが、より多くの会員が参加できたという点で意義のある見学旅行でした。これを企画した運営委員の皆さんやお世話になった先生方、本当にお疲れさまでした。   
奥田好秀さん
運営委員のお話によると参加申込者が多くて、当初は100名、バス2台での催行を企画していたのが140名で3台の規模に膨れ上がったとのことでした。
鳴門の遺跡といえば「積み石木槨」の痕跡が確認されたと報じられた「萩原2号墓」があり、奈良県に住む者には桜井市のホケノ山古墳との関係が興味深く思われ、友史会一年生の私は鳴門の親戚を訪問するような気分でバスに乗り込みました。
昨晩の雷雨も上がり春霞の中、鳴門自動車道の鳴門ICすぐ側のトンネルの真上にある「大代古墳」が最初の見学遺跡でした。墳丘の上に立つとかなりの遠くまで見渡すことができ、鳴門海峡を中心に海域を支配した首長の墓であるといわれることに、なるほどと感じました。ここから発掘された刳抜式の舟形石棺とは次の見学地である徳島県埋蔵文化センターでご対面。
今回の最大の見所である「萩原2号墓」は集落の背後の山の狭い見学道を登った頂上にあり、三月十八日の現地説明会には、集まった300人の見学者を80人ずつに分けて上げたそうです。奈良であればどうなっていただろうと見学者数の違いを感じました。
ただ発掘現場は29日に埋め戻されており埋葬施設を見ることができず残念でした。
今後の発掘調査・研究で鳴戸と大和の関係が解明されていくことが楽しみです。
その後、天河別神社古墳群、宝幢寺古墳群なども訪れ、桜満開の鳴門遺跡巡りの一日でした。
新大阪駅
バスツアーの起点はいつもここ新大阪駅団体待合室
8時45分集合だが、8時前から会員が集まる。
数人の会員が現れず、今回も出欠確認連絡に運営委員は大騒ぎとなる。9時出発。
淡路SA
今回は、奈良交通バス3台に分乗。
参加者は137人。
中国自動車道、阪神高速北神戸線から淡路鳴門自動車道へ
淡路サービスエリアで休憩して、一路大代古墳へ向かう。
鳴門市衛生センター
バスは、木津の鳴門市衛生センターで待避。

背後の山は木津城跡。
大代古墳
鳴門市衛生センターで鳴門市教育委員会森清治先生のお迎えを受け、徒歩で大代古墳に向かう。

梨の花越しに見上げる大代古墳。古墳は鳴門インター西側トンネル上に保存されている。
鳴門は梨の産地。「阿波梨」で知られた長十郎種にかわり、甘くてみずみずしい「幸水」「豊水」種が主流。
  大代古墳登り口で森先生から注意事項の説明を受ける。
 ◆古墳上に人がいると高速道路の運転手の注意を引く。
  IC出口を間違えることがあった。柵近くに寄らないこと。
 ◆古墳養生中につき分散して登ること。
順に急な階段を登る。
古墳下には高速道路
右手岡は木津城跡。
古代には高速道路脇まで入り江が広がる。
木津は古代の港湾。大代古墳は港湾を見下ろす尾根に築造されている。木津城は戦国時代の建築と伝わり、天正10年(1582)に土佐から侵攻した長宗我部元親が領有。元親は豊臣秀吉の四国攻めに備え、最前線にあった木津城を城攻めが困難な形に改築したとされるが、豊臣秀長・秀次軍は東条関兵衛が守る木津城を攻略、陥落させた。
 調査により、▽攻め上ることを困難にした土塁▽連続する竪堀、長さ約90mの横堀▽簡単に登れないように造られた人工の急斜面である切岸―などを確認。これらは当時、元親が四国各地の城に施した「長宗我部系」と呼ばれる築城技術で、県内では初の確認という。(鳴門市教育委員会)
1号墳後円部にて森先生のご説明
大代古墳を前方部より後円部を望む。
全長54mの4世紀後半の前方後円墳。県下5番の規模。
後円部中央には、竪穴式石室があり、香川県津田火山産の凝灰岩製舟形の石棺が安置されていた。鳴門港湾を支配した首長の墓。石棺内からは滑石白玉などの玉類、棺外からは銅鏡片、銅鏃、鉄鏃、鉄剣、鉄刀、鉄鉾、短甲、鉄鎌が、また墳丘からは円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪、靫形埴輪が出土。
大代古墳北側の2号墳 大代古墳南側の3号墳
徳島県埋蔵文化財センター
徳島県埋蔵文化財センターで藤川先生の説明を聞く
入り口に置かれた大代古墳舟形石棺 整然と展示された土器類
移築された西山谷2号墳
西山谷2号墳は、高松自動車道上にあった3世紀半ばの円墳。石室は2つのブロックに分けて運ばれた。
竪穴式石室を持ち獣帯鏡と鉄鏃が出土。
萩原2号墓
萩原2号墓へ1列になって登る。
萩原2号墓

墳丘埋葬施設(写真左)はすでに埋め戻されていた。埋葬施設を囲み藤川先生の説明を聞く。

萩原2号墓は南側に突出部を持つ直径20mの円形の弥生時代終末期の積石木槨墓。
中央部分には径5cmほどの小石の集中範囲があり、それが下部で落ち込んでいることから、木棺に加えて棺よりも幅広の槨があったことが分かる。棺と槨は東西に設置されていて、上面を小石で盛り上げている。木槨の外周は一辺15~20cmの角張った石です(礫槨)。礫槨の外周は棺などを納めるための穴(墓壙)の立ち上がりに石の壁(石積み墓壙壁)によって囲まれる。棺の周囲を何重にも覆うていねいな埋葬方法。石積み墓壙壁の外側の2ケ所で土器が集中して出土。北西の集中地点では、鉢と壷の2個分が出土しまし、土器の特徴から2世紀未~3世紀初頭の年代を確定。また、破片の散らばり方から、墳丘上でのまつりの後に土器を割って石材の間にばらまいたのと推定。(鳴門市教育委員会資料より)
北側3号墓を望む。 北側から2号墓墳丘を望む。
南側突出部西側の結晶片岩 貼り石?? 徳島新聞社の取材を受ける。
天河別神社古墳群
天河別神社1号墳

大麻町池谷の低い尾根上天河別神社本殿の背後に築造された墳丘墓の特徴を残す県内最古、直径約25m、高さ3.5m、幅4mの周壕(堀)をもつ円墳。
石室には吉野川南岸で採取される結晶片岩(青石)が使われ、当時、天河別神社古墳群周辺には入り江が入り込み、この石材は吉野川南岸の地域から船で運ばれてきたと考えらる。
 石室は古墳の中心部に良好な状態で残っており、内側の大きさは、南北に約4.9m、東西に約1.1mで高さは約1.2m。被葬者は、頭を北側に向けて埋葬されていた想定。
 古墳の構造は、墳丘の上半分が頂部を平坦に削りだした後、墓壙(墓穴)を堀り、平坦面から上部は盛り土を施した後に内部を被覆土で充填。 
 墓壙の平坦面の上には石室が築かれ、石室の底(床面)の下部構造は一番下に、断面が台形状の土の「基台」があり、それを覆い隠すように粘土に小ぶりの川原石を混ぜた礫混粘土をはり付けて、「礫床」を作る。その上の棺を置くため粘土棺床は約40cmと厚く、2回に分けられてはられていた。その上には、やや大きめの河原石を使った礫混粘土が積み上げらた「礫混粘土帯。
 上部構造としては、礫混粘土帯の上に結晶片岩(青石)の「板石積み」の側壁があり、側壁はやや内側に傾斜を持たせながら積み上げられ、持ち送り状に積む。また、側壁の外には結晶片岩と砂岩でできた石囲いが石室を囲んでおり、二重構造。石囲いに接する西側には「板石敷き遺構」が見つかる。天井は石室上面の配石状況の高さから木のふたによって閉じられていたことが想定される。木棺や遺骨などはすでに腐食、石室内からは鉄剣と古墳時代最初期に作られたとみられる土器の破片。(鳴門市教育委員会資料より)
天河別神社2号墳
4世紀前半の円墳。墳丘南側に3段の石列。1段目石列、2段目外側には貼り石、2段目内側には葺き石が設けられている。墳丘の東側では、裾の石列1より下側に新たな葺石が存在しており、古墳の裾がさらに広がっている。北側に1号墳が隣接している点から、この葺石は平野に向かった南、東側方向に存在していたと考えられ、平野から眺めたときに、より古墳を大きく見せるための工夫。
円墳の7号墳(奥)、8(手前)号墳 全長43m前方後円墳の4号墳
宝幢寺古墳群
宝幢寺の裏に宝幢寺1号墳がある。 境内には萩原古墳群の1つ(後期古墳)が移築されている。
宝幢寺1号墳

阿讃山麓から南へ伸びる尾根の先端標高約33mに築かれた全長47m、後円部径28m、前方部長19m、4世紀中頃前方後円墳。墳丘はほとんどが地山を削りだして成形。埴輪片が出土していることから、墳丘の周囲には円筒埴輪と朝顔形埴輪を立て並べられていたとみられる。後円部には宝幢寺の歴代住職の石塔があり、その付近に主体部があったとみられるが、構造などは不明。
歴代住職の石塔。下には埋葬施設に使われたと思われる結晶片岩が見える。
徳島市考古資料館
萩原2号墓の見学では、会員の熱心な質問で大幅に時間が超過。徳島市考古資料館到着が大幅に遅れた。一山館長にお出迎えいただき、特別企画展「前期古墳の謎」、矢野古墳の資料をいただく。
矢野古墳
駆け足で矢野古墳を見学した方も。古墳は左手奥。

矢野古墳は直径12mの後期の円墳。埋葬施設は南に開口する両袖型横穴式石室で全長8m、玄室長さ3.8m、幅2.4m、高さ2.5m、羨道長さ3.9m。奥壁には巨大な結晶片岩の一枚石が使用されており、玄室側壁の基底部と天井にも巨石を使用。玄室の平面プランは長方形を示し、天井部は天井石を前後に持ち送ることで一段高く構築。玄門部両側に立石を配す。

バスは、予定より20分遅れの16時30分発。
新大阪には、19時50分帰着。
 (写真 文責 大西寿江、下尾茂敏)