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9月30日(土)~10月1日(日)
講師:安藤信策氏(元丹後郷土資料館長、元京都府埋蔵文化財調査研究センター)、松田館長

(1日目)加悦古墳公園(蛭子古墳群、作山古墳群、埴輪資料館)→日吉ケ丘遺跡→白米山古墳→丹後国分寺跡→京都府立丹後郷土資料館→籠神社→大風呂南墳墓
(2日目)大谷古墳→黒部銚子山古墳→竹野神社→神明山古墳→片山1号墳→大成古墳→丹後古代の里資料館→網野銚子山古墳→赤坂今井墳丘墓



丹後の国を訪(おとな)いて
 9月30日午前9時、新大阪駅を友史会研修旅行一行99名は2台のバスに分乗し一路京丹後市に向け出発。
 途中、高速道路の上にそそり立つ私市円山古墳のトンネルを通過し丹後の国に入る。宮津で今回の研修旅行の案内と講師をして頂く安藤先生を御迎えして加悦古墳公園へ向かう。公園内の蛭子山・作山古墳は前期の築造で蛭子山古墳の石棺は丹後に多い舟形石棺で花崗岩を刳り貫いて造られている。柏原市の松岳山古墳の石棺蓋石も花崗岩製でこの2例が知られていて鉄の加工具を使用した高度な技術が偲ばれる。
 作山古墳の復元された竪穴石室は花崗岩を加工した箱型石棺で底には丹後の埋葬法である礫床が確認できた。また丹後式円筒埴輪列や墳裾周囲に木棺墓が整然と取囲む様子は新しい発見だった。はにわ資料館では日吉ケ丘遺跡出土の剥取された「朱の中に混じる管玉」は当時の玉造り加工技術の粋を極めた逸物。
 丹後郷土資料館で大風呂南遺跡出土の「青いガラスの腕輪」を見るのを楽しみにしていたが、重文に指定されていて見る事が出来ず残念!!
 翌10月1日は女王の墓、大谷古墳見学から始まり網野銚子山までの中期から後期迄の古墳を見学したが、いずれの古墳も海を臨む場所に築造されていて丹後は弥生の時代から海の影響を強く受けて文化が育まれて来た事が良く理解できた。
 今回見る事が出来なかったが大宮町の左坂墳丘墓からは中国製(?)の素環頭太刀が出土していて遠く中国、朝鮮、北九州等との交易も想像される。
 最後に見学した赤坂今井墳丘墓の第四主体から出土した「青いガラスの頭飾と耳飾」は復元され、丹後の「古代の里資料館」で展示されていて、その青い煌きは驚嘆に値する。第一主体は未発掘との事、近い将来其処から「漢倭丹波王国」と彫りこんだ金印が出土するのではと念じながら丹後国を後にした。
 末筆ながら安藤先生、松田館長並びに友史会役員の皆様、楽しい研修旅行有難う御座いました。また見学し易い様に草刈等現地を整備して頂いた地元の皆様方に厚く御礼申し上げます。
(永瀬幸男)


  新大阪

団体待合室 集合8時40分
夜行バスで来られ早朝から待った方もおられた。
奈良交通バス2台99人で9時定刻出発

1号車 ガイドは亀岡さん 2号車 ガイドは中村さん
車内

舞鶴自動車道西紀インターで休憩後、一路丹後へ
館長は2号車から1号車に移り挨拶

岩滝駅で安藤信策先生が合流
2日間ご案内いただく

加悦(かや)古墳公園(与謝野町明石)
   野田川が大江山に源を発し阿蘇海(天の橋立の内海)に流れ込む間に形成された加悦谷は古代から交通の要所で遺跡が密集。

古墳公園では館長が古墳時代の服装で出迎え。 安藤信策先生の熱心な説明を聞く。

  蛭子山古墳群
    古墳公園に北尾根には3基の蛭子山古墳群が残る。

 蛭子山1号墳 前方部より後円部を望む。

3段築成、4世紀後半の前方後円墳。全長145m、後円部径100m、高さ14mは丹後地方第3位。

昭和4年、後円部にあった神社の復旧工事中に花崗岩製の舟形石室が掘り出された。石棺内から長宜子孫銘内行花文鏡と直刀、棺外から刀、剣、鏃などが出土。

昭和59年に再調査が行われ、礫敷き墓壙と、竪穴式石室など3基の埋葬施設を確認。各主体部は埴輪列で囲まれており、丹後の王の墓の風格。
昭和4年に見つかった石棺 石棺内には枕の刻印

  作山古墳群
 古墳公園に南尾根には5基の作山古墳群が残る。

作山1号墳
蛭子山1号墳と同時期に築成された帆立貝形前方後円墳。
花崗岩製石棺と変形四獣鏡、石釧、勾玉、鉄剣、鉄斧、鉄鎌が出土。
作山5号墳(手前)と1号墳 作山1号墳墳頂の石棺

作山2号墳(円墳) 方墳の作山3号墳(手前)と前方後円形の4号墳

作山4号墳

  白米山(しらげやま)古墳(与謝野町温江)
 加悦(かや)古墳公園の南にある、自然地形を利用した2段築成の4世紀後半の典型的な柄鏡形前方後円墳。
 葺石を持ち、全長92m、後円部径58m、陪塚が2基。

猪よけ鉄線をくぐり墳丘へ 前方部葺き石?
前方部より後円部を望む
後円部で説明を聞く
後円部横の倍塚

  日吉ケ丘遺跡(与謝野町明石)

加悦古墳公園から徒歩で日吉ケ丘遺跡へ向う 大形貼石墓(中央高まり)が出土した弥生中期後半の遺跡。組合式木棺とその下から碧玉と緑色凝灰岩管玉が出土。

  京都府立丹後郷土資料館(宮津市国分)

天橋立北方、国分寺に隣接する郷土資料館。
大谷古墳を発掘した、学芸員の奥村清一郎さんから説明を聞く。

  丹後国分寺跡

郷土資料館前にて国分寺を望みながら安藤先生の説明を聞く。丹後国分寺は中世建武年間に再建された。
雪舟の天橋立図に描かれている。
塔跡から天の橋立を望む 金堂跡から郷土資料館

  籠神社(宮津市大垣)
丹後の国一の宮。
   倭姫が天照大神を祭る適地を探して各地を訪れた際、 ここに一時鎮座したとの言い伝えで元伊勢の呼び名がある。
   宮司はこの地の豪族海部直の子孫が代々努め、9世紀の「海部氏系図」は国宝。
   社宝の後漢鏡内行花文鏡は公開されて話題を呼んだが、今は非公開。


  大風呂南墳墓(与謝野町岩滝)


後方の丘の上、電波塔の下にある弥生後期の方形墓。見事なガラス釧が出土し、京都府立丹後郷土資料館の収納庫に。

ミニ講座(宮津ロイヤルホテル) 

 司会 中村運営委員
安藤先生のミニ講座「魅惑の古代丹後」 松田館長のミニ講座「丹後の縄文遺跡瞥見」

  大谷古墳(京丹後市大宮町)

  2日目は午後から雨の予報が朝から雨。

古墳時代中期前半の全長32m、後円径26m、高さ4nの前方後円墳。捩文鏡、鉄剣、斧、刀子、勾玉、ガラス玉と一緒に女性の人骨が出土。工場建設のため削平され墳丘規模を縮小して移築。石棺は本物。

  黒部銚子山古墳(京丹後市弥栄町黒部)

道からは後円部が見える。手前左に蕎麦の白い花が咲く。 前方部境から墳丘に登る。
前方部から後円部を望む。
古墳時代中期(4世紀後半から5世紀前半)。
全長105m、後円部径68m、高さ15mの周濠、葺石、埴輪を持つ3段築成の前方後円墳。丹後地方で4番目の規模。地元では四道将軍、丹波道主の墓との伝承。

  神明山古墳(京丹後市丹後町宮)

竹野神社よこから裏山の神明山古墳に向かう。竹野は古くは「たかの」と読む。祭神の竹野姫は、垂仁天皇に嫁いだ丹波道主の5人の娘の5番目。年老いて郷里に帰りここに鎮座。神明山古墳は竹野姫の墓との伝承を残す。
神明山古墳前方部から後円部を望む。
3段築成全長190m、後円部径129m、高さ26mの丹後地方最大規模の4世紀後半から5世紀前半の前方後円墳。後円部には竪穴式石室があり、滑石合子、椅子方石製品、坩形石製品が出土したと伝える。

  片山1号墳(京丹後市竹野町竹野)
   竹野小学校周辺にある片山古墳群。1号墳は民家の庭先にある径20mの円墳。長さ6.6m、幅2.5mの巨大な片袖横穴式石室。

順に石室を覗き込む。 巨大な石室

  産土山古墳(京丹後市丹後町竹野)

径56m、高さ9mの古墳時代中期の円墳。昭和13年に凝灰岩製の長持ち式石棺が石室を伴わず、粘土におかれた状態で出土。周囲からは冑、短甲、槍、剣、鏃、棺内には勾玉、管玉、鹿角装剣、大刀、木弓、櫛と埴枕を伴って毛髪が出土。

  大成古墳(京丹後市丹後町竹野)

竹野川河口、海を臨む台地上にある13基の後期古墳群。
石室が露出。
手前にある7号墳
径16mの円墳。玄室長4.4mの片袖横穴式石室。
中央にある9号墳
径10mの円墳。玄室長5.9mの無袖横穴式石室
竹野川河口、立岩に向かって開口した8号墳。
径8.7mの円墳。玄室長4.5mの両袖横穴式石室。

網野銚子山古墳(京丹後市網野町網野)
  福田川流域に移動。
   網野潟港を見下ろす海浜砂丘上に築かれた3段築成古墳時代中期の前方後円墳。日本海側最大全長198m、葺石、埴輪を持つ。
   神明山古墳と並ぶ丹後の王の墓。王の本拠地は峰山町と推定。

長い前方部から後円部を望む。 かつての海岸線から眺めた墳丘。

  赤坂今井墳丘墓(京丹後市峰山町赤坂)
最後の訪問地は、2000年に発掘された弥生時代後期の6基の大形方形墳丘墓。2番目規模の第4主体部から埋葬された形のままの頭飾り耳飾り(青や緑の勾玉30個余り、ガラスや碧玉の管玉180個)が見つかった。頭のあたりは赤色顔料が厚く残り、玉は朱にまみれていた。
墓壙の上面には円礫約150個が置かれ、その上に破砕された土器6個分があった。深部には丸木舟の形の木棺の痕跡が残る。

墳丘は東西35m、南北37.5m 主体部は土盛で表現

 (写真 文責 下尾茂敏)