yushikai.jpg

10月4~5日(土、日)
案内:河上邦彦館長、河内一浩氏(羽曳野市教育委員会)、西森忠幸氏(友史会会員)

1日目:泣澤女古墳→有田市郷土資料館→道成寺→岩内1号墳→御坊市歴史民俗資料館→尾ノ崎遺跡
2日目:安久川古墳→白浜民俗温泉資料館→南方熊楠記念館→磯間岩陰遺跡→田辺市立民俗資料館→高山寺貝塚→三栖廃寺

             「中・南紀州史跡見学会」(史跡・グルメ・温泉を楽しむ)
 今回で3回目となった一泊二日の史跡見学会はJR新大阪駅からバス2台を仕立てて、和歌山県の中・南紀へ出かけた。総勢90名の大所帯である。講師には河上館長に加えて、長年和歌山県で発掘調査をされ、現在は羽曳野市教育委員会でご活躍の河内一浩先生にお願い致しました。
 最初の見学先、吉備町藤並神社境内にある天満1号墳(泣澤女古墳)では、吉備町教育委員会の関先生から説明を受ける。修復中のため石室へは入れなかったが、シートをはずしてもらい内部の見学となった。藤並神社では大挙押しかけたため神宮がカメラをもって盛んに写しまくっておられた。友史会として挨拶をしたが、数少ない由緒書に加えて境内にかかっていた売り物ではない藤並神社名人の手拭いを厚かましくいただいてしまった。社務所の奥にしまってあった5本しかないもので幸運に預かった人が5名いる。有田市郷土資料棺では、奈良大学出身の学芸員西岡さんにご挨拶して河上館長ともども、しばらく談笑する。道成寺前の食堂にて昼食をとった後、道成寺の見学。宝物段では瓦の陳列に見とれる。有間皇子の墓と言われている岩内一号墳では石室への列が長く続いた。御坊市歴史民俗資料館の見学を終えて、全員で記念写真をとる。紀伊水道を見下ろす海岸段丘上にある尾ノ崎遺跡では、多くの方形周溝墓・住居跡を実感する。あとは温泉の待つ白浜へ一路である。
 一風呂洛びた後の夕食会では、会長の挨拶、副会長の乾杯発声に続いて、河上館長からミニ講座があったあとは親睦の幕開けである。ビールにお酒にピッチが上がる。河上館長がビールを持って、みなさんの席へ。阿波徳島でも参加された方が大変喜んでいましたが、今回も同様で館長の心ねの優しさを肌に感ずるありがたいことでした。宴のあとは、恒例のラウンジでのカラオケ大会である。参加者は約30名という脹やかさで、日頃鍛えた喉を披露される方が入れかわり立かわりである。
 さて、2日目ではまず出発前に白浜海岸にある古墳などに散策をされた方も多かった。安久川河口近くの微高地に立地する脇ノ谷・安久川二つの古墳を見学。白浜温泉の歴史を中心とした民俗温泉資料館、南方熊楠記念館から磯間岩陰陰跡へ。岩陰遺跡は第三紀の軟質砂岩が海蝕により出来たもので、岩室・火葬跡・埋葬跡の遺構の説明に、珍しい遺跡と併せて興味深々であった。田辺市周辺の遺跡が数多く展示されている市立歴史民俗資料飴では銅鐸・瓦・土器などを見学。高山寺では境内に貝塚遺構が残され、また特別に見学させていただいた寺の収納庫には展示物がところ狭しと並んでいた。最後の見学先である三栖廃寺塔址では巨勢寺出土の瓦との関連や時の天皇が白浜行幸の折にはここに宿をとった可能性など興味深い説明があり、あとはにわか発掘員さながらに歩き回る姿があった。
 河上館長・河内先生からは車内講義や新聞に出ていた巣山古墳の話など冬きない話題そして会員間の会話もはずみ収穫の多い史跡見学であった。
 最後に河上館長・河内先生にあらためてお礼を申し上げます。(小川紘史)
新大阪集合
10:00時新大阪駅1階団体待合室に集合。参加者に名札を用意。女性は赤色文字,男性は青色文字と区別してある。
他にも遺跡研修団体行動に必要な情報が書かれている。友史会事務局の小林弘美さんの工夫によるものである。
商都バス乗車 
前回の徳島研修旅行も商都バスを利用した。通常の観光コースではない特別な一泊二日の長時間研修ともなるとガイドさんの力量がものをいいます。どんな案内をしてくれるのか参加者の楽しみのひとつでもある。
今回もすばらしい ガイドをしてくれたことに拍手を送ります。
泣澤女古墳
有田川流域の横穴式石室最大規模古墳であり、ここから、7世紀前半の土器の遺物など出土している。
興味があるのは出土した14本の歯、12歳の女性の歯という推定である。被葬者の子供の女性が最大規模の墓に埋葬されている。
よほどかわいがられ,親しまれた女性に違いない。古墳の名前が泣澤女であるのは,有田川流域の多くの人がその死を嘆き悲んだ女性と理解すべきかも知れない。
河内氏解説
今回羽曳野市教育委員会の河内氏に講師のご協力を頂いた。氏は、和歌山県で発掘調査の実績をもつ次世代の考古学会を担う一人でもある。解説を聞いていても味わい深く楽しいものである。進取と気鋭の風はおおいなる説得力を持つ。

道成寺へ
この寺は奈良時代前期(701年)に法隆寺伽藍配置様式で創建され,1378年に再建の歴史をもつ。
立派な銅鐸が遺物展示場にあったが出所不明では想像力が働かず興味がそがれた。興味があったのは平安時代初期の千手観音立像である。カヤ材で一木漆箔造、一丈の頼りがいのある子年の守り本尊である。
有田市郷土資料館
平成元年に開館。和歌山県の誇るみかんの資料館が中にある。全国的に博物館などの入館者が減少傾向にあるらしいが、こうした博物館や資料館は現地の歴史・文化を知る上で欠かせないものであり、時間があれば必ず訪れてみたいものである。
岩内1号墳
7世紀中頃の横穴式石室墳で、銀線蛭巻太刀や漆塗り木棺片や飾り金具などの副葬品から,蘇我の赤兄のワナにかかり憤死した有馬皇子の墓に比定されている。もとより完全証明のできない話であるが、文献的にも、考古学的に最も有力な判定要件が備わっているようなので、そうだと信じている。このへんが素人の強みでもある。
御坊市歴史民俗資料館 全員写真
非常に素晴らしい環境の中にある。昭和一桁生まれの人にはまだ子供の頃、実際に使っていた生活道具などがあって懐かしさと時代の変遷を感じる。
漁業・農業用関係の道具が多かったが、「こえたんこ」といわれていたものが無かったのは衛生上のことからか。
或いはもう日本列島に存在しないのかもしれない。
尾ノ崎遺跡
日高川河口近くに、4世紀後半から五世紀前半にかけての方形周溝墓といわれる18基の墓などのある遺跡である。
紀伊水道に突出した海岸段丘上に縄文・弥生・古墳の各時代に生きた人々生活のあとが刻まれているところ、ということであるが、なにもまして景色が素晴らしい。古代人にとっても見晴らしの良さは無視できなかったに違いない。

館長新鮮講座
恒例となった河上館長のその日得た歴史情報素材を、新鮮な間に料理して、夕食前のアペリチとしていただくひとときである。
料理の味付けは、どこに視点をおいて見るべきか、そしてその意義付けをどのようにするか,である。
30分程度の間であるが、より深く知りたい気持ちと早く食べたい気持ちの錯綜した葛藤の時間巾でもある。
この日,一日の研修は無事終了し、お互いの健康を祝し乾杯に入った。
安久川古墳
箱式石棺をもつ古墳時代後期の円墳である。用途不明の鉄器や鉄ぞくなど多数埋葬されていたとのことだが、その古墳の性格はよく分からない。遺物は原位置で検出されたとのことで,副葬品の埋納の仕方に特色があるとのことである。
白浜民俗温泉資料館
全国の温泉情報や白浜の歴史・風俗情報が分かりやすく展示されている。平原公園内にあり,広広として大変気持ちの良い場所である。
南方熊楠記念館
熊楠墓参
1867年和歌山市に生まれた博物学の巨星、また柳田國男と並ぶ民俗学の創始者でもある。10数ヶ国語をこなし多くの研究論文がある。
生涯在野の学者に徹した偉人である。昭和16年,76歳でその生涯を終えている。高山寺に眠っている。
磯間岩陰遺跡
4世紀後半から7世紀にかけて継続して築造された石室が八基あり,その6つの石室から十二体の人骨が出土している。
漁労者の同族墓と見られている。特に,第1号墓石室には、鹿角製剣や鉄鉾や鳴鏑などの武器類が見つかっており、この集団の首長墓であった可能性が高いということである。
田辺市立歴史民俗資料館

巨勢寺式の類似瓦
展示は小学校高学年対象とした民俗資料館であるが、プロの館長をひきつける展示物があった。
巨勢寺式瓦に酷似した瓦があったからである。道成寺にもあったらしが気がつかなかった。
何故そういうものがあるのか、素人には分からない。概略説明して頂いだき納得したが、やはりプロの目の付け所は違うものである。謎解きは別の機会に。
高山貝塚遺跡
高山寺は聖徳太子創建,弘法大師中興の由緒を持つ古刹である。境内の台地には南・西・北の三ヶ所に貝塚があるとのことである。縄文時代の早期というか7000年以上も前の話である。
押型文の尖底土器や撚糸文の土器、石器や獣骨なども見つかっている。
小山修三さんによると、この時代、日本列島に20,000人程度の人間が住んでいたらしいが、ここにはどのくらいの人々が暮らしていたのだろうか。
三栖廃寺塔心礎
一辺9mの瓦積の基壇があり,礎石の中央部に円柱の穴がある。三重塔の心礎と推定されている。奈良時代前期の瓦のほか石製の相輪や天蓋の一部、青銅製の風招なども出土しているとのことであるが、今は全く人影もない。
曼珠沙華が、この終焉してしまった風景により一層の歴史の趣きを添えていた。


参考:中・南紀古代遺跡見学会資料・田辺の指定文化財
(文責 中根正喬)