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(1日)海印寺→大加耶王陵展示館→池山洞古墳群→慶北大学資料館→大邱博物館
(2日)フン皇寺→皇龍寺跡→感恩寺跡→文武海中陵→舎羅里古墳群

5日目:8月1日(土)
海印寺修多羅蔵・法宝殿
海印寺は三大寺刹の一つで、加耶山(1430M)の側面にあり、ここには1236年から51年かけて彫造された81,200余枚の大蔵経が今も保存されている。保存にはさまざまな工夫がなされており、版木を収蔵した法宝殿の上下の窓枠の大きさを換気をスムースに行えるよう物理的に変えているとの説明でであった。この大蔵経を室町時代以降、西国の大名らが盛んに要請し、実際に何本かがもたらされ、いまも残っているということである。寮舎の近くに、山から滲みでる水が竹樋を通して落ちてくるところがあたが、まさに甘露であった。
大加耶王陵展示館(高霊)
かって大加耶といわれた国があった高霊地の古代古墳文化を復元紹介している。その内容は、主に池山洞古墳群の発掘状況の復元や出土物が展示されている。さまざまな角度から見学できるように館内は円形になっており、中央部に遺跡、周囲に出土遺物が配置されている。円の中を横切る桟橋もあり、照明にも工夫が見られる迫力ある展示館である。
池山洞古墳群
大加耶時代の5-6世紀頃の遺跡で、石棺墓・石槨墓・石槨室・石室墳など多様な形態の墳墓がある。頂上部の古墳群は王陵に比定される。全体的に細長い石槨がほとんどで、墳丘周辺に護石をめぐらした点に特徴がある。王陵級の44号墳にあたる石槨墳は、3基の主槨を中央にし、殉葬墳である32基の小形棺墓と石槨からなっている。 このほか32号墳からは金銅冠・金製耳飾り・大刀・馬具・武具などが多数出土、内部に17枚の鉄テイが敷かれていた。とのことである。
テレビ取材 
地元テレビ局や新聞社が友史会韓国遺跡見学風景を取材に来た。大加耶展示館では、蒸し暑い日であったが、地元の教育関係者がわさわざ、正装してこの地域の古代文化の説明にあたってくれた。ありがとうございました。
慶北大学資料館 (大邱)
一大学の資料館としては立派すぎると思うほどの資料がある。市の文化財を移管したとのことであるが、見学時間が限られており、走るようにして見た。韓国文化財に指定されている石碑と石仏などが展示されている別館も見学することができた。入るのに鍵を開けていただいたが 、平素は一般の見学者には対応していないらしく、錠前に蛛の巣が少しかかっていたように思われた。
6日目:8月2日(日)
フン皇寺
新羅が仏教を国教として公認したのは527年法興王の時、日本では磐井の乱が起こった年である。以後新羅国内で、仏教文化が花開く寺院が建設されて行くが、フン皇寺や皇龍寺はその初期の代表的存在とのことである。フン皇寺には日本ではお目にかかれない、情緒をもつ石塔があった。塔の四面の入り口両サイドにそれぞれ二体の獣像らしきものが守護している。敢えてその由来は確認しなかったが、中には絶対に入れないぞという決意の感じられる造形物であった。 側にひっそりと夏スイセンが咲いていたのが印象的であった。帰りに瓦一枚を寄進する機会があった。
皇龍寺址
チャータバスは釜山発で、運転手のパクさんも皇龍寺址案内は初体験であったろう。
河上館長が多分この辺であったと思うといことで、独りバスを降りた。
ずばり正解で、すぐに広大な敷地面積をもつ遺跡が目に入って来た。皇龍寺址である。現在なお発掘調査中である。作業風景は見られなかったが、随所に瓦片やよく分からないが土器片らしきものが土中から顔を出していた。かってはここに九層の仏塔が建っていたらしいが、高麗時代に蒙古との戦いで消失してしまっとのことである。歴史的にそんなことがあったとは想像もできない、今は静かな明るい風景である。
感恩寺址 
かっては神国寺といっいたそうであるが今は改名され感恩寺になっている。
新羅が三国統一できたことを感謝するという意味を含めて感恩寺になったのではないかと金達寿氏の指摘である。百済寺院の伽藍の基本配置は『一塔一金堂』方式で、日本では四天王寺がその最初の代表と知ったが、新羅国にあるこの寺は『二塔一金堂』方式で、奈良の薬師寺や枚方の百済寺址と同じような配置である。見晴らしはすばらしく、青空を天蓋として堂々としている。二塔はこれまで何を見てきたのであろうか。
文武海中陵(大王岩)遠望
文武王陵案内板
韓国も既に夏休みに入っており、海岸の砂浜には海水浴を楽しむ人達でにぎわっていた。笑顔が満ち溢れ、まさに平和な風景を見た。東アジア全体が騒然としていた7世紀後半頃に、かっての新羅の第30代文武王は自分は死んでも海の竜となって国を守る。墓は海に作れと遺言したと伝わっているが、このような光景がみられるのはそのお陰かもしれない。
舎羅里古墳群(慶州市) 
現在も発掘調査中の遺跡で、現場に立つとあれこれと想像をかき立てられ、気持ちが高ぶっていつまでも遺跡にいたくなってくる。これまで原三国時代前期の土壙墓と後期の木槨墓や新羅時代の墳墓が調査されたとのことである。 130号と名付けられた古墳からは7列63点の板状鉄斧が敷き詰められた状態で見つかっている。また棺の下の腰坑といわれるくぼみ穴からは有機物の痕跡があり、腰坑のあったもう一つの茶戸里遺跡との関連が注目される。
出土物には水晶・ガラス製首飾り・青銅鏡・鉄剣・銅剣・青銅釧・鉄斧・瓦質土器などあるとのことだが、これらの遺物がどんなものか見ることはできなかった。
釜山空港から帰国
8月3日(日)釜山空港12:00発JAL便で6泊7日の韓国遺跡研修旅行を無事終了し帰国。この間のスケジュールとしては、遺跡見学・博物館・大学資料室・発掘現場など総数32ケ所を訪問した。 中にはこの研修企画に参画しなければ見ることのできない遺跡や展示室にも立つことができた。橿原考古学研究所付属博物館館長河上邦彦氏の見えざる労に感謝申し上げたい。ただ、余りにも集中的に多くの考古学情報を浴びせられ、未消化のまま帰国してしまったので、この後、誤りなくうまく整理できるかどうか疑問である。率直な指摘と河上館長のさらなるご教示を賜りたいものである。
参考資料
第4回 世界遺跡の旅 韓国編資料集
国立中央博物館図録
国立光州博物館図録
国立金海博物館図録
福泉博物館図録
国立公州博物館図録
国立大邱博物館図録
東亜大学図録
慶北大学図録
(文責 中根正喬)