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(29日)福泉洞古墳群→金海博物館→松鶴洞古墳群→晋州博物館→晋州城
(30日)光州博物館→月挂洞1,2号墳→明花洞古墳→チャラボン古墳→木浦海洋遺物展示館
(31日)扶余博物館→軍守里廃寺跡→陵山里古墳群→百済羅城跡→宋山古墳群→公山城

2日目:7月29日(火)
福泉洞古墳群と博物館
福泉洞古墳群は釜山市街地の標高50-60M程度の大砲山という丘陵にあり、これまで30基ほどの古墳が発掘調査されいる。木槨墓・石槨墓・石室墓などが時期と場所を異にして築造され、5世紀代の古墳群からは土製の馬頭形角杯・冑や馬具類また山字形金銅冠なども出土した。金製品は少ないとのことである。 出土物は新羅的色彩が強く、埋葬者は新羅の政治支配下にあったと見られているが、高句麗系武器や倭系土器などもあり、活発な、広範囲な交流が行われていたに違いない。
福泉洞古墳土器出土状況
福泉洞竪穴石槨墓 (東莱)
松鶴洞古墳群(固城)
今回戴いた資料の中に、この古墳の測量図がある。それによると、6基の古墳があり、第1号墳が一番高い35Mに位置している。現在松鶴洞古墳群は韓国の史蹟119号に指定されている。国立金海博物館図録では、これらの古墳群のある固城地域の小加耶文化の調査があまり行われておらず、またはっきりした支配層の古墳群とおもわれるものも調査がないので、具体的に理解できないのが実情である。 としている。現在、三色団子を並べたように美しくバランスの取れた古墳群の配置になっているが、 復元するときの関係者のセンスが強くはたらき過ぎいているように思われる。
3日目:7月30日(水)
月挂洞1・2 号墳(光州) 
全南地域の長鼓墳(前方後円墳)は5世紀から6世紀にかけて築造され、現在9基ほど発掘調査が終わっている。光州にはこの月挂洞1号・2号墳と明花洞古墳が知られていが、いずれも横穴式石室を持ち、1号墳は全長45.3M、2号墳は34.5Mの大きさの古墳である。月挂洞1号墳からは日本の埴輪とよく似た円筒形土器が出土し、時代や墳形や出土物からみて、どうも日本の前方後円墳をモデルにしたのではないかと言われている。古墳のある周囲はビジネス街で、よく保存して戴いたなと拍手したい。
明花洞古墳 (光州)
1994年に光州博物館により発掘調査された古墳で、栄山江流域の前方後円墳の一つである。全長は33M,円墳部は18M、方形部は14.5Mとさほど大きな古墳ではない。12個の円筒埴輪が出土しているらしいが、6世紀代の倭と朝鮮半島南西部との深い関係を示唆するものである。雨あがりの畑の赤土畦道をドロドロになって進んだが、竹や雑木が茂っていてよくその姿が確認できなかった。 風水思想の感じられる立地条件にある。
ャラボン古墳(スッポン峰古墳) 霊岩
チャラボンとは韓国語でスッポンを意味するとのこと。古墳がこのような形をしているので名付けられたらしい。生方文代さんという霊岩郡庁文化観光課勤務の日本人の方に案内していただいた。この古墳は竪穴石室をもった韓国でただ一つの前方後円とのこと。全長35.6M、高さ5M程度の大きさで、常日頃大きな古墳を見慣れている参加者にとっては驚くような古墳でもなかったが、何故こんなところに形態の異なった古墳が、畑の中にポツンと孤立しているのか気になった。この近くは日本に千字文をもたらした王仁博士の誕生地ということでもある。
4日目:7月31日(木)
国立扶余博物館図録(日本語版) 
今回訪れた博物館や展示館では必ず図録を買い求めるようにしたが、日本語版も結構発行されている。因に、この国立扶余博物館図録は30,000ウオンで、日本円で3,000円くらいのものである。総じて物価が日本の半額くらいの感覚であるが、それに比較するとやや高いかなという思いはある。しかし、内容は奇麗なすばらしい写真が多く、図録作成には随分コストがかかっているように思われる。写真は1998年発行の193ページ日本語版図録である。
定林寺址
百済の典型的な『一塔一金堂』方式の伽藍配置の寺で、創建当時の五重の塔が残されている。扶蘇山を背後とした金堂基檀や講堂基檀、さらに東西の池の配置など創建当時の姿はさぞ立派で清楚な寺であったに違いない。
陵山里古墳群
これまで、8基の古墳が発掘調査されている。百済王陵があるとして伝承されているところである。発掘調査資料から、被葬者の階層によって古墳の構造が変えられているとみられており、玄室の幅と玄室の長さの比率に特徴があるとのことである。6世紀後半から7世紀代に広がった石室構造で陵山型石室と名付けられている。考古学専門の微妙な変化点なので、われわれ素人にはよく分からない。
百済羅城跡 
当初は見学の予定には入っていなかったところである。陵山里古墳群見学後、河上館長がこの近くに羅城があるといって、急遽バスを移動させた。単なる観光コースを予定通り走らせている研修と違って、時・場所・必要にに応じて臨機応変に研修できる団長が味方ににいるので、友史会会員にとってはありがたいことである。百済は3回遷都しており、 聖王16年(538年)都を『南扶余』の国に最後に移したとき、羅城が築成されたといわれている。 写真では、全体にきれいに整備されているが、黒く写っているところがオリジナルのところである。
宋山古墳群
今から、32年前の1971年7月8日、この宋山古墳群の中から世紀の大発見があった。
未盗掘の武寧王の墓が発見されたのである。この絶対年代を確認できた陵墓の発見はどれだけ世界の考古学会の発展に寄与したことことだろうか。素人目にもその大きさが計り知れないことが分かる。
宋山里古墳群は20余基の古墳が三群(A.B.C)にわてって分布しているとのことだが、B郡の一番高い場所の古墳が武寧王陵で、5号・6号29号の古墳を従えているように見える。中国南朝の墓室を採用しており、出土物のすばらしさは言語を絶するとだけ記しておこう。倭で生まれたといわれる東城王(末多王)の後を継いだ武寧王、そしてその後を継いだ聖明王の5世紀後半から6世紀中頃の時代、倭では雄略天皇・継体天皇・欽明天皇らが登場して盛んに政治交流を進めている。事実はどのような思惑があって、どのようなことを話し合っていたのであろうか。結局はすべてが実りあるものにはならなかったのではなかろうか。
公山城 
何があるのか見てみたい。そんな思いで30分ほどのゆるやかな山の道程を登っていった。目についたのは、城壁と大井戸と石畳と門などである。三国時代の朝鮮半島では盛んに山城がつくられたらしいが、日本と異なり陸続きの国ではいつでも敵が宣戦布告なしに攻め込んでくるおそれがあるので、必然的にそうならざるを得ないのかもしれない。漢城から遷都した熊津時代の60余年間、短期間で更に遷都しなければならなくなった後の歴史を見ると、この城はあまり堅固ではなかったのかもしれない。